ギルドマスターとオーベル商会の会長から依頼の詳細を告げられたルナは、あらためて緊張感を高めていた。
依頼の行き先――それは「魔導都市ミスティリア」。この街からは隣国にあたるが、冒険者の証明書があれば入出国に問題はないとのこと。とはいえ、途中には同規模の大きな街が二つほどあり、そこを越えていく道のりは決して短くない。
「ミスティリアか……」
ルナは心の中でその名を繰り返す。魔導研究が盛んに行われており、付近の鉱山からは豊富な魔石が掘り出せる都市。世界中に出回る魔道具の大半が、そこで発明・開発されたとも言われている。まさに魔法技術の最先端を担う土地だ。
「距離にして、ここから大きな街を二つ越えるくらい。馬車で行くなら道中の治安にも注意が必要になりますが、目立たないように単独で動くにしては長旅ですね」
オーベル会長が静かに説明を続ける。その一方でギルドマスターが地図を広げ、ルナに向けて指し示す。
「問題は、いかに“運んでいる最中だと悟られないか”だ。表向きはただの若い冒険者が旅をしているだけに見せるのが理想だろう。護衛や商隊を組むと、かえって目立ってしまうからな」
「そこでだ」
オーベル会長が言葉を引き継ぎ、やや声を低くする。
「私ども商会が、道中の食料や飲み物などの必需品はすべて用意させてもらう。もちろん、余裕を持たせた量だ。なにしろ最近のルナさんには、『マジックバック』があるからね。物資の重量をそれほど苦にしなくて済むだろう?」
ルナはこくりと頷いた。確かに、マジックバックのおかげで大荷物も軽々と持てる。これがなければ長旅での大量の物資は、行動を鈍らせる大きなネックになっただろう。
「荷物はギルドで準備して渡すことになるけど、きっと包みを開ければ、かなりの量の干し肉や保存食が入っているはずだ。どこかの街で足りなくなっても、表向きは“普通の冒険者の補給”として買い足すだけ。例の魔石は帰り道にミスティリアで受け取る段取りだから、それまではそこまで神経質にならなくてもいい」
ギルドマスターの説明を聞きながら、ルナは胸をなで下ろす。すぐに魔石を受け取って隠しながら移動するのかと想像していたが、受け取るのは帰り道らしい。つまり、ミスティリアに向かう往路では特に荷を隠す必要はない。
「ただし、ミスティリアに着いてからが本番だ。商会の独自ネットワークで連絡を取り、魔石を受け取る。受け渡し場所は相手側から直前に指示が来るはずだ。そこからは、いかに人目を避けてこの街に戻るか――時間がかかってもいい、安全最優先で頼む」
オーベル会長が改めて釘を刺すように言う。希少な魔石が相応の値段で取引される以上、狙う者も多い。もし噂が漏れて追手に襲われることになれば、コカトリス騒ぎとは比べものにならない危険が待ち受けているかもしれない。
「わかりました。目立たず、焦らず、確実に……ですね」
ルナは自分なりに言葉をまとめ、ハクのほうをうかがう。
ハクはまだ幼いが、フェンリルの血を引く子狼だ。緊迫した空気を察してか、その金色の瞳に静かな闘志のようなものを感じる。ルナ自身も、この件を引き受けると決めてから心を決めていた。騎士や傭兵ではないけれど、冒険者として誠実に役割を果たしたい。
「ちなみに、出発の目安はいつごろに?」
ルナがそう尋ねると、オーベル会長は笑みを浮かべる。
「それはルナさんの準備次第だが、あまり時間をおくのも得策ではない。できれば明日、もしくは明後日には出発してほしい。こちらとしては、最短でミスティリアに向かってもらえるのが助かるよ。もっとも、荷物の用意は一晩あれば十分整うので、ルナさんが出発可能なら即日でも問題ない」
「なるほど……わかりました。私ももう少しだけ装備やスケジュールを考えてから、出発の日をお伝えします。大丈夫そうなら、すぐにでも動きますね」
ギルドマスターとオーベル会長は同時にうなずき、軽く視線を交わす。彼らにとっても、久々に見つけた“最適な運び手”なのだろう。あとはルナが本当に成功させるかどうか――それにこの依頼の成否がかかっている。
そうして大まかな段取りが決まると、ギルドマスターが低い声で言った。
「いいか、ルナ。この依頼の件は他言無用だ。周りに感づかれそうになっても、なんでもごまかせ。もしどうしても危険が迫ったなら、ギルドに緊急連絡を飛ばしてもいい……が、早期対応が間に合わない可能性が高い。自分の身を守るのは自分だってことを忘れるな」
「はい……わかっています」
リスクを承知の上で受ける大仕事。ハクも思わず小さな唸り声をあげてルナを見つめる。するとオーベル会長は一瞬ハクに目をやり、苦笑交じりに声をかけた。
「……しかし、白狼の子、か。フェンリルの血が混ざってるって話も聞いた。もしものときは心強い存在かもしれないね。くれぐれもルナさん、彼の力に頼りすぎないように。まだ幼いんだろう?」
