冒険者ギルドのロビーには、広い掲示板が据えられている。そこには大小さまざまな依頼が隙間なく貼られており、人によっては立ち止まってじっくり読み込み、あるいは仲間同士で相談しながら依頼を選んでいる様子がうかがえた。
私も隊長の隣を歩きつつ、掲示板に視線を走らせる。猛獣退治や護衛依頼など、見るからに危険そうなものが多いが、中には「荷物運びの手伝い」や「家畜の世話」などの地味な依頼も混ざっていた。その中で、特に目を引いたのが――
「……薬草採集……数量不問、場所不問、報酬は採取量に応じて変動……か」
掲示板に貼られたその依頼書には、大きく「薬草採集」と書かれ、どのギルド支部でもよくある形式の文言が並ぶ。必要な薬草の品種がざっと記載されていて、「採集数に応じて報酬を支払う」と明記されている。これなら戦闘スキルも必要ないし、私でもできそうだ。何しろ、多少なりとも薬草の知識はある。森や草原に入って探してくれば、当面の収入は得られるだろう。
「これ……ちょうどよさそう」
思わず呟くと、隊長が頷いて「おまえに合ってるな」と言ってくれる。すぐに手近なギルド職員に声をかけ、依頼請負の手続きを済ませる。職員は手際よく用紙にサインを求め、簡単な注意事項を説明してくれた。
「いくつかは希少種も含まれるけど、まずは普通の薬草を一定量集めれば報酬は出るよ。引き受けてくれて助かるわ」
「はい、がんばって集めてきます」
手続き書類にサインを終えた私は、改めて冒険者ギルドの一員としての初依頼を引き受けたことに実感が湧いてきた。深く息を整え、「よし」と気合を入れる。
◆◆◆
夕方近くになり、私は隊長に連れられて商店街から少し外れた場所に向かう。大通りからは少し路地を入った先に、こぢんまりとした宿屋があった。二階建ての木造建築で、屋根の上には小さな看板が掲げられている。隊長いわく「安いが安心して泊まれる宿」だそうだ。
扉を開けると、やや年配の女将さんがカウンターで帳簿らしきものをつけていた。私たちの姿を見て、笑顔で立ち上がる。
「いらっしゃい。あら、隊長さんじゃないの。今日はどんなご用かい?」
「ああ、ルナという冒険者の子を紹介したくてな。安全で安い宿を探してるんだ。新米だからあまり金を使いすぎたくないみたいで……。それにまだ子どもだ、変な客と同室にならんようにしてやってほしい」
隊長が簡単に事情を話すと、女将さんはすぐに理解したようで「おやおや、そうなのね」と優しい眼差しを向けてくる。
「最近、女の子の一人旅が多いのよ。夜中に酔っぱらいが騒ぐ宿も多いけど、うちは静かで安全だから安心なさい。大部屋は他の宿泊客との相部屋になるけど、それでもいいかい?」
「はい、大丈夫です。ありがとうございます」
財布には金貨や銀貨もあるが、あまり散財はしたくない。大部屋の相部屋なら、きっと費用は安くすむだろう。それでも心配な面はあるけれど、女将さんの柔らかい物腰に、不思議と警戒心は薄れていく。
「よろしくお願いします。ここに数日はお世話になるかもしれませんが……」
「あいよ、助かるわ。じゃ、名前を書いてね。うちも宿泊客の名簿をつけてるんだけど、ギルドの冒険者なら身分証さえあれば大丈夫。料金はチェックアウトの時でいいかしら?」
「はい、お願いします」
女将さんの指示に従いながら簡単な宿泊名簿を記入すると、鍵の代わりに小さな木札を渡された。これが滞在証明になるらしい。部屋は二階の大部屋の一角らしく、同じように冒険者や行商が休むスペースを仕切りで区切って使う形とのことだ。モノが大きく変わることはないかもしれないが、最低限は安心できそうだ。
「じゃあ、俺はここまでだ。明日は隊長としての仕事があるんでな。困ったことがあったら宿の人かギルドで話を通せばいい」
宿の入口前、隊長が一度きり大きく頷き、何か言いたげに口を開く。
「おまえ……本当にひとりで大丈夫か? いや、ハクもいるけど……」
隊長の声には、ささやかながらも本気の心配がこもっている。それを感じて、私は心からの笑みを浮かべた。
「大丈夫です。ありがとうございます。いろいろ手伝ってもらって、本当に助かりました」
「……そうか。気を付けてな、ルナ」
そう言って、隊長は自分の職務へ戻っていく。私は見送るように背中に向かって深く頭を下げた。今日一日で驚くほど状況が変わった。冒険者登録に魔石の換金、宿の確保。それもこれも、隊長やギルドマスター、そして周囲の人たちの助けがあったからだ。
(あとは、ちゃんと薬草を集めて依頼をこなせば、堂々と報酬を得られるようになる……!)
