吹き抜ける風が輝いて目に見えるような爽やかな秋晴れの日だった。
私はピクニック用の椅子に腰掛けて、青空の下、冬の訪れを感じる涼しい風を全身で堪能する。今日はこの中で一番の年寄りなんだから飯を待つだけの立場に甘えてもいいだろう。頭の中で言い聞かせ、若者三人が慣れない野外の食事の準備に右往左往するのを、ありがたくて、尊い光景だと思いながら眺めていた。
「サトウさん、ショーユとミソ、一緒に入れてもいいんですか?」
「だめだめ、醤油は醤油、味噌は味噌で分けておくれ。醤油の方には牛肉、味噌の方には豚肉。間違えないで。昔はそれで血を見るような争いが起こったんだから」
「あはは、おもしろい冗談! じゃあちょっと待っててくださいね」
アンちゃんが私の背中を何度か軽くさすりながら太陽みたいなほほ笑みを浮かべ「別だって!」と、秘密の答えを教えてもらったことを自慢するように話した。声をかけられたうちの一人のレオンくんは「えーじゃあ俺鍋取ってくるよ」と、座った姿勢のまま少しだけめんどくさそうな顔をした。私が行こうか? という言葉に「大丈夫だよこんくらい」と無愛想に返すと、日差しで茶色く光る黒髪を風でなびかせながら、彼は台所に戻って鍋を探しに行く。
「サトウさんのご先祖様って東北の方だったんですか」
「あぁ、トーホクの出だそうだよ」
新しい鍋が来る間に火おこし担当のスバルくんが新しい薪をくべ、火が回るのを待ちながら話した。青空の下でキャンプをすると聞いてから心配していたけれど、都会出身だという割には手際が良い。誉めると、本をかき集めて予習してきたんですと照れくさそうにしていた。
「私も父も祖父もこっちで生まれたもんだから、トーホクに先祖がいたのがもう何代前のことだか、私にはもう分かんないねぇ。調べようがないし」
「東北は日本でも雪がかなり降る場所で、名物が多いですね。きりたんぽとか林檎とか。僕は、まぁちょっと行ったことないんですけど。あ、そうそう酒処とも聞いたな」
「酒! いいねぇ。私も行ってみたいなぁ」
「……今日くらい飲みます?」
「いんや、妻に怒られるから」
「あはは、確かに赤ら顔では格好つかないですね」
煤で鼻の頭を黒くしたスバルくんがからかうように笑った。しばらくして火が十分に起きると大量の水を入れた鍋を火にかける。沸騰まで時間がかかるから、みんなでその間に野菜の準備に取り掛かった。
「どれ、私も仕事をやろうかな」
よいしょと立ち上がると突然立ち眩んだ。視界が真っ暗になって足元がおぼつかない。「大丈夫ですか?」と駆け寄ったアンちゃんに「年を取るのは嫌だね」と笑いながらしゃがむと、土のついたサトイモを手に取ってバケツの水で洗った。
洗ったサトイモはレオンくんが分厚く皮を剥いていく。スバルくんに「丁寧にやれよ」と注意されて「うるさいな」と悪態をついたけど、丁寧になる手つきを見て、根は素直だと分かるのがほほ笑ましい。
「こんなに太ったサトイモが手に入るなんてねぇ」
サトイモを皺だらけの手で取りながら私が言った。本来このサトイモは若者三人がもらったものだけど、以前私が芋煮会の話をしたことを覚えていたレオンくんが「サトウさんにご馳走しよう」と提案してくれたことで、今日は夕食兼芋煮会にお呼ばれしてもらったのだ。
「そもそも、おイモって種類があるんですねぇ」
「え?」
「今の今まで、あれもこれもイモは全部おイモって名前だけだと思ってました」
サトイモを寄り目になるほどまじまじと見ながらアンちゃんが真面目なトーンで話すのがおかしかった。確かにアンちゃんが料理を好むという話は彼女の亡くなった母親から聞いたことがない。
「ははは、それは流石に違うねぇ。そもそも見た目全然違うでしょう」
「個体差かな〜って」
「聞いてよサトウのおっちゃん。アンってば朝『サトゥイモとこれってどう違うの?』って、ジャガイモと比べてたんだぜ。全然違うのにさー。アンは料理に興味なさすぎるよ。嫁にいけねーよ」
