恐るべきは霞砂港。
軽んずべからざるはしく 眠月川。
——その言葉の意味を、本当の意味で知ったのは、あの部屋に住んだあとだった。
大学の研究課題を進めていたある日。
地元でかつて流行した疫病に関する記事がふと目にとまり、私は昔の記憶を手繰り寄せるように思い出していた。
つい数年前まで、私は海と森に挟まれた町にあるアパートの214号室で暮らしていた。
今でもはっきりと覚えている。
そこに住む以前の出来事の数々を。
あれは、くじ運の悪さに定評のあった父が、信じられない倍率の抽選を勝ち取り、そのアパートの1階、214号室の権利を手にしたときのことだった。
「母さん、聞いてくれよ。今より広くて、しかも家賃の安いアパートが当たったんだ!」
「まぁ……本当? あなたがクジで? 明日は雪かしら」
「お父さん、お父さん、引っ越しするの? 次は大きいお家?」
まだ、言葉がおぼつかない幼い妹(門音)が無邪気にはしゃぐ横で、私たちは交代で彼女の面倒を見ていた。
「ごめんな、まだお金はないから次もアパートだ。でも、広さはかなり違うぞ」
少し申し訳なそうに話す父。
引っ越しというイベントに、私は単純に心を躍らせていた。
「じゃあ、鈴。お父さんと一緒に、準備進めていこうね」
母の声は、いつも通り優しかった。
「うん! わたし、いっぱいお手伝いする!」
そして、約1ヶ月後——
私たちは、あの214号室へと引っ越した。
……この話は、その部屋で起こった、ほんのひとつの出来事。
語られることの少ない、私達家族が忘れたがっているそんなお話。