そんな思いに胸を躍らせながら、私は宿屋のドアを開けて中へ入る。これが、新しい街での最初の夜の始まりだ。ハクもリュックの中から顔を覗かせ、なんとなく安心したように瞳を細めている。私の方も、そっとハクの頭を撫でてから、女将さんに改めてあいさつをして、部屋へと向かった。
ここで得た一晩の安息を糧に、明日から本格的に動き出そう。採集の場所はこれから吟味するけれど、この街の周辺にも森や野原があるらしい。フェンリルの子・ハクといっしょなら、何かあってもきっと大丈夫……そう、信じたい。
初めて得た安定した寝床の暖かさを感じながら、私はそっと寝台へ腰を下ろすのだった。
◆◆◆
「朝だよ、起きな! 冒険者ども!」
宿の大部屋に響き渡る女将さんの声に、私は寝台からぱっと跳ね起きた。周りでも同じように数人の冒険者が慌てて布団をはがし、身支度を始めている。夜明けの冷たい空気がまだ部屋の中に残っているけれど、なんとも言えない活気が伝わってくるのが不思議だ。
私は急いで寝台を整え、小さな荷物をまとめる。リュックの奥からハクがひょこっと顔をのぞかせ、まだ眠そうにあくびをしている。
「おはよう、ハク。今日は私たちの最初の冒険者の仕事だよ。がんばろうね」
念話で話しかけると、「うん……おはよう」と眠たげな声が頭の中に返ってくる。その声を聞くだけで、不思議と元気が出る気がした。
女将さんの「裏庭で顔を洗ってらっしゃい」という声に導かれ、裏口へ回る。そこには古い手押し式の水汲みポンプがあり、レバーを下げるたびに冷たい水が勢いよく出てくる。私は両手を水に浸し、ぱしゃりと顔を洗った。ぴんと張った朝の空気が肌を刺すようだが、その冷たさがむしろ気持ちいい。
宿に戻ると、女将さんが出来立ての熱々スープを食卓に並べてくれている。湯気の立つ木の器を受け取り、朝食代わりに胃へ流し込む。具はそんなに多くないけれど、野菜と少しの干し肉、そして香草のさわやかな香りが身体を温めてくれた。
「元気が出るでしょう。早起きしたらしっかり食べなきゃね」
女将さんが笑顔で言うので、私も思わず「はい、ありがとうございます!」と笑顔で返す。ほんのひとときだが、この何気ない朝のやりとりが私にとっては新鮮で、温かい気持ちになれる時間だ。
スープを飲み終わると、私はリュックを背負い直し、ギルドでもらった簡単な地図を広げる。今日は「薬草採集」の初仕事。周辺の草原から森の入り口あたりまでを回ってみようと考えている。深入りはせず、危険そうな場所には近寄らない。ハクを連れているし、できるだけ無理はしたくない。
「よし……行ってきます!」
女将さんに声をかけると、「怪我しないようにね。帰ってきたら晩ごはん用意しておくよ」と返してくれた。その言葉だけでも心があたたまる。
宿を出ると、朝の澄んだ空気が街路を満たしている。人通りはそこまで多くないが、すでに開店準備をする商人や、同じように朝早くから動き始める冒険者の姿がちらほら見える。私はそんな風景を横目に通りを抜け、街外れへ向かって足を進めた。
(初めての仕事……きっとうまくいくよね。ハク、何かあったらすぐ知らせて)
「うん、わかった。無茶はしないようにね」
リュックの奥から聞こえてくるハクの声に、私は小さく頷く。そう、焦らなくてもいい。薬草をたくさん集めて、無事に帰ってくること。まずは、それが今日一番の目標だ。
まぶしい朝日を浴びながら、一人と一匹は草原へ向けて、静かに歩みを進めていくのだった。
街の外門に近づくと、見覚えのある警備兵たちが次々に声をかけてくる。
「おう、ルナ。気をつけてな!」
「冒険者の仕事だろ? 無茶するなよ」
「いってらっしゃい!」
普段の私なら、人に話しかけられると少し身構えてしまうところだけれど、ここの警備兵さんたちは皆、優しい雰囲気で接してくれる。思えば、最初にこの街に来たときも隊長や兵士の方々が丁寧に案内してくれたおかげで、私は大きな心配もなく冒険者デビューを迎えられたのだ。