「大丈夫です。ハクは大切な相棒ですから、無茶はさせませんよ」
ルナが自信を持って言うと、ギルドマスターもオーベル会長も静かに微笑んでみせた。こうして極秘の魔石輸送依頼は、正式にルナへ託されることになった。
――いよいよ新たな旅が始まる。目的地は魔導都市ミスティリア。その名の通り、あまたの魔道具と魔石が渦巻く街で、“とても希少な魔石”を受け取り、誰にも悟られず、この街へ戻る。かつて“石拾いの転生少女”だったルナにとって、これまで以上に危険度も高い冒険になるのは間違いない。
それでも、今のルナにはマジックバックや新調したテント、そして何よりハクの存在がある。どんなに遠い道のりでも、きっと乗り越えられる――そう信じて、強く拳を握りしめるのだった。
ギルドの奥まった部屋で秘密の大仕事を受け、ルナは背筋を伸ばして表へ出た。外はもう昼下がり、陽の光が街並みを柔らかく照らしている。ハクが尻尾を揺らしながら、興味深げに周囲を見回していた。
「まずは、お世話になった人たちに、旅に出ることを報告しなきゃね」
そうつぶやいて歩き出すと、ギルドを出た通り沿いの警備兵が「お、ルナ」とすぐに声をかけてくる。隊長の姿は見当たらないが、門のほうへ行けば会えるだろう。リリスの店や宿の女将さんにも顔を出したい――そう考えたら、思い浮かぶ人がどんどん増えてきて、なんだか胸がいっぱいになる。
まず向かったのは街の門のそば。見回りを終えた隊長がちょうど戻ってきたのか、遠目からでも彼の堂々とした立ち姿がわかった。いつもと変わらぬ鋭い目つきだが、ルナを見つけると少し和らぐ。
「どうした、ルナ? 顔が引き締まってるな」
「隊長さん……私、近いうちに旅に出ようと思います。ちょっと遠くまで」
「ほう、また採集か何かか?」
「いえ……詳しくは言えないんですが、大事な用で。長くなるかもしれません」
ルナが頭を下げると、隊長はじっと彼女を見つめ、それからゆっくり頷いた。
「わかった。まあ、おまえは自分の意志で動けるやつだ。あまり心配しすぎてもしようがないが……身の丈以上の無茶はするなよ」
「はい、ありがとうございます。帰ってきたら、また報告しますね」
短い会話を交わすだけでも、不思議と背中を押される気分になる。別れ際、隊長は軽く手を振って「気をつけろよ」と言うだけだったが、その一言がルナにとっては何よりも心強かった。
次に向かったのはリリス貿易。いつものカンテラの明かりがともる店内には、リリスがちょうど帳簿をつけている最中だった。入口でベルが鳴ると、彼女はすぐに顔を上げ、にっこりと微笑む。
「やあ、ルナちゃん。今日は何か足りない物でも見つかったかい?」
「いえ、そうじゃなくて……ちょっと遠出をすることになって。あいさつに来ました」
そう言って、ルナは必要最低限の説明だけを手短に済ませる。大事な用で旅に出るが、詳しいことは言えない。早ければ明日にも出発。リリスは「そうかい」と静かに頷いて、古びた棚から小さな小瓶を取り出した。
「これはうちで扱ってる簡易解毒薬。分量は多くないけど、もしもの時に役立つと思う。……持っていきな。お金はいらないよ、いまさらだしね」
「リリスさん……ありがとうございます!」
ルナはその小瓶をそっと受け取り、思わず心があたたかくなる。頼れる大人の優しさを、こうして間近に感じられるのは本当にありがたい。
「帰ってきたら、またいろんな品物を仕入れておくから、立ち寄っておくれ。あんたの都合でいいからね」
「はい、必ず戻ってきます」
深くお礼を言い、店を出ると、ハクが「にく、にく?」とでも言いたげにルナを見上げる。
「ふふ……最後は女将さんのところだよ。今夜は宿でゆっくりしよう」
◆◆◆
そして、最後に向かったのは、言うまでもなく毎日お世話になっている宿。扉を開けると、女将さんがいつものように大きな鍋をかき回していた。おいしそうなスープの香りが店内を漂い、ただいまと言わなくても「おかえり」と聞こえてきそうなほどの雰囲気がそこにはある。
「ただいま戻りました……女将さん。実は近いうちに、ちょっと遠出しようと思って……」
ルナの言葉に、女将さんはすぐに察したのか、ふっと浅く笑って鍋のかき混ぜを止める。
「遠出ね。そう言うと思って、ちょうど今日の夕ごはんは張り切って作るつもりだったのよ。あんたがしばらく留守にするなら、最後の夜ぐらいたっぷり食べていきなさいな。お腹いっぱいにさせてやるよ」
その言葉に、ルナはじんと目頭が熱くなりそうになった。言葉数は多くないが、女将さんのまなざしには大きな愛情が感じられる。ハクも尻尾を振って「すごい、いっぱいたべる!」とでも言うように女将さんを見つめている。
「ありがとうございます。本当に……帰ってきたら、また女将さんのスープを飲ませてくださいね」
「当たり前じゃないの。あんたみたいなガキが立派に稼いでるんだから、こっちは仕事を続けなくちゃやってられないわよ」
