「は?」
その一言が、今、俺の人生を完全に脱線させた。正直、あの日の焼き鳥が分岐点だったとは思いたくない。でも、事実そうなのだ。
「だからね、次回作、恋愛小説にしてよ」
目の前のお偉いさんが、ハイボール片手に言い放った。まるでタレに漬け込んだ串焼きみたいにサラッと。それ、今言う? ここで言う?
場所は新橋、煙と脂とサラリーマンのため息が充満した居酒屋。時間は木曜、夜の八時ちょうど。
──この状況に、人生の方向性を変える指示が出るとは思わんだろ、普通。
「いや、ちょっと待ってくださいよ。俺、出版社勤務ですけど、財務部ですよ? 三日連続で経費精算とレシートの裏面と格闘してた人間ですよ? エクセルには強いけど、比喩表現には弱いタイプなんですけど!」
「いやいや、それは知ってる。ちゃんと知ってる。エクセルの関数芸、部内でも評判だし。でもさ、ナナシ先生がね……消えたのよ」
「えっ、ナナシ先生って、“夏坂ナナシ”? あの、“17の夏”の?」
「あれよ、ネオページで“泣ける青春恋愛小説”ってつもりで書いた奴。二十代が書いた、十代のラブストーリー。ピュアすぎて書いた本人が自爆してった迷作(笑)。でも、読者の反応なくてね……」
「反応、なかったんですか?」
「読者自身、気持ち悪かったんじゃない? 二十代が十代の恋愛小説書くなよって。特に登場人物の心理描写を丁寧に書き過ぎたら、みんなメンヘラみたいになってさ。大乱闘メンヘラブラザーズかって。で、先生、召されたっぽい」
「いや、召されるってなに。天に?」
「天使は繊細なんだよ。たぶん自分の中の十七歳に刺されてどっか行った。発狂して、今は行方不明」
「探してくださいよ」
「無理だって。前回、“5Gの電波が来た”って言って屋久島にこもったからね。連絡とれたら“私は今、樹になってる”って返ってきたし。その前は、ツイッターで“私しかいないんだ、『八時だョ! 全員集合』を復活させる天才は”って謎ポエム投下して消えたし。今回が3度目の神隠し。もう慣れた」
「いや、じゃあ執筆どうすんですか?」
「ネオページを全然更新してないしね。そろそろ書かないと、完全にサイトから“リメンバーミー”」
「だったら、書けばいいじゃないですか、あなたが」
「無理。恋愛は苦手。“好き”って言葉で一週間は寝込むタイプだから。あと最近、愛よりコレステロールが気になってきたし」
「じゃあ、どうすんですか」
そこで、お偉いさんが唐突に俺を指さした。
「君が書いてよ」
「……はあ?」
「いや、君、書けそうな顔してるもん」
「どこがですか!? 今日、社食で納豆ごはんすすりながら“生きるってなんだろう”ってつぶやいてた俺の、どこに?」
「その“生”を背負った目がいいのよ。失恋した文学青年感。何かあった顔してる」
「それ寝不足です。夜中にスプレッドシート開いたら脳汁出る病なんです」
完全に聞いてない。お偉いさんは焼き鳥を噛みしめながら、遠くの炙りしめ鯖を見つめている。その表情は、まるでこの世の真理にたどり着いた哲学者のようだった。
「恋愛小説はね……いいぞ……。自分が見えてくる……自分を許せるようになる……」
「いや、別に許されたいわけじゃ……」
「一話限定でいいから。書いて。頼む。……いや、命令」
その瞬間、俺の“エクセルで終わる予定だった人生”が静かに軌道を逸れた。
そして、気づいたら俺はキーボードの前にいた。
※ここから先は作中作である。つまり俺が書いた“恋愛小説”──もとい、“全力で右往左往した記録”だ。