「まぁーレオンくんったらアンちゃんに惚れてたくせに」
「はぁ⁉ 惚れてねーし! ばか!」
色白の肌を真っ赤にしながら反論する。彼はまだ若いから、こんなふうにいじられているのを何度も見てきた。
「いざとなったら貰ってくれるんじゃないのぉ~」
「もう忘れたし!」
「あー! 酷い振られた! えーん、ねぇスバル~レオンくんに振られた~」
「レオン、明日の朝飯抜き」
「スバルにチクんなし!」
「ははは。お姫様を振るなんて罪な男だねぇレオンくんは」
青春だなぁ。私は口から出かけた野暮な台詞を胸内に隠して、イモを剥きながら三人のやり取りをほほ笑ましく思っていた。
皮を剥き終えたら鍋にサトイモを入れ、浮き出た灰汁をスバルくんが掬い取った。彼のお手製だという醤油と味噌をそれぞれの鍋に入れ、サトイモが十分に煮えたのを確認してから肉を入れていく。出汁と肉の脂が溶ける匂いが混ざり合い、鼻腔をくすぐった途端、涎が止まらなくなった。
芋煮に特別な思い入れを抱いてしまうのは、ニッポンのトーホクに住んでいた先祖の血が私にも受け継がれているからだろう。私が子供の頃の話になるから何十年も前の話になるけれど、今日のような芋煮会は日系人を集めて秋頃に毎年開催されていた。みんな本当のトーホクなんて知らないくせに、「うちこそが本家だ」と言い張って、醤油味と味噌味の派閥争いを毎年性懲りも無く行っていた。血気盛んなやつは買い言葉に売り言葉で喧嘩を始める始末だから、子供心に「どっちも美味しんだから大人気ないな」と感じていたことを思い出す。
あぁ、それにしても早くこの鍋を口いっぱいに頬張ってしまいたい。欲求がだんだんと膨らんでいって胃袋もギュウギュウと音を鳴らした。
「これがイモニ! 美味しそう!」
白い湯気が立ち、空へ伸びては消え伸びては消えを繰り返す。できあがった鍋を覗き込んでアンちゃんが嬉しそうに匂いを嗅いでいた。スバルくんがいるから和食は食べているはずだが、芋煮は流石にないみたいだ。
「レオンくんが剥いたおイモがどれか分かるわ」と言いながらできたての芋煮をお椀に移し、
「サトウさんどうぞ」と手渡してくれる。
「ありがとう姫」
深々と頭を下げる。アンちゃんは「やめてくださいよ」と笑って私の背中をさすった。
「俺、芋煮って初めて食う。味噌は豚汁みたい」
「僕も初めてだなぁ。醤油の方は薄いすき焼きっぽい匂い」
「スバルもないの? 意外ね」
「芋煮って所謂ローカルフードなんです。僕はずっと東京だったし、親戚も全員関東だから」
野外用に出したテーブルと椅子にそれぞれが腰掛けて箸やスプーンを手に取ると、「今日はニッポン風でやりましょうか」とアンちゃんが提案する。よって、全員で「いただきます」と手を合わせてから熱い芋煮を味わった。
箸で簡単に切れるほどトロトロに煮えたサトイモを頬張る。イモは滑らかな舌触りで、一個食べたらすぐ次が食べたくなる。だがそこを我慢して牛肉を口に含むと、牛とイモの抜群の組み合わせにより私はつい「んんん~」と声を上げた。柔らかすぎるほど煮たネギや白菜にも出汁がよく浸みこんでいて、噛むとうまみの含んだ汁があふれ出す。醤油と味噌を交互に食べつつ、各々がこっちの方が好きだとか、唐辛子を入れた方が良いはずだとか、ご飯をしめに入れようなど言いながら好き好きに食べてった。
♢
「あぁ、美味しかった」
一時間ほどで両方の鍋を食い尽くした。
しめのおじやまで食べた我々はふぅと幸福の息を吹きながらそれぞれ腹をさすっている。
「久々にこんなにお腹いっぱいになったよ。今日は誘ってくれてありがとう」
「喜んでもらえてよかったです。企画してよかったな。レオン」
「だ、だっておっちゃんが前、芋煮が美味いって俺に自慢してきたから」
「私そんなこと言ったんだねぇ。ありがとう、覚えていてくれてうれしいよ」
時間は黄昏時だ。青空と夕焼けが混じり、空が三色に染まるマジックアワーは、まるで宝石のように美しい。