強がり混じりの冗談が、余計に温かい。こうして街のあちこちを回るだけでも、どれだけ自分が人に支えられているかを再確認する。ルナは宿の狭い部屋に戻り、膨らんだマジックバックを横目に一息ついた。
「さて……今夜は女将さんの料理をいただいて、明日の準備をしよう。ハクも、ゆっくりしてね」
「わふ」
眠る前の時間まで、きっと雑多な用事があるだろうが、今は少しだけ余裕を持って過ごしたい。大冒険の前の穏やかなひととき――これもまた、ルナにとって欠かせない時間だった。夜になれば女将さん渾身のごちそうが待っている。ハクもきっと喜ぶだろう。
こうしてルナとハクは、顔なじみたちに明日の旅を報告し、温かな言葉に見送られながら、少しだけ眠りにつくまでの間を満喫するのだった。
宿の部屋へ戻ると、見慣れた寝台やテーブルが、まるで自分の家のように馴染んでいるのをあらためて感じる。最初はただの相部屋で、いつ何が起こるかわからない不安の中で使い始めたこの宿も、いつの間にか数か月も利用し続けてきた。荷物やボロい布切れを隅々に置いているせいで、今ではすっかり「自分の部屋」そのものだ。
「……これで、明日から少しのあいだはここを離れるのか」
そう呟きながら、ルナは荷物を一つずつまとめはじめる。マジックバックに余裕があるおかげで、寝袋や服、調理器具などをかさばらずに収められるのは助かる。いざ整理を始めると、細々とした物が意外に多いのに気づき、つい苦笑してしまう。
「こんなに持ってたんだ、私……。最初はボロテント一枚で逃げ回ってたのに」
ハクは部屋の中をうろうろしながら、時々ルナの足元に鼻を押し当ててくる。まるで「手伝おうか?」と言いたいようだが、実際に手伝えるはずもなく、ただ鼻先で軽く荷物をつんつんするだけ。それでも、その様子が微笑ましくて、ルナは自然と穏やかな気持ちになる。
荷物の整理がひと段落したところで、部屋の周りを軽く掃除し、布切れやほこりを取り除く。何かしらのゴミが転がっていないか確認しては、これまでの感謝を込めて部屋を整えていく。明日には出発するが、いつかまた帰って来られるように――その思いが伝わってくるような仕草だ。
「よし、これでいいかな。あとは女将さんの夕食を待つばかりか……」
大きく息をついて立ち上がると、すでに外は夕刻の薄暗さに包まれはじめていた。宿の廊下へ出ると、女将さんが通りがかりに「準備できたよ、降りておいで」と声をかけてくれる。鼻先に漂う香りは、何とも言えない食欲をそそるものだ。
階下の食堂に降りていくと、大鍋で煮込まれたスープや、小ぶりのパンがいくつも盛られたバスケットがテーブルに用意されていた。加えて今夜は特別なのか、こんがり焼かれた肉料理や、野菜の炒め物まで彩り豊かに並んでいる。思わずルナは目を輝かせ、ハクも興奮したように尻尾を振った。
「わぁ……すごいボリュームですね!」
「何、あんたが留守の間食べさせてやれない分、今のうちに美味しいものを出しておかなくちゃね。さ、好きなだけ食べな!」
女将さんはそう言うと、ドンと大皿をルナの正面に置く。湯気の立つスープを口に含むと、いつもの温かさ以上の優しさを感じる気がする。肉のうま味がしみ込んだ野菜は柔らかく、しっかりと腹を満たすだろう。ハクにも小さく切った肉片を与えると、嬉しそうにぱくりと食いつく。
「……なんだか、今日でしばらくこの味ともお別れかと思うと寂しいですね」
「バカ言ってんじゃないよ。帰ってきたら、またあんた専用のスープ煮込んで待ってるからさ。しっかり食べて、ちゃんと帰ってくるんだよ」
女将さんの言葉に、ルナは「はい、絶対帰ってきます」と力強く答える。互いに多くを語らずとも、こうして心に刻みあえるものがあるのは幸せだ。ハクも塩気の効いた肉をぺろりと平らげ、「もっと、もっと」と言わんばかりに鼻を鳴らしている。
こうして、一人と一匹は宿の暖かい空気と女将さんの優しさに包まれながら、今宵の“最後の夜”を堪能する。部屋ではもう荷物をまとめ終えているし、あとはぐっすり眠って明日を迎えるだけ。新しいテント、マジックバック、そしておいしい思い出を胸に、明日の出発へと気持ちを整えていくのだった。
◆◆◆
朝の宿に響く「起きな!」の女将さんの声を最後に、一人と一匹はしばらくここを離れる。
ルナは夜明け前にそっと目を開け、早朝のうちに寝台まわりの最終チェックをすませた。あれほど愛着の湧いた部屋を離れるのは寂しくもあるが、今はこの大仕事をやり遂げるために気を引き締めるしかない。ハクも遅れて起きだし、尻尾をぱたりと振っている。
「よし、行こう!」
「わふ!」
いつもはぎりぎりまで寝ていることも多かったが、今日は特別。宿の扉を開け放つと、外は朝焼けの空気がひんやりと身を包む。街はまだ静かな時間だ。ルナとハクは暖かい宿を振り返り、胸の奥でしんみりとした思いを抱きながら、足早にギルドへ向かった。