「ありがとうございます、行ってきます」
私が元気よくそう返事をすると、兵士の一人は「しっかり稼いでこいよ」と笑い、別の兵士は「魔物気をつけろよー」と声を張り上げてくれる。どこか騒がしいけれど、その分だけ温かい。心がふわりと軽くなるような、そんなやり取りだった。
門を出ると、もうそこは街の外。大きな石造りの壁に囲まれていた安全圏を抜け、いよいよ広々とした草原が視界いっぱいに広がる。朝の陽射しを浴びて草の海が揺れており、ところどころに背の低い木々や花が咲き乱れている。美しい反面、ここからは自力で身を守らなくてはならない場所だ。
(それでも、今日は薬草の採集が目的。森の深いところまでは行かないし、危険な魔物と出くわす可能性も低い……はず)
そう自分に言い聞かせながら、私は肩のリュックを少し直す。中でハクが姿勢を変えたのか、軽くもぞっと動いたのが分かった。
「大丈夫? ハク」
「うん、平気。外に出たら風が気持ちいいね」
念話で返事を受け取ると、自然と頬が緩む。そう、今日はとにかく焦らずに、無理をせずに行こう。少しずつ薬草を見つけてはカゴに入れ、街に戻って報酬をもらう――それだけでも、今の私には十分すぎるほど立派な仕事だ。
街の門を振り返ると、警備兵たちがまだ見送ってくれているのが見えた。あらためて手を振って、「行ってきます!」と心の中でお礼を告げる。すると、門の向こうで数人が手を振り返してくれるのがわかった。
こうして私は、フェンリルの子・ハクとともに、初めての採集依頼へと旅立つ。風になびく草原の匂いと、胸いっぱいの希望を感じながら、街道沿いへゆっくりと足を進めた。
「ハク、街の外では自分で歩く?」
ルナはリュックの口を軽く開いて、そこからひょこっと顔を出した白い子狼を見やる。
「歩く。ハク、走れるよ」
まだ少し幼さを残した声が、ルナの頭の中に響いた。先日までは小さく丸まっていた子狼だが、最近は足の具合も良くなり、草原なら問題なく走れそうだ。ルナはリュックを下ろし、ハクをそっと地面に降ろす。ふかふかの毛並みが朝日に映えて眩しい。
「うん、じゃあ一緒に歩こうか」
そう言ってルナが一歩を踏み出すと、ハクは尻尾をふりふりさせながらトタトタと並走する。広がる草原の緑、柔らかい日差し、澄んだ空気の香り――ふたりには眩しいほどの世界が広がっていた。思わず、これから始まる“壮大な冒険”を想像して胸を躍らせてしまいそうになる。
しかし、ルナ自身は十二歳とはいえ、その“中身”は三十歳を過ぎた社畜OLの記憶を抱えていた。前世ではデスクにかじりつき、膨大な書類と格闘する日々。いつしか身体を壊し、それでも休めない。結局どこでどうなってしまったのか、はっきり覚えていないが――気づけばこの世界で貧乏な家に転生していたのだ。
はじめは絶望もした。しかし、奴隷商に売られかけた末の家出、山や森で拾い集めた魔石、そして白い子狼・ハクとの出会い。そんな経験を積むうちに、少しずつ前を向けるようになった。物事を効率的に進める段取り感覚や、簡単な調理・保存の工夫――どれも前世の会社勤めや生活知識から来ている部分がある。ここでは“魔法”はないが、あの世界で得たスキルは、きっと無駄にはならないはずだ。
「さて、今日は薬草探しをするつもりだけど……どうかな、ハク。もし体力が余ってたら、ちょっと遠回りして草原の奥まで行ってみてもいいかもね」
「うん、ボクも走りたい。遠くまで行こう!」
ハクの嬉しそうな声が念話で返ってくる。ルナもつられて微笑む。あっちの世界での人生は半ば投げ出す形で終わってしまったようなものだけど、今の人生はまだ始まったばかり。自分の知識や体力をどう活かすかは、自分次第なのだ。