『ノスタルジックな気分になるでしょう? だけど、とっても綺麗じゃない。私ね、夕焼けを見ると心が洗われるような気がするのよ。美しいわ』
この時間帯が妻は一番好きだった。そう言って笑う妻は、世界で一番美しかった。
今でもその時の妻の顔は鮮明に思い出せるし、鈴みたいに綺麗な声だって、吸い込んだ空気の冷たさだって、私ははっきりと覚えている。
「そろそろ、トモコに会いに行く頃合いかなぁ」
妻が亡くなってからの二十数年間。私は一刻だって妻のトモコを忘れたことがない。
「もう充分だよ。アンちゃん、スバルくん、レオンくん。最期の日に、素敵な思い出をありがとう」
二十数年前の話だ。大流行した未知の感染症でトモコが亡くなってから、私は寂しくて寂しくて仕方がなかった。彼女を失った私は心に穴が空いたような気持ちを隠しながら、それでも、何も希望のなくなった世界で生き残ってしまった人々と愚痴をこぼしながらもなんとか過ごしてきた。
けれども二年ほど前だろうか。鏡に映った顔が何となく、いつもより黄色い気がした。気のせいだろうと思ってほっておいた。そのうち立ち上がれもしない日が増えていった。
前は癌なんて風邪と一緒の扱いで、飲み薬で治るうちの一つだった。だから当時の私は父親が癌治療を受けたと聞いても、指先の小さい切り傷なんて誰も心配しないのと一緒で、それがどんな病気かなんて興味を持たず、知識として癌がどういう病気なのかを知ろうともしなかった。
残された医学書を読み漁って見つけた癌患者の特徴と、骸骨みたいに痩せてしまった私の身体や体調不良の特徴は見事なまでに一致した。
己の愚かさを嘲笑うことしかできやしない。
私の体は父と同じ癌におかされ、死の順番が巡ってきたのだ。
「ごめんねアンちゃん。寿命が来るまで死なないと決めていたんだけど、病気でボロボロになっていくうちに、こんな見窄らしい顔でトモコに会うのが嫌になってしまったんだよ」
「いいんです。どうせならトモコさんだってイケメンなサトウさんがいいに決まってますもん。トモコさんと神様が笑顔で待っていてくれますよ。痛くないし苦しみもありませんから、だから、何も恐れなくて大丈夫です」
「――許してくれるかい? アンちゃん。君の力を使うつもりは本当になかったんだ。君の力に頼る大人たちを何人も見てきて、ずっと嫌悪していたよ。でも、今じゃ苦しみながら死ぬのが、恐ろしくて、とても怖いんだ。トモコがいないのにそんな苦労、私にはもう耐えられそうにないんだよ。病気になって床に伏せるのが増えてからは、毎日早くトモコに会いたいとばかり思っているんだ。だけど情けない話だ。……自殺も怖くてね」
「怖くて当たり前です。そのために、私がいるんです」
アンちゃんが皺だらけの私の手を握ると同時に体の痛みがすぅっと引いていくのが分かった。私がこの話をしてからはレオンくんは唇を噛んでうつむいている。レオンくんは泣き虫だから、私のことを寂しく思ってくれているのかもしれない。スバルくんはアンちゃんのサポートをするために強張った表情を浮かべながらそっと立ち上がった。
「……願わくは 花の下にて 春死なん その如月の 望月の頃」
「え?」
「昔の唄だよ。昔の偉いお坊さんが詠んだそうなんだ」
不思議そうな顔をするアンちゃんの横で、スバルくんが答えた。
「国語の時間に習った覚えがあります。確か西行法師です」
「流石流石。ほんとは私よりおじさんだもんねスバルくんは」
もちろん私の方が何十歳も年上なのだが。
「…………どんな意味なの?」
私たちの会話に暗い声のままレオンくんが入った。彼の生い立ちについては聞いているが、きっと習う機会がなかったんだろう。
「願うなら、春、桜の下で死にたいものだ。仏様が春の満月の下で亡くなったように。という意味だよ」
誰も返事をしないけどみんなが私の言葉を聞いてくれているのが分かった。アンちゃんが私の体の痛みを取り除くために背中をさする。人肌を感じるのはとても気持ちがいい。