ギルドに着くと、玄関で待ち構えていた職員が「こちらへどうぞ」と案内してくれる。奥の部屋ではギルドマスターとオーベル会長がすでに荷物にをまとめていた。
中には保存食、干し肉、水袋、着替え用の布など、長旅に必要なものがぎっしり詰まっている。ルナはマジックバックの口を開いて次々に荷を収納していく。重さをほとんど感じないのが、改めてありがたいと思える。
「さすがに往復すべてを徒歩で移動する必要はない。行きは乗り合い馬車をうまく乗り継ぎ
ギルドマスターが低い声でアドバイスをくれる。あくまで“冒険者が少し長めの旅に出ているだけ”という素振りを崩さないためだ。大掛かりな馬車や護衛を仕立てると、どうしても目立ってしまう。
「帰りに受け取るのが本番だからな。道中危険はあるかもしれんが、焦らず気をつけて動けよ。あと……何かあれば連絡を飛ばせ」
「はい。ありがとうございます」
ルナはしっかりと頷き、最後にオーベル会長のほうへ向き直る。会長も何やら紙をめくりながら、一連の手続きを確認している様子だ。やがて視線を?上げると、静かに口を開いた。
「大事なことを伝えてなかったね。ミスティリアのオーベル商会に着いたら“ランタンを二つ注文したい”と伝えてください。これは合言葉のようなものです。私があらかじめ向こうに連絡を入れておくので、その言葉があれば向こうも流れをわかってくれるでしょう。そのあとは相手の指示に従ってもらえれば大丈夫です」
「ランタンを、二つ……ですね。わかりました」
ルナはしっかりとメモを取りながら頭の中でも繰り返す。なるほど、魔石を受け取る際の合言葉として自然な形になるわけだ。
こうした細やかな段取りを整えておかなければ、どこで誰に疑われるか分からない。その緊迫感に胸が高鳴る一方、こうしてしっかり準備をしてくれるのは心強い。
すべての荷をマジックバックに収め終え、ルナは改めて二人に深く頭を下げた。
「それでは、行ってまいります。ハクもがんばるよね?」
「わふ!」
子狼の短い鳴き声に、ギルドマスターとオーベル会長はほほ笑む。そしてルナの肩をぽんと叩き、「気をつけてな」ともう一度念を押した。
薄い朝の光の中、ルナはギルドを後にし、街道へと足を進める。まずは乗り合い馬車の出ている街外れの広場へ向かうつもりだ。そこからどんな道中になるのかは分からないが、とにかく目立たず焦らず、観光客の冒険者でも演じるような軽い気持ちで。
(合言葉は“ランタンを二つ注文したい”……よし、しっかり覚えた)
まだ見ぬ「魔導都市ミスティリア」――それは今回の旅の大きな舞台。数ヶ月間過ごした温かな街や顔なじみたちの声を思い出しながら、ルナとハクは一歩ずつ、朝日に向かって歩き出す。
こうして新たな冒険と、秘密の魔石輸送ミッションが幕を開けたのだった。
まだ朝も早いというのに、街の大通りに出ると、そこにはなぜか知った顔がちらほら。通りの隅や、屋台街の入口あたりに、警備兵や商店主、そして懐かしい人々の姿が見える。
ルナは驚いたが、みんな深く立ち入ってくる様子はない。ただ黙って会釈するように、遠慮がちに手を振ってくれたり、小さく笑って見送ってくれたりするだけだ。
(……秘密の出発のはずなのに、きっと察してくれているんだ)
そう思うと、胸がいっぱいになってしまって、何ともいえない気恥ずかしさが込み上げる。ハクもどこか落ち着かない様子で尻尾を揺らしながら、ルナの足元に寄り添っている。
「……ありがとうございます」
声にならないほどの思いで、ルナは頭を下げる。どうしてこんな朝早くから知った顔が集まっているのか、誰に言われるわけでもないのに、みんな黙って見守っている。もしかすると、秘密の依頼ということは知らなくても、「ルナが長旅に出る」という気配を察してくれているのかもしれない。
とくに屋台街の入り口では、あの焼き串のおじさんが「行ってらっしゃい」と言わんばかりに片手を上げてくれた。さすがに朝焼きの準備はないようだけれど、その目が優しい光を湛えている。思いきって挨拶に近づくと、なぜか女将さんの姿まであって、ルナはさらに驚く。
「……女将さん……」
「ま、あんたが本当に行くのか心配でね。見送りなんて柄じゃないけど、顔見て安心したわ。じゃ、気をつけて行くんだよ」
そう短く言うと、女将さんは「さっさと行っといで」と手をひらひらさせる。ルナはもう何度も感謝の言葉を言いかけては、喉が詰まって声にできない。代わりに何度も深くお辞儀をして、足早に進む。
(本当、恥ずかしい……でも、すごくあったかい)
見送られる側に立つのは不思議な感覚だ。前世やこの世界での逃亡生活では、いつも誰にも見とがめられず、ひっそりと姿を消すばかりだった。それがいま、こんなにも多くの人がいて――どれだけ幸せか、改めてかみしめる。