「まずは初心者らしく、採集クエストをこなして依頼主に納品。稼いだお金は宿代や食費に……ああ、税金とか管理費とかも要注意だね……」
前世のクセで、何かと家計管理めいた思考が湧いてくる。さらに頭の奥では「なんなら商売でもできるんじゃないか……」と考えてしまう自分がいるが、とりあえずは目の前のミッションに集中することにする。
「よし、ハク、行こう!」
「うん!」
風を感じながら二人――いや、一人と一匹は歩き出す。おごそかな城壁の街を背にして、まだ見ぬ世界へ。前世の細々とした常識も活かしながら、ルナはこの異世界で生きる術を手探りで探し続ける。彼女とハクの冒険は、ほんの一歩を踏み出したばかりだ。
(それでも、いずれ大きな道を切り開くことになる……かもしれない。)
心の中でそうつぶやきながら、ルナは十二歳の軽い足取りで草原を踏みしめる。ハクも尻尾を揺らし、まるで新しい地平を歓迎するかのように、朝日に向かって駆け出した。
朝陽に照らされる草原を歩きながら、ルナは何度か立ち止まって周囲に目をこらした。風がざわりと草の海を揺らすたび、小さな動物の気配を感じる。以前、ギルドで見かけた冒険者が言っていたように、ここの草原にはツノウサギが生息しているらしい。ウサギとはいえ、額に生えた角で突進されれば大人でも怪我をする可能性がある。もっとも、風下さえ避ければ気づかれにくく、わざわざ戦う必要はないだろう。
「ツノウサギか……罠を仕掛けて肉屋に卸せば、けっこうなお金になりそうだけど」
ルナはつぶやき、ちらりとハクをうかがう。子狼――フェンリルの血を引くハクなら、ツノウサギ一匹など容易に仕留められるかもしれない。だけど、今日は薬草採集が目的だ。それに、わざわざ狩りをするほど食料に困っているわけでもない。何より、まだ慣れないうちに余計なトラブルを抱えるのは避けたい。
「うん、今日のところは見逃してあげよう」
その言葉を聞いたのかどうか、ハクは草陰に隠れる小動物に興味津々の様子だが、「わん」と低く鳴くでもなく、ただ鼻をひくつかせるだけで落ち着いている。ルナが「ありがとね、ハク」と念話で呼びかけると、ハクは尻尾を小さく揺らして応える。
ハクに合わせて足を進めていくと、子狼ながらもその速度は驚くほど速い。気づけばルナは息を切らし、「ちょ、ちょっと待って……」と膝に手をついて小休止をはさむ。
「ごめん、走りすぎた?」
「だ、大丈夫……ハクは気にしないで。私が慣れていないだけだから」
ハクの念話に応えながら、ルナは自分が十二歳の身体であることを再認識する。前世では持久力もそう高い方ではなかったし、オフィスワーク中心で体力なんてほとんどなかった。今の身体に順応するには、もう少し時間が必要だろう。
それでも、休み休み歩を進めていけば、やがて草原が少しずつ密度を増し、小さな木々や茂みが点在してくる。森の入り口が近い証拠だ。ルナは腰にぶら下げた袋とカゴを確認しながら、草葉の下に隠れていそうな薬草の種類を頭の中で思い浮かべる。
「よし、ここからはもっと注意深く探してみよう。俺葉(がくよう)とか赤喉草(せきこうそう)とか、いろいろあるはず……」
ぼそりとつぶやきながら、ルナは背の低い雑草をかき分けては、葉の形や茎の質感を念入りに確かめる。前世で見た植物に似ているものもあれば、明らかに異世界らしい色合いのものもあった。うっかり毒草を手に取らないように、できるだけ慎重に判別する。
ハクはそんなルナを見守るように、一定の距離を保ちながら周囲を警戒しているのか、鼻をひくつかせている。危険な気配があればすぐに知らせてくれるだろう。それだけでも、ルナにとっては心強かった。