「お坊さんは無欲であることが良いことらしいんだ。だけど、桜と満月の下で死にたいなんて、無欲とは正反対の贅沢な望みだと思わないかい? 人間いつ死ぬかなんて分からないのに死に方を選びたいだなんて、なんて烏滸がましいことかと思ったんだよ。……だから初めて知った日、お坊さんのくせに人間臭いなと思ってなんとなく覚えていたんだ」
今の季節に桜は咲いてないし、満月も出ていない。
「私も、西行法師と一緒だなぁ。死に方を選びたいと思った」
けれど、最期に楽しい思い出を作れた。
妻が好きな時間に死ねることが嬉しかった。
「私はこの唄が年を取れば取るほど人間臭くて好きになったんだよ。きっとお坊さんだろうと、最後は大好きなものに囲まれて死にたいと思ったんじゃないかなぁ……。その気持ちが今では分かるよ。私も、できればトモコの手を握りながら死にたかった。それはもう叶わないけど、だけど今の人生で一番好きな人たちに囲まれて死ねるんだから最高だよ。私は、本当に幸せ者だ」
あの世でトモコに会ったなら、どんな顔をするだろうか。怒るだろうか、喜ぶだろうか。どちらにせよトモコが死んでからの人生を一つ残らず聞いて欲しい。あんなことやこんなことが起こってしまったあっちの世界も、まだまだ捨てたものじゃないんだよと熱弁したい。
「それじゃあ、またいつかね」
別れを告げた私はそのまま目を閉じて、アンちゃんに身を委ねた。アンちゃんがゆっくりと唱える言葉に耳を傾けているうちに、だんだんと意識が遠ざかる。
子供の頃、寝たふりをして親に布団まで抱っこしてもらった時みたいな満足感。
愛する人と裸同士で抱きしめ合ってるような幸福感にも似ている。
暖かくて、不安なことなんて一つもない。幸せの国に行けるような気分。
トモコ。
出会えたら、また君とマジックアワーの空の下を散歩したいよ。
できれば怒らずに私を迎えておくれ。君の笑顔は世界一美しいんだから。
♢
「………………死んじゃったの?」
風が雑草を揺らす音ばかりが響く庭でレオンがやっと口を開いた。恐る恐る開いたその口は震えている。
当たり前だ、こいつはサトウさんのことを慕っていた。それこそ父親のように懐いて、男嫌いのレオンが【サトウのおっちゃん】と呼んで親しげに話す、数少ない年上の男性の一人だった。
「レオンくんよく頑張ったね。最期まで泣かなかった」
アンさんが眠ったサトウさんから手を離すと、胸に下げた十字架を手に取り鎮魂の祈りを捧げた。白黒のウィンプル(シスターが被っているベールのことだ)が彼女の表情を隠すけど、声の強弱でアンさんの気持ちは読み取れた。
魂だけになったサトウさんがこの先、無事に奥さんに会えますように。無事に天国に行けますようにと彼女は願っている。
自分が命を奪ったあの人があの世までの道で迷子にならないようにと、この世界で唯一のシスターである彼女は祈っているのだ。
レオンはアンさんの言葉を皮切りに、わっと声を殺して泣き出した。十五歳のレオンはアンさんの仕事にまだ慣れておらず、特に知り合いが死ぬと毎回大袈裟過ぎるほど泣く。僕だって辛くないわけじゃない。サトウさんは本当に優しいおじいさんだったし、話を聞いたときには動揺した。何故なら、サトウさんはアンさんの【力】を憐れんでいた数少ない常識人だったからだ。
アンさんはこれまで何度も誰かの人生を終わらせてきた。それは、彼女が人間の生命力を自由自在に操ることができる不思議な力の持ち主だからだ。その力を使えば、人は痛くも苦しくもなく、まるで眠るように逝けるという。だからこそサトウさんはアンさんの力に頼る人々に怒りを覚え、「若い女の子に老人のわがままを押し付けるなんて何と愚かなんだ」と依頼者に唾を飛ばしながら直接注意するような正義感の強い人だった。
――そんな人でも死ぬ時はあんなに弱ってしまうのかと思うと胸の奥がざわつく。僕は冷たい空気を吸い込んで静かに深呼吸してから、心を落ち着かせた。
祈りを終えたアンさんは涼しい顔をしている。けど、彼女は仕事中は泣かないだけで、プライベートの時間になっても自分が殺した人の冥福を祈るような人だ。決して、この仕事を好んでいるわけではない。穏やかな顔で眠るサトウさんから離れたアンさんはレオンにゆっくり近寄ると、レオンの子猫みたいなふわふわの黒髪を撫でてやっていた。
レオンは車椅子の背もたれにもたれ掛かり、松葉杖をつくことも、自分の手でリムを回して、サトウさんのそばに行く余裕もなく泣き続けている。しゃくり上げた拍子に膝掛けがずれ落ちて、中身がないズボンの裾が、紐のように左右にぶらぶらと垂れた。
こいつには膝から下の両足がない。
だから無意識に、自力で歩いて、自分の恩人の遺体に縋ることもできない。
僕はレオンの後ろに回ると泣いてばかりの坊やの車椅子を押し、アンさんと一緒に、サトウさんのご遺体のそばにゆっくり寄せてやった。
「レオン、お別れの言葉あるか」
「…………」
「……こんなに安らかな顔で逝けたんだ。サトウさんはきっと幸せだったよ」
「でも、でもスバル、俺なんもできなかった」
「お別れパーティーを企画したのはレオンだろ。僕、サトウさんが芋煮の話をしてたことなんてすっかり忘れてたのにレオンが覚えてたからできたんだろ。サトウさん喜んでたじゃんか。確かに芋煮会がやりたいって、随分前に言ってたもんな」
致死率80%とかいう某ウイルスもびっくりな出鱈目過ぎるウイルスが世界中に蔓延し、この世界の人口が九割近くも減少したのは今から二十数年前の話だ。
サトウさんの奥さんが亡くなったのもこの感染症が原因だ。手の打ち用がなかったんだよとサトウさんは深酒をした日に嘆いていた。これだけでも大打撃を受けた世界だったが、もっと最悪なことが襲いかかる。世界壊滅の危機を覚えたこの国の王が、王族、医師、各分野の博士などをかき集め、人類生き残りの計画に必要な材料を載せた宇宙船で、国外逃亡ならぬ、星外逃亡計画を図った。
人類の未来には役立たないと判断した人々を捨てる慈悲のない選択だった。
臆病な王は人々が追ってこられないように乗船拒否した知識人を殺し、図書館や学校など教育の要となる施設まで焼き払った。女子供、特に妊婦は魔女狩りの如く皆殺しにされ、クーデターやデモを起こす勢力さえも根絶やしにした。それはもう二度と歴史に現れることがないと言われるほどの暴君ぶりだったという。
けれども王の蛮行には必ず神の鉄槌が下される、ということだろうか。宇宙船は飛び立って数十秒後、空上で大爆発を起こし、文字通り塵となった。
原因は今も不明。宇宙船の作りに不備があったのか、忍び込んだ反国王派が自爆テロを起こしたのか。はたまた別の何かが原因か。
色々予想はできるけど、解明したところで意味があるとも思えない。明らかにしたところで、誰も帰ってこない。
僕は泣き止まないレオンの横で遠くの景色を見た。小高い丘に建つ僕らの住む教会からは、先述した宇宙船の残骸がよく見える。国のど真ん中に建っていた城へ狙ったかのように墜落した宇宙船は、周囲を巻き込み、見るも無残な姿へと変えた。鉄とコンクリートでできた建物は紙のようにぐちゃぐちゃにつぶれ、悲惨な戦地のように原形をとどめていない。
残された人々にはそれらを片付ける能力も体力もないから城と残骸は放置された。そして二十数年という時間をかけて蔦が生い茂り、野生動物や浮浪者の棲家となっていた。
「なんで、なんで死んじゃうんだよ」
レオンが苦虫を噛み潰すかのように呟いた。アンさんは母親のような眼差しで、レオンの大粒の涙をハンカチで拭ってやっている。
「サトウさんは一生懸命生きてきたの。こんな時代にレオンみたいな可愛い息子ができたって喜んでたのよ。やること全部やりきったって笑っていたじゃない」
「だって……死ぬことないじゃんか……」
「私たちは見送ってあげよう。サトウさんの意志を尊重してあげることが、私たちにできる唯一のことよ。レオンが泣いてたらサトウさん心配で天国に行けないよ」
「アンさん。冷えてきたし一旦レオン連れて戻っていてください。僕、埋葬までやっておきますから」
「やだ。スバル、俺も手伝う」
「じゃあ泣くなよ」
「泣いてねーよ……」
「泣くなら連れて行ってやんない」
「……もうちょっと待ってよ、ばかスバル」
♢
サトウさんをみんなで見送ったら、鍋を片付けて家に戻った。レオンはずっと涙目だったけど、祈りを捧げたあとからは鼻を啜る程度に大人しくなって、夜になると一人で先にベッドに潜り込んでそのうちに寝た。心細い日に自分の部屋で寝ないのはこいつのちょっと困ったところでもある。
「レオンくんは頑張ったね」
熟睡しているレオンの頭を撫でながらアンさんが言った。
「偉いよね。まだまだ子供なのに。ほんとはサトウさんの前で泣いちゃうとばかり思ってた」
「……アンさんもおつかれさまでした」
「うん。スバルもおつかれさま。今日はちょっときつかったねぇ」
「僕は大丈夫です」
「そう?」
アンさんはベッドに座るとウィンプルを外した。家に戻ったのは数時間前の話だけど、レオンが寝たのを確認したことで彼女の中で今日の仕事がやっと終わったのだろう。彼女の茶色い癖っ毛が空気に晒されて、少し跳ねていた。
「煙草吸いたい……」
仕事で疲れた目に光が宿る。喫煙だけが彼女の娯楽だ。
「寝室は駄目です。台所で吸ってください」
「はいはい」
「はい、は一回」
「はーい」
適当すぎる返事をして、アンさんは僕の目の前でシスター服を脱ぎ始める。
突然だけど、彼女の下着姿を見るたびに「やっぱデケーな」と僕は思う。
この感想はすけべ心からではない。富士山を見れば誰だってスマホで撮影してしまう感覚と似ている。デカいものには自然と目がいくのは人間の性質だ。
しかし、僕の前でも思春期のレオンの前でも、身内の前ならどこででも着替える癖はやめてほしい。アンさんがレオンを揶揄っていた内容はあながち間違いではなく、初対面時のレオンは確実にアンさんに惚れていた。今は姉弟のような関係だけど、それでも十五歳のレオンには刺激が強い存在なのだから少しは気にして欲しい。
まぁ、僕らは大人同士だし、彼女の下着姿には慣れたものなので口出しはしない。そういえばアンさんのネグリジェ、裾がほつれていたから今度洗った時に繕っておこう。
羞恥心が欠けている彼女は上品なラベンダーのネグリジェに着替え終わった後、煙草セットを机から取り出し、首を鳴らして軽くストレッチをした。
「スバルも吸おうよ」
軽いノリの誘いに見えるがこれは強制連行の時の言い方だ。
「嫌です、それ枯草の味しかしないですもん」
僕は煙草をほとんど吸わない。僕が生きていた令和の時代では喫煙者の肩身は狭く、窮屈な喫煙ルームで肩身を寄せる老若男女を見ていたせいか、興味を持つことはなかった。
たまに煙草を吸うようになったのはアンさんに覚えさせられたからだ。一人で吸うのは寂しいからと、無理矢理慣らされたのが始まりだ。
「じゃあアンちゃんのとっておきの方あげるから〜」
猫撫で声一歩手前の声を出しながら上目遣いで僕を見つめてくる。
こうして見てみると、アンさんは普通の女の子だ。年は僕より下。ただし背が高くて、僕と並んだとしても身長差はさほど感じない。
明るい髪色に空色の瞳とそばかすがトレードマークのアンさんは、この古びた教会の女主人で、シスターで、唯一の聖職者だ。聖職者と呼ぶには軟派な性格で煙草が好きで酒も飲むし、胸も大きいし谷間を隠す慎みもないけど、彼女は生き残った人々の最期の希望として崇められている。
けれども僕はこの世界の住人ではない。僕は過去の世界からやってきた日本人だ。ついでに言うとレオンも僕と同じ日本人で、僕より後にここへやってきた。
僕らみたいな人間は昔なら珍しくなかったという。この世界は技術の進歩が凄まじく、時空の歪みやらズレのせいで人間やものが別の場所からやってくる現象についてとっくの昔に解明されていた。そのため、昔は同程度の文明間は海外旅行に行く感覚でゲートがつながっていたそうだ。
ただ、先代の王が文明をめちゃくちゃに壊してしまったせいで他世界との交流は途絶え、文明的とはいえない寂れた星へと逆行した。そういうことで、知識はあっても技術がない世界では、僕とレオンが元の世界に帰ることはもう不可能だと考えている。
だけど僕はここでの暮らしを気に入っているし、今さら帰る気も湧かない。アンさんといるのは気が楽だし、ここは静かで僕が僕らしく生きていけているからだ。
「煙草なんてなくてもついていきますよ」
「やった〜スバル好き」
寝室から台所に向かう途中の廊下から月が見えた。満月でも新月でもない中途半端に太った月で、昼間にみんなで食べたサトイモみたいな形だと思った。
「変な月ね」
「僕もそう思います」
「――ねぇ、私もいつか、桜の下で死にたいって思うのかな」
台所で煙草に火をつけた彼女は向かい合う様に椅子に腰かけた。椅子の上で三角座りするからパンツが見えそうだ。僕は注意しながらその辺にあったブランケットをかけてやる。
「死に方を選びたいと思うのは、人の本能なのかしら。一人で死にたい人、誰かに看取られたい人、色んな人がいて……。うーん、うまく言葉にできない。ただお祈りしてる時に思ったの。私も自分の死に目を決めたいと思う日がくるのかなって。ほら、私の所に来る人はほとんど覚悟を決めた人ばっかじゃん。でも、自分の終わりを自分で決めるって別に悪いことばかりではない、はずじゃない? 前は何とも思わなかった……は嘘だけど、最近考えることが増えた気がする。スバルとレオンくん、二人と暮らしているからかな」
彼女はのんびりとした口調で言い終えると、煙草の煙を深く吸いこんで、はぁーっと白い煙を口から吐いた。臭いから察するに今日は軽めにブレンドしたタバコの葉を選んだみたいだ。もくもくと立ち上がる煙を傍目で追いながら僕は白湯を啜る。
「まぁぶっちゃけ、自分が死ぬイメージなんて全然想像できないけどね〜。じいさんばあさん見送るので手一杯だわ」
アンさんは冗談っぽく笑ったけど、SNSにでも音声が流出すれば不謹慎だと騒がれそうな台詞に苦笑いした。まぁ騒がれるほどの人口そもそもこの世にいないから大丈夫だけど。
「アンさん、あんた若いんだからそんなこと考えるのは早いですよ」
「スバルが言うのぉ? それ。年なんてたいして変わんないじゃん」
「うるさいですね。早いですよ。断言します。知ってます? 女の方が平均寿命長いんですよ。アンさんは僕より年下なんだから、普通に生きてけばアンさんの方が長生きなんです」
「そうなの? じゃあ誰が私の老後を見てくれるっていうのよ」
「……レオンが見るでしょ」
「ええ〜レオンくん見てくれるかなぁ〜」
「あー。でも、あいつ菓子ばっか食ってるから多分早死にします」
「あら。レオンくんを置いて死ぬなんて心配事でしかないわ」
「同意です。やっぱりレオンは二人で看取ってやりましょう」
「そーしましょ。あの子寂しんぼだもんね」
レオンが聞いたら多分怒るどころじゃないけどガチ本音である。あいつがもう少ししっかりして、ガールフレンドの一人や二人できれば話は別だろうけど、十歳男児みたいな性格のレオンが大して成長しなかった時は――――。
――――いや、これ以上は流石に不謹慎だ。やめておこう。
「……だから、アンさんは僕より先に死なないで」
「あーらら、スバルもセンチメンタルなの?」
「……それでいいです」
死にたい人が生きて、生きたい人が死んでいく。
そんな不条理がまかり通る世界で、必死に生きる理由が僕には分からない。
「じゃあスバルが死ぬ時は私が手を握っててあげる」
「そうしてもらえると、ありがたいです」
分からないけど、分かるまで生きてみようと思った。
やり直しが許されなかった世界。
みんなが一度、やり直しを諦めた世界。
みんなに取り残されていく中、「最後まで生きる」とアンさんが笑顔を見せたあの日、僕は僕なりに頑張って生きてみようと思った。
「やっぱり煙草ちょうだい」
「いいわよ、甘い方あげる」
「んん、おんなじのがいい」