そんな思いを抱きながら、ルナは乗り合い馬車の広場へと急ぐ。受付窓口には数人の行商人や旅人たちが並んでおり、ルナも列の最後尾に並んだ。すると背中のハクが「わふ……」と短く鳴く。振り返れば、ちょっと離れた場所に先ほどまでいた女将さんがまだ見えていた。きっと最後まで見送ってくれているのだろう。
「……いってきます!」
自分に聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で、ルナはそう呟く。胸の奥で熱いものがこみ上げ、自然と顔が上気するのを感じた。周囲に悟られぬように少し俯きながら、列が進むのを待つ。
ほどなくして順番が来ると、受付の係員に「一人と……えっと、従魔が一匹です」と告げ、乗り合い馬車の空席を確認する。ハクの分の席はないが、それはいつものこと。車内での扱いには気を付けるようにと言われ、ルナは決まり悪そうにうなずいた。
「まぁ、そこまで長い乗車でもないですし、大丈夫です。よろしくお願いします」
数枚の銅貨を支払い、係員から乗車札を受け取る。外で待機している馬車はすでに数人が乗り込んでいるようだ。ルナは軽く息を整え、少しだけ後ろを振り返る。
(これがしばらく最後になるのかな……。でも、必ず戻ってくる)
そう心の中で誓い、ハクと共に馬車へ近づく。ドアを開けると、さまざまな身なりの旅人たちが中で荷物をまとめている。ルナはマジックバックを軽々抱え込み、奥の席へと腰を下ろす。
――こうして、秘密の魔石輸送という大仕事を背負い、ルナとハクは街を出発する。さまざまな想いが胸を渦巻く中、車輪が石畳をきしませ、乗り合い馬車は静かに走り出すのだった。
◆◆◆
オーベルの街を発ち、乗り合い馬車に揺られながら、ルナは窓越しに外の景色を眺めていた。街の名の由来――オーベル商会の先先代が商いによって発展させ、その功績から名誉として「オーベル」と名づけられた――という話は、馬車の御者・ガウディが道中の雑談で教えてくれたものだ。
現在のオーベル商会長は街そのものの運営は王国に任せ、自らは商会に注力していると聞く。街の名にも“オーベル”の冠が残ってはいるものの、その実権を握っているのは王国らしい。もっとも、実質的にはオーベル商会の力が大きいことに変わりはない。ルナはそんな話を頭に留めながら、これから先の道のりに思いを巡らせる。
次の目的地は「フォレスティ」という森の中の街。周囲は森林が豊富で、木工などの産業が盛んだとガウディが教えてくれた。どうやらここから馬車で数日の行程になるらしく、道中も森や林を抜けるルートがあり、エルフなどの亜人たちが暮らしているとも噂される。ルナにとっては、森が多い街は薬草や木の実などが採集できるイメージがあり、ちょっとした楽しみでもある。
今回の乗り合い馬車には、ルナを含めて九人が乗っている。御者のガウディは、日焼けした筋肉質な体格を持ち、片手剣を腰に提げているという頼もしい男だ。普段は御者をしながら、盗賊対策などに備えて剣の腕前を磨いているらしい。ほかの同乗者には冒険者パーティー四人組――男二人と女二人がワイワイと賑やかに会話しているし、母親と幼い子どもが二人連れで乗っていて、子どもが興味津々に外の景色を覗いている。さらに、商人見習いだという若い男が一人いて、旅の途中の経験を積むために馬車を利用しているようだ。
もちろん、ルナの隣にはハクがいる。フェンリルの血を引く子狼だと大々的に言うわけにはいかないが、従魔登録証をしっかり携帯しているので、こうして乗り合い馬車に一緒に乗り込んでも問題はない。ほかの乗客が「わあ、白い狼……?」と小声で驚きはしたものの、ハクが大人しくしているのを見れば怖がることはなかった。
「次の街は“フォレスティ”か。名前のとおり、森の街なんですね。どんなところなんでしょう」
ルナがそうガウディに尋ねると、彼は大きな腕を組んで笑う。
「森林資源が豊富で、木工品や家具づくりが盛んだな。食器なんかも、凝った細工がされてて有名だ。あと、森の中にはいろいろな魔獣もいるから、冒険者連中が仕事に来てるって話だ。運が悪いと道中で小型の魔物に遭遇することもあるが、まあ、俺が守ってやるよ。安心しな」
頼もしい言葉に、ルナはほっと息をつく。もちろん自分自身も最低限の警戒は怠らないつもりだが、ガウディのような剣の腕に長けた御者が同行してくれるのはありがたい。冒険者パーティーも同乗しているし、よほどのことがなければ無事にフォレスティまで着くだろう。
ルナがちらりと車内を見渡すと、母親と子どもがほのぼのした雰囲気で寄り添っている。子どもはハクに視線を向けながら「わんわん、白いわんわん……」と興味津々だ。ハクは最初は不思議そうに首をかしげていたが、念話で「……こんにちは?」とルナに伝えてくる。ルナも小さく微笑んで、「大丈夫だよ」と頭を撫で、子どもに向かって軽く会釈する。子どものほうも「かわいい……」と小さくつぶやいて、母親の影からのぞき見していた。
「ボク、ハクっていうんだよ……」
もちろん声には出ず、念話の形だが、そんな心の声がルナには聞こえる。思わずルナは「相手には聞こえてないよ」と小声で返して、ハクを宥めるように背を撫でた。そんな微笑ましいやりとりをしながら、馬車はゆっくりと街道を走っていく。
“フォレスティ”までの距離はまだまだある。オーベルを出てから大きな街をもう一つ越え、さらに進んで行く旅路になる。けれど、今回のルナの目的は観光が中心という体裁。焦って走り続ける必要はない。むしろ、“時間がかかってもいいから確実に戻る”のが真の任務だ。
(のんびり旅と言っても、いずれはミスティリアで魔石を受け取る大事な仕事が待ってるんだよね。焦らないけれど、心の準備はしっかりしておかないと)
そんな決意を胸に、ルナは車窓から見える景色を楽しむ。大通りを抜けると、広がる農地や牧草地帯が見え、ところどころに花が咲き乱れる田舎道が続いている。冒険者パーティーの談笑や、母子のかわいいやりとり、そして商人見習いの若者がせっせとメモを取っている姿が、車内ののどかな雰囲気を彩っていた。ハクはひとしきり子どもに見つめられた後、安心したのかルナの足元でうとうと眠り始める。
「初めての乗り合い馬車で、こんなにのんびりできるとは……」
ルナは心の中でつぶやく。オーベルの街で慣れ親しんだ日常を離れ、こうしてまた“知らない場所”へ足を踏み出すのは少しばかり緊張もあるが、同時にわくわくする思いも止められない。もしこの旅路で新たな出会いや発見があれば、それはきっとこれから先の大きな糧となるはずだ。
やがて馬車は街道を外れて少し開けた場所へ差しかかり、一度目の休憩をとるというアナウンスがガウディから告げられた。旅の同行者たちが「やった、ちょっと腰を伸ばせる」と話し、ルナもハクを起こして外の空気を吸いに行く。しばらくして再び馬車に乗り込み、こうして何度か休憩を重ねながら、目的の街“フォレスティ”へと一行はのんびり進んでいくのだった。
乗り合い馬車を朝から走らせて、そろそろお腹が空いてきたころ。一度目の休憩で馬車が止まると、ルナは隣に座っていた御者のガウディに声をかけた。
「ガウディさん、私が皆さんの分のスープを作ってもいいですか?」
驚いたように目を見開いていたガウディだったが、すぐにその提案を受け入れてくれる。
「ありがたいね。頼むよ、ルナ」
あたりを見回すと、冒険者パーティーのひとり――特に元気のいい女冒険者が手を挙げて答えた。
「火おこしならまかせてちょうだい! ほら、薪集めるから手伝って~」
そう言って仲間たちを促し、あっという間に焚き火の準備を整えてくれた。ルナはリュックの横から顔を出すハクに「ちょっと待っててね」と声をかけ、さっそくマジックバッグを開ける。
まず取り出したのは干し肉や乾燥きのこ、そして芋を数個。きのこは何種類か混ぜておくと旨味が増すと、前世で読んだ記憶が脳裏に浮かぶ。適度な水分を含んだ小さな袋を開き、手際よく食材を取り出していく。
女冒険者が火の準備をしてくれる間に、ルナは切り株を作業台がわりに、芋の皮をむいて食べやすい大きさにカットした。干し肉も塊のままでは硬いから、包丁を使って適当に刻む。乾燥きのこは、あらかじめ水で戻しておけばスープに深みが増す。ハクがくんくん鼻を鳴らして興味を示すが、「煮込みが始まるまでちょっと我慢してね」となだめる。
冒険者パーティーのもう一人が、どこからか小ぶりの鍋と台を運んできてくれた。そこへ戻し汁ごときのこを入れ、少し多めの水を張ってから火にかける。ふつふつと沸いてきたら刻んだ干し肉と芋を入れ、塩を振りながら味の調整をしていく。
「おお、いい匂いがしてきた!」
「ねえ、このきのこ、すごい旨味が出るんだって?」
パーティーの一行が興味津々に鍋を覗き込む。ルナは湯気の立つ鍋を木のスプーンで静かにかき回しながら、にこりと微笑む。
「乾燥きのこは元々風味が凝縮されてるので、干し肉の出汁と合わさるとけっこうおいしいですよ。少し煮込めばでき上がりです」
前世の知識が断片的とはいえ、こうした料理のちょっとしたコツは役に立つものだ。周囲の冒険者たちも、「なるほど、うちの拠点でもやってみようか」などと話し合っている。
やがて芋が柔らかく煮え、スープにしっかり旨味が出たころ合いを見計らって火を止める。ルナが一口味見をすると、塩加減も悪くない。干し肉ときのこから出た旨味が合わさり、想像以上に奥深い味が広がる。
「もうできましたよ。よかったら召し上がってください。器……みなさんお持ちですか?」
冒険者パーティーの誰かが「あるある!」と荷袋から簡易食器を取り出し、母親連れの旅人にも貸してあげている。商人見習いの青年は「僕も器持ってます!」と慌てて差し出し、みんなで小さな行列を作るように鍋のそばへ集まる。
「これはありがたいな。朝飯も食べられずに出てきたから助かるよ。ルナちゃんに感謝!」
「嬉しいなあ。ほんと、おいしい匂い」
思い思いにそう言いながら、彼らは温かいスープをすすり、干し肉や芋の柔らかさ、きのこの深い風味を楽しむ。すると、ハクが「僕も食べたい!」と尻尾を振って念話でアピールしてくる。ルナは小さめの器に少量取り分け、念のため冷ましてからハクの前に差し出した。
「はい、ハクもどうぞ。まだ熱いから気をつけてね」
「わふ……(いただきます)」
ハクは嬉しそうに鼻を近づけ、ゆっくりと舌をつけて味を確認すると、ぱくぱくと飲み始める。満足そうに尻尾を揺らすその姿を見て、ルナもほっと笑みがこぼれる。
周りの乗客たちもスープを平らげ、口々に「うまかった」「ありがとう」と言ってくれる。とくに子ども連れの母親は「助かるわ、これで子どもがおとなしくなりそう」と笑い混じりに感謝を述べている。
「よかった、喜んでもらえて。……そろそろ馬車が再出発する時間かな?」
鍋や器をさっと水で流し、ルナは周囲のごみを片付ける。冒険者パーティーの元気のいい女戦士が焚き火をきちんと消火し、荷物をまとめにかかっている。ガウディが「休憩終わりだよー、みんな馬車に戻ってー」と声を張り上げた。
こうして初めての道中でのお裾分けスープづくりは、乗客同士の仲も深めてくれたようだ。再び揺れる馬車に乗り込んで、ルナはハクをそっと膝の上に乗せながら、満たされた気持ちで窓の外の風景へ目を向ける。まだまだ先は長いが、ひとときの連帯感と温かさを味わえたのは、なによりの収穫だった。
◆◆◆
再び馬車が走り出して、木々の茂る道へと入っていく。大勢がスープで腹を満たし、和やかな雰囲気のまま、それぞれが車窓の景色や仲間との談笑に興じ始めた。ルナもハクを膝に乗せたままうとうとしかけていたが、ふと前方の御者台から声が聞こえてくる。
「……それで、あいつらとは自然に解散って流れでなぁ……」
どうやら御者のガウディが、先ほどの元気な女冒険者と話をしているらしい。馬車の振動に合わせて途切れ途切れに聞こえてくる言葉をつなぎ合わせると、どうやらガウディ自身の冒険者時代の話のようだった。
その断片を何となく耳にしつつ、ルナは心の中で少し興味を抱く。先ほど聞いた「ガウディさんは剣の腕もある」という話は、こんな過去があったからこそなのかもしれない。スープを気に入った女冒険者が、「もっと冒険者の先輩として色々教えてほしい」とでも言ったのだろう。
「Bランクに上がったあたりで、限界を感じたんだよな。それ以上を目指すには、相当な時間と集中が必要で……ま、元々体力には自信があったんで、冒険者として食い繋ぐ程度なら困らなかったが」
ガウディの声は落ち着いていて、どこか懐かしむような響きが混じっている。馬車を操る手つきも安定していて、旅慣れた雰囲気が伝わってくる。
それを受けて女冒険者が、「それで、その後はどうなったんです?」と問いかけると、ガウディは少し照れたように鼻をこするしぐさを見せ、低く笑う。
「……ちょうど引退を考えてた頃に、昔のツテが『馬車の御者でもやってみたら』って紹介してくれたんだ。どうせなら腕っぷしが活かせる仕事がいい、って思ってな。盗賊が出たときに自分で守れるし、何より移動しながら金が稼げるってのが気に入った。そんなに儲かるわけじゃないが、合ってるんだよ。景色も人との出会いも多いし、退屈しないからな」
Bランク冒険者としての活動を区切りにしてパーティーを解散した後、この仕事と出会った――つまり、冒険者の腕前があるからこそ、ガウディが乗り合い馬車の御者を務める「ガウディ便」は安心だと評判になっているのだろう。実際、ルナも乗ってみて感じるのは、どんな道でも安定した走りを保ち、かつ警戒も怠らない様子が見て取れる。
(なるほど、だからこんなに頼もしいんだな。Bランクともなれば、相応の経験も積んでるわけだ)
ルナは少しだけ肩の力が抜け、安心感を得る。何かあってもガウディがいれば大丈夫そう――もちろん自分もハクも、できるかぎりの備えをするけれど、余計な心配は減る。
女冒険者たちも、「へえー、Bランクまで行ったなら、そりゃ腕っぷしも自信あるでしょうね。私らもいずれは……」と盛り上がっている。ガウディは「まぁ、行けるとこまで行くんだな」と苦笑しているが、その口調にはどこか優しさが漂う。
ルナはハクにそっと小声で話しかける。
「ねえハク、ガウディさんってすごい人だったみたい。これなら心強いね」
「わふ……(うん、頼りになりそう)」
ハクが微かに尻尾を揺らし、同意するように身を動かす。旅の仲間がどんな背景を持っているのか知ると、どことなく距離感が縮まるようだ。
こうして馬車は穏やかに進んでいく。林や小川の横を通り抜け、時にはぬかるみに足を取られそうになるが、ガウディが巧みに御者台で指示を出して乗客を乗り心地の悪さから守ってくれる。ひとしきりおしゃべりが続いたあと、女冒険者は「ありがとね、いろいろ話聞かせてもらって」と言って座席に戻る。車内は再び落ち着きを取り戻し、心地よい静けさが漂う。
(フォレスティまで、あと数日はかかると聞いたけれど、こうしていると退屈はしなさそう……)
ルナは揺れる馬車のシートに身をゆだねながら、まどろむハクの柔らかな毛並みを撫で、思わず小さく微笑んだ。旅はまだ始まったばかり、だが、乗り合い馬車の仲間との何気ない交流にほっとする自分がいた。秘密の依頼という重圧も、こうした安らぎをはさみながらならば、きっと乗り越えられるだろう。
◆◆◆
乗り合い馬車の中で、一度スープを分け合ってからは乗客たちの距離も少し近くなったようだ。
ある休憩の合間、冒険者パーティーのリーダー格の男――マルクスという名の、三十代くらいの精悍な風貌の男と隣り合わせになった。ルナが雑談の中で「旅の途中で狩りなどもしてみたい」「罠を仕掛ける方法に興味がある」と何気なく口にすると、マルクスが目を輝かせて「ちょっとした知識なら教えてやるよ」と言ってくれたのだ。
「でな、もっとも手軽な罠は“くくり罠”ってやつだ。獣が通りそうな道に仕掛けておけば、通りかかった獣の脚に輪が絡んで身動きが取れなくなるのさ」
マルクスによると、くくり罠には大きく二種類の仕掛け方があるのだという。
ひとつは“跳ね上げ式”と呼ばれるもので、輪っかに仕掛けたロープの先を木の枝やバネ状の仕掛けに繋げておき、獣が踏み込んで輪に引っかかった瞬間にピンと跳ね上がる仕組み。これによって脚が高く持ち上げられる形になり、身動きが取りづらくなる。
もうひとつは“引きずり式”といって、輪の先のロープを重たい石や丸太に繋げておき、獣が引っかかれば自力で逃げようとしても重りが邪魔をして遠くへは行けない。跳ね上げ式に比べると暴れられる分、逃げ道が少しはあるかもしれないが、簡単に設置できるという利点があるらしい。
「大事なのは、獣が通りそうな“獣道”をきちんと見極めることだな。どんなに巧妙な罠でも、通らない場所に仕掛けたら意味がない」
「なるほど……それを見つけるのが難しそうですね」
「まあ慣れだな。足跡や糞、草の倒れ方なんかを見れば、おおよその通り道はわかる。あとは罠自体を目立たないように土や落ち葉で隠すんだ。痕跡を残さないのが肝心だぜ」
マルクスは軽く指先を立てて、まるで講義でもするように分かりやすく説明してくれる。ルナは「なるほど」と頷きながら、頭の中にその手順を描いてみる。かつて家出の旅で野宿をしたり、森で魔石を拾う際には、こんな方法があればもう少し食料を確保できたかもしれないと、今さらながら思う。
「ただし、この方法で大型の魔獣まで狙おうと思うなよ。かえって危険だ。それに捉えた獣が苦しみのうちに暴れれば、罠が壊されることもある。足の力が強い奴は跳ね上げ式でさえ外れるかもしれない」
「はい、わかりました……無理はしないようにします」
ルナが素直に答えると、マルクスは安心したように頷いてみせた。彼の仲間たちも、脇で「大物狙うならちゃんとした罠とか偵察が必要だしな」「俺らも前にヌシ級のイノシシ狙って痛い目を見たわ」などと囁き合っている。
そんなやりとりを横で聞いていたハクは「わふ?」と小さく鳴いて、念話で「これ、捕獲ってやつ?」と疑問を投げかけてくる。ルナは「そう、狩りの一種だね。でも危険もあるから簡単にはやらないよ」と心の中で返す。
「まあ、ルナちゃんが習いたいって言うなら、実地で教えたいところだが……。今回の移動中はあまり時間もなさそうだしな」
「そうですね。今は旅が目的なので、機会があったら試してみたいくらいです。でも勉強になりました。ありがとうございました!」
そう言ってルナが笑うと、マルクスは渋い顔のまま「おう、飯でも作ってくれたお礼だ」と答えてくれる。隣の仲間たちも「今度実践するとき呼んでよ」「でも罠にかかった獲物は結構どう猛だったりするから気をつけなね」などと声をかける。
こうして、また一つ新しい知識を得たルナ。罠や狩りの手法に詳しくなることは、今後の冒険や野宿でもきっと役立つだろう。ハクともども少し胸を躍らせながら、また馬車の席へ戻る。揺れに身を委ねつつ、森へ近づく道の風景が次第に樹々の緑で彩られてくるのを眺める。
(さすが「フォレスティ」って呼ばれる森の街の近くだけあるなぁ……。まだしばらくかかるけど、この道中もどこかで魔物や獣が出てくるかもしれない。それまでに罠の知識を頭に叩き込んでおこう)
そんなことを考えていると、馬車の先頭から「ちょっと道がぬかるんでるぞー!」というガウディの声が響き、冒険者たちが身構える。ルナもハクをしっかりと抱きしめ、続く少し荒れた道のりに備えるのだった。