風が少しひんやりしてきたかと思うと、頭上では木々の葉がさらさらと揺れ、森の匂いが濃くなり始める。いよいよ森の入り口付近だ。ルナは改めて背筋を伸ばし、カゴの中を覗き込んで小さく微笑む。まだ多くはないが、いくつかの薬草が収まり始めている。
「もうちょっと集めて、早めに帰ろう。冒険者の初仕事だし、無理は禁物」
決意を固めるように声を落とすと、ハクは「うん」と念話で返事をする。その一人と一匹の静かなやり取りを聞く者は誰もいない。だが、草原から森へ伸びる道には、未知の出会いがきっと待っているはずだ。ルナは胸の高鳴りを抑えつつ、薬草カゴをもう一度握り直し、森の入り口へと足を踏み入れていく。
森の入り口に差し掛かると、周囲には色とりどりの草が一面に広がっていた。緑だけでなく、赤みがかった葉や、青みを帯びた花のようなものもあちらこちらに点在している。甘い香りのするものや、かすかに鼻を刺すような刺激臭を放つものまで、その多様さにルナは目を見張った。
「うわあ……本当にいろんな植物があるんだね」
ハクも鼻をくんくん鳴らしながら、気になる草の近くを行き来している。フェンリルの子とはいえ、まだ幼いハクには毒草などの見分けはできないだろう。ルナ自身は前世で得た知識も少しはあるうえ、この世界で育って以来、母親の家庭薬づくりを手伝っていた経験がある。簡単な薬草の特徴は一応わかっているつもりだ。
「ええと……体力回復系の葉っぱと、それから毒抜きに使える根っこ……。逆に触ると危ないやつもあるから、まずは全部まとめて持ち帰って、あとで仕分けしよう」
そうつぶやきながら、ルナは一つひとつの草を丁寧に摘み取り、小さなカゴへ収めていく。根元から引き抜く必要があるもの、花だけ摘むほうがいいもの、使う部分が葉なのか茎なのか――前世で読んだハーブの本や、この世界の薬草本の記憶を照らし合わせながら、慎重に作業を進める。
一方のハクはというと、ルナの傍を離れたり戻ったりしながら、警戒を怠っていないようだ。森の入り口付近は魔物に襲われるリスクは低いとはいえ、絶対に安全とは言い切れない。先ほどまで晴れていた空が、いつの間にか薄い雲に覆われてきているのも気になるところだ。
「風の向きが少し変わったかな……。ハク、何か変な音とか匂いとか、感じない?」
「今のところは、特にないよ。でも気をつける」
念話で返ってくるハクの声は冷静そのもの。ルナはうなずき、草刈り鎌のような簡易道具で、茂みを軽くかき分ける。確かに体調を回復させる植物がある一方、触れただけで皮膚がただれる毒草もあるのが森の怖いところだ。前世でも、植物の持つ毒性に興味を持ったことはあるけれど、実際に目にするとやはり慎重にならざるを得ない。
ある程度の量が集まったところで、ルナは立ち上がり、改めて周囲を見渡す。もう少し先へ進めばさらに豊富な草が見つかるかもしれないが、あまり深追いすると危険度が増すのも事実。今日は初の冒険者仕事なのだから、無茶をせずに帰ることも重要だ。
「そろそろ、戻ろうか……。帰る途中でも、見つけられる分は拾っていこ」
ハクに呼びかけると、「うん、わかった」と返事が来る。思ったよりスムーズに薬草を集められたし、今日の目標は十分達成できそうだ。あとはギルドに持ち帰って、依頼報酬を受け取り、ゆっくり仕分けをしてみよう。どんな薬草が手に入ったのか、確認するのも楽しみのひとつだ。
森の風がさっと吹き抜け、葉擦れの音が耳をくすぐる。ルナはキュッとリュックのひもを締め直し、カゴを手に安全な帰り道を探し始めた。ハクも嬉しそうに尻尾を揺らし、草むらをトタトタ進んでいく。その後ろ姿を見ながら、ルナは自然と笑みを浮かべる。これが、ハクと過ごす新しい冒険者ライフの第一歩なのだと、ほんのりと胸が温かくなるのを感じながら。
森の入り口を抜け、街へ戻る道すがら、小川に沿って歩いていく。さわやかな風が草原を吹き抜け、疲れた身体を心地よく癒してくれる。振り返ればハクが尻尾を揺らしながら小走りで追いついてくるのが見え、ルナは思わず微笑んだ。
川面を覗き込むと、小さな魚たちが群れをなして泳いでいる。キラキラと反射する鱗が綺麗で、なんだか少しだけ前世を思い出す。そういえば、あちらでも休日に川遊びをして、小さな魚を捕まえようとしたことがあったっけ――と、断片的な思い出がよみがえる。
「これ、捕まえられたら夕ご飯にできるのに」
ボソリとつぶやき、川面に手をかざしてみても、小魚たちは素早く散っていく。前世で覚えたトラップの設置方法や、川魚の簡単なさばき方などが頭の片隅に浮かんでは消えていく。せめて網か罠があれば楽に捕れそうだけれど、いまは薬草の採集道具しか持っていないし、あまり捕獲に時間を使う余裕もない。そこは、またの機会にしよう。
(焼いたら美味しそう……塩と胡椒だけでも十分だろうし、ハーブを使ったレシピもいけるかも。かぼちゃスープの具にしても……いや、川魚だと臭み抜きが大変かな……)
頭の中であれこれレシピを想像する。前世の記憶を思い返すと、こんがり焼き魚の香ばしい匂いまで感じられそうだ。お腹の奥が少しだけ鳴ったような気がして、ルナはくすっと笑う。
「ルナ、どうしたの?」
ハクの念話が耳に届くので、ルナは軽く首を振る。
「ううん、何でもない。ちょっとお腹すいたかも、って思っただけ」
ハクは「わかる、ボクもお腹すいた」と言いたげに短く鳴く。こういう何気ないやり取りができるのも、ハクとのつながりを得たからこそだろう。ルナは小川に目をやりながら、「次はちゃんと捕獲道具を用意しておこう」と、心の中で小さく決意をする。
陽も少しずつ傾き始め、長く伸びる影が草原を横切る。街はもうすぐ見えてくるはずだ。今日の採集品を納めれば、初めての依頼達成となる。どんな評価をしてもらえるのか、不安と期待が入り混じった気持ちだ。
「帰ったら宿で仕分けして、ギルドに持っていこう。上手くいけば、今日のうちに報酬が手に入るかもしれない」
誰にともなくつぶやき、手の中の薬草カゴを持ち上げて軽く揺らす。今はまだ小さな活躍かもしれないけれど、これがルナとハクの新たな生活の第一歩だ。川面をきらきらと滑る小魚を横目に、空想のレシピを膨らませながら、ふたりは街へと続く草原の道をのんびりと歩いていく。
街の門に近づくと、石造りの壁の上から警備兵たちがこちらを覗き込んでいるのが見えた。すると、ひときわ大きな声が響く。
「おかえりー、ルナー!」
その声の主は、やっぱり隊長さんだった。隊長をはじめ、数名の警備兵が門の前に集まり、私の姿を確認しては次々に笑顔を向けてくる。
「おかえり! 無事で良かったな」
「初めての仕事はどうだった?」
みんなが口々に声をかけてくれる様子に、私は思わずくすぐったさを感じる。家を飛び出したあの日、街の門に怯えながら足を踏み入れた自分が嘘のようだ。今ではこうして「おかえり」と迎えてもらえるなんて。
隊長がポンと私の肩を叩き、柔らかい笑みを浮かべる。
「ちゃんと帰ってきたな。森に深入りしなかったか? 薬草は採れたか?」
「はい、無理せずに近場だけ回ったので、この通り大丈夫です」
私は薬草の入ったカゴを軽く揺らして見せる。隊長がそれを覗き込み、「おお、結構たくさん集めたな」と感心したように頷いた。すると周りの警備兵も「すごいじゃないか」「最初の依頼でこんなに採れるのか」などと口々に褒めてくれる。どうやら隊長が私のことを色々と噂してくれていたらしい。
「聞いたぞ、ルナ。しっかりギルドに登録して、魔石も売ってきたとか」
「隊長さんが『まだ子どもだけどしっかりしてる』って自慢してたんだよ」
「え、そ、そうなんですか……!」
まさか隊長がそこまで宣伝してくれていたなんて。私は頬が赤くなるのを感じながらも、一生懸命に礼を伝える。すると隊長はちょっと照れたように目をそらし、「まあ、こいつはちゃんと約束守るタイプだからな」と小さく笑う。
そうして警備兵のみんなと軽く雑談を交わしているうちに、私の体はほっと安心感を覚える。風の冷たさが和らぎ、街の中から漂ってくる料理の香りにお腹が鳴りそうだ。
「じゃあ、私はこのままギルドへ行って、報告してきますね。隊長さん、ありがとうございます!」
「おう、行ってらっしゃい。疲れたら早めに宿へ戻るんだぞ!」
そう言って隊長がまた私の肩を叩く。門の前には、まだ他の街の出入りの人たちが行き来しているが、警備兵のみなさんが満面の笑みで手を振ってくれる。
――この街の警備兵たちはいつも温かい。隊長のおかげもあるけれど、それだけでなく、私自身が少しずつ認められ始めているのかもしれない。
「ありがとう」と小さく呟いて、私は足取り軽く石畳の道を踏みしめる。背中のリュックを潜んでいるハクも、安心したように鼻を鳴らしていた。そうして、一人と一匹は、初めての依頼を報告すべく、にぎわい始めた街の通りへと向かっていくのだった。
街の門をくぐってしばらく進むと、通りには屋台がずらりと並び、食欲をそそる香りが辺りを満たしていた。揚げ物や焼き串、スープ、甘い菓子まで――どれもが一瞬足を止めてしまいそうになるほど魅力的だ。
「……いい匂いだなぁ」
ルナは小さくつぶやき、思わず腹の奥がぐうと音を立てるのを感じた。リュックの中のハクも、そわそわしているのが伝わってくる。
「ルナ、にく、ルナ、にく」
まだ幼い口調ながら、念話越しにしっかり「肉を食べたい」という要求を伝えてくるハク。いくらフェンリルの子とはいえ、可愛いものだと、ルナは思わず微笑む。
「もう少しだけ待ってね。まずは依頼の報告をしないと」
そう言って先を急ぐルナだが、屋台から立ち上る香ばしい匂いはなかなかに抗いがたい。細長いソーセージを炙る煙や、甘辛いタレを塗った焼き串、ふかふかの蒸し菓子といった魅惑的な品が目に入ってしまうたびに、ハクだけでなくルナ自身も心が揺らぎそうになる。
(もう少し、もう少しだけ我慢……)
財布には魔石を売ったおかげで多少の余裕がある。宿の食事で最低限は賄えるとはいえ、仕事を終えたご褒美に屋台で何か買って食べるのも悪くないかもしれない。そんな考えが頭をよぎりつつも、まずは冒険者ギルドへ向かうことが最優先だ。
いくつもの屋台と行列をかき分けるように歩き続けると、やがてギルドの石造りの建物が見えてきた。冒険者風の人々が出入りしており、看板には例の剣と盾の紋章が飾られている。少し距離があったが、ようやく到着したようだ。
ルナは一度深呼吸して、テンションの上がりすぎた心を落ち着かせる。リュックのハクにも、「着いたよ」と念話を送ると、ハクは「お腹へった……」と弱々しい返事をしてくる。
(大丈夫、報告が済んだら、どこかで食べよう。それまで我慢してね)
そう優しく呼びかけてから、ルナは意を決してギルドの扉を開ける。中から漏れ出すざわめきと、込み合う空気。前にここへ来た時より、やや混雑しているようだ。ルナは周囲に気をつけながらカウンターへ向かい、採集物の報告をするために並んだ。
(これで問題なく受理されれば、初仕事はひとまず成功。早く終わらせて、ハクにも美味しいお肉を食べさせてあげないとな)
微かな空腹感をこらえながらも、ルナは胸の奥に達成感を漂わせていた。一歩一歩、順番が近づくごとに次の楽しみが増えていく気がして――それが、なんとも新鮮な喜びだった。
冒険者ギルドのカウンターへ近づいてみると、そこにいたのは猫耳をした獣人の女性――いわゆる獣人族のお姉さんだった。柔らかそうな毛並みの耳が頭上でピンと立ち、瞳の色もどこか獣じみている。思わぬ存在感に、ルナは思わず目を丸くする。
「んー? お前がルナかにゃ? ギルマスから話は聞いてるから安心するにゃ」
特徴的な語尾を混ぜながら、にこっと笑って挨拶してくれる猫耳のお姉さん。ギルドマスターは不在らしく、代わりに彼女が薬草の納品応対をしてくれるようだ。
「お、お世話になります。よろしくお願いします」
ルナは少し緊張しながらも礼儀正しく頭を下げ、手にしたカゴをテーブルの上に広げる。中には、森の入り口や草原で丹念に摘み取ってきた薬草がぎっしり。猫耳のお姉さんはその様子を見て目を輝かせると、猫科のようなしなやかな動きでテーブルの傍らに立ち、ひとつひとつ手に取り始めた。
「にゃるほど……赤い葉っぱはこれ、“火消し葉”かにゃ。熱や炎症を抑える薬にできるにゃ。こっちの灰色っぽいのは“灰被り草”、ちょっと毒があるけど、加工すれば痛み止めとして重宝されるにゃ」
彼女は慣れた手つきで薬草を確認していく。猫耳がひょこひょこと動くたびに、ルナは「可愛いなあ」と内心思いながらも、なんとか平静を保って評価結果を待つ。
途中、小袋に入れていた根や茎、花などもひとまとめにテーブルへ出すと、お姉さんは「おー、思ったより多いにゃ」と驚き混じりの声を上げる。
「こんなに集めてきたのかにゃ? 初依頼だって聞いたけど、ルナ、なかなかやるじゃないかにゃ」
お姉さんが褒めてくれると、ルナは素直に「ありがとうございます」と微笑む。猫耳のお姉さんは続けざまに書類へペンを走らせ、薬草の種類と量をメモしていく。
「これなら相場よりちょっといい値段で買い取れそうにゃ。ギルマスも、『ルナはしっかり頑張ってる』って言ってたし、信用がある子だと思うにゃ」
そう言って、にっこり笑顔を向ける。ルナとしては初めての依頼でここまで評価されるとは思っていなかったので、素直に嬉しさがこみ上げてくる。
「よ、よかった……ありがとうございます」
「にゃーにゃー、いいってことにゃ。じゃあ、これで書類をまとめるから、少し待つにゃ。終わったらすぐに報酬を計算するにゃ」
パタパタと足音をさせながら、猫耳のお姉さんは書類を抱えて奥のデスクへと移動していく。卓の向こうではほかの職員が積み上げられた書類とにらめっこしていて、どうやらギルドマスター不在のあいだも、こうしたやり取りは滞りなく進んでいるようだ。
ルナはその様子を遠目に見ながら、ほっと息をつく。前世での書類仕事を思い出して、やや懐かしくもある。一方で背負いリュックの中のハクが、「早く終わらないかな……おなかすいた……」と小さな念話を送ってきた。
「もうちょっとだからね、ハク。我慢してね」
優しくハクを宥めるように念話を返しつつ、ルナは新しい生活の第一歩を着実に踏みしめているのだと、胸いっぱいの達成感をかみしめていた。どんな報酬になるのか楽しみだし、何より――待ちに待った「おいしいごはん」への期待が膨らんでいくばかりだった。
「お待たせしたにゃん。今回、たくさんあったので銀貨五枚にゃ。しかも珍しい薬草が混じってたから、オマケで銀貨一枚追加して合計六枚にゃ!」
猫耳のお姉さんは満面の笑みで銀貨の束を差し出してくれた。
「ありがとうございます!」
ルナは思わずペコリと頭を下げる。魔石を売るほど高額にはならないが、ギルドから確実に報酬が入るというのは大きな安心だ。なにより、十二歳の少女が一日で手にする金額としては十分すぎるほど嬉しい。
そこへ、リュックの中からハクの念話が届く。
「ルナ、まだ? にく、にく……」
お腹が限界を迎えつつあるハクの声に、ルナもふっと苦笑する。そういえば朝から動きっぱなしで、自分自身もすっかり腹ペコだ。お姉さんに「またよろしくお願いします」と一言挨拶し、ギルドをあとにした。大通りへ出ると、先ほど鼻をくすぐった屋台街の香ばしい匂いが迎えてくれる。
「よーし、ハク。今日は初めての依頼達成だし、ちょっとだけ贅沢しようか?」
ルナの問いに、ハクは「うