「……っ……」
耀は喉の奥で声を噛み殺した。
それを愉しそうに見下ろす鬼がいる。
「耐えているのか?」
「いえ……っ……」
目の前の鬼が二本の指を揃えて見せる。口元に躊躇なく差し込まれ、指が舌のざらつきを吟味するように撫で回した。
まるで、絡ませろ、とでも言いたげな動きだ。
もう何度も経験した。このあと、大きな衝撃派が来ることも知っている。耀は覚悟の上で、その長い指に舌を這わせた。
もう、逃れられないのだから。
この鬼の力は絶対的だ。全能のような鬼。鬼の世界で最強と呼ばれる者。
耀は今、誰もが恐れる鬼と、肌を重ねている。
(……朱炎様)
先ほど口内に捩じ込まれた指を、丁寧に舐め上げながら、心の中で鬼の名を呼んだ。
それを合図に指先から放たれる、鬼の力。電撃のような衝撃が鳩尾まで貫く。
耀の身体が大きく跳ねた。しなやかな肉体がびくびくとわななく。
朱炎は、これを見るのが好きなのだ。
「言っただろう。私との交わりは甘くはないぞと……」
耳元で囁かれる低い声が、脳を溶かす。
自らを戒める意識の鎖を強制的に緩ませれ、抗う事ができなくなる。
「……んっ……」
抑えきれず、鼻から抜けるような声が漏れた。
理性の鎖がひとつ、またひとつと崩れていく。
二本の指。それはゆっくりと引き抜かれ、目の前でじっくり見せつけられる。
艶やかな光を帯び、長い指に絡みつく透明の液体。唇から指先へとつながり、厭らしく煌めいてぷつんと途切れた。
見慣れた光景だ。この鬼は、いつもこうする。
朱炎はその指に小さな傷を付け、流れた血を透明な粘液に変えた。
これは、毒のようなもの。これから菊の花に吸わせ、溶かし、狂わせるための。
朱炎は耀の身体を押さえつけ、その指を移動させた。
「……っ」
そろりと撫でられ、耀の身体は再び跳ね上がる。
「いい反応だ……」
朱炎の口元は緩んでいた。
この鬼は、耀の身体が跳ねるのを見て愉しむ。 まるで、地に打ち上げられた魚が必死に跳ねる様を眺め、愉しむかのように。
朱炎は生への執着を見ている。
生きている耀を見たいのだ。
(……愉しんでおられる)
不思議な話だ。
この鬼は、たくさんの命を葬ってきた。数え切れないほど、冷徹に。
命を奪うことに慣れている者。死を与える者。若かりし頃には死を与える事こそが愉しみだったとか。
なのに、耀には「生」を求めてくる。
「……朱炎様」
「なんだ?」
「……あの……」
言いにくそうにしていると、朱炎が小さく鼻で嗤った。
「私を急かすのか?」
「そんな……」
「構わん、言え」
しかし、言えと言われて簡単に口にできるものではない。
朱炎は、それも見抜いている。耀が答えられなくなる事を分かっていて要求する。
そして、答えられない耀は、いつまでも焦らされることになる。
これも、いつも通り。
求めなければ動かない。朱炎は鬼だ。
「…………」
その指を受け入れる覚悟は、とうに出来ているというのに。
耀の喉がごくりと鳴った。
「……ください……」
やっとの思いで絞り出した言葉。か細くて、弱々しい声となってしまった。聞こえたかどうかも怪しいほど。
だが、朱炎はそれに応えた。
「まぁ、いいだろう……」
目の前の鬼が、少しだけ満足そうな顔をしていた。
それが答えになることを、耀はまだ気づいていない。
“今”はまだ。
ーー私は貴方に
生かされましたーー
湿気が肌に絡みつく夜。
“今”よりも少し前のこと。
この日は雨も落ち着いていた。ふわりと舞う風に、紫陽花の柔らかな香りが控えめに混じる。
その生あたたかな風に乗り、夕闇を彷徨う者がいた。
ふわり、ふわりと、揺らめきながら。
その者がたどり着いたのは銀の罠。
捕らわれてしまった。蜘蛛の巣に。
群青色の蝶々が翅をひくつかせている。
絡め取られ、逃れられない。
今宵、彼が纏うのは、深い群青に金糸が細やかに刺された着物だ。
水面に広がる波紋を思わせる丸紋と、風にたゆたう花々が袖に咲いている。
衣装。
この夜のために、朱炎の手によって選ばれ、渡されたもの。
耀は理解している。これは、朱炎の視線を悦ばせるための装い。
朱炎の指示はいつも言葉が少なすぎるほどに簡潔だ。言葉が無いこともしばしば。それには深い意図が潜んでいる。
耀はその意味を、正確に汲み取り、示してみせる。
無言で着物を渡された時も、彼の意図を汲み取るために思考を巡らせた。
――愉しませよ
きっとそういう事なのだ、と。
香り、音、触れた感触、目に映る色彩、すべてを、美しく、官能的に。
鬼の世界に君臨する王が、朱炎。
彼は、強さを愛でるが、幽玄な美に、静かに香る雅を好む。
ならば、そのすべてを理解し、満たし続けなければならない。
自らの身も心も全て差し出して、朱炎に尽くす。
側に置かれるために。求められ続けるために。
だがしかし、それはいつの間にか、朱炎の手により役割ごと、裏返される。
肌と肌の境界が霞む頃には内なる願いを引き出され、熱に満たされ、逃げ腰になる。
まるで、囚われの蝶々が漆黒の蜘蛛に命乞いをするように。
「あの、朱炎様、……っ……それ……は……っ……!」
だが、朱炎の熱は容赦がない。
「ほう……逃げるのか?」
朱炎はくつくつと喉を鳴らすように嗤いながら、ゆっくりと身を傾け、「すべてを捧げると、あれほど口にしていたのは誰だったか」と、耀の耳元で囁いた。
這い上がる指も、熱を孕んだ視線も。
漆黒の蜘蛛は銀の糸を紡ぐ。
内蔵に響く低い声は毒牙のようだ。
次々と絡め取られて身動きが取れなくなる。
体温がじわりと広がり、混ざり合う。熱に溺れながら、耀は目を細めた。
見上げれば、朱炎の赤い瞳に貫かれる。
耀が手を伸ばすと、朱炎はその手を掴んで押さえつけた。強い力で、けれど優しく。
「朱炎様……」
かすれた声で。意識が朦朧として、まともに次の言葉を紡ぐ事ができない。縋るように名を呼んだ。
朱炎の指が耀の喉元をなぞる。
「どうした?」
囁く声が、耳の奥まで震わせた。
(本当に、ずるいお方だ……)
この鬼は、答えを知っている。なのに、いつも聞いてくる。言わせようとする。
「…………」
耀は自分の欲望に気づいているが、それを口にすることが出来ない。
もっと深く、傷つけてほしいなど。
過去の辛い出来事のせいで、歪んだ願望を抱くようになっていた。
だが、朱炎が「傷」をつけることはない。ただ与え、抱く。
「耀」
頬に手を添えられて名を呼ばれた。もうこの鬼から逃れられない。
朱炎は、きっと気づいているのだろう。
耀が過去の痛みにしがみついている事に。その痛みが今もなお耀の支えになっていることに。
だからこそ、朱炎は傷を、「傷」として与えない。代わりに、何もかも包み込むように熱を分け与える。
耀はゆっくりと目を閉じた。
熱に呑まれ、溶けていく。燃えるような感覚の中で震えて、足掻いて。
炎に溶けゆく白い四肢。
糸に絡め取られた群青の蝶。
もう今は、逃げることも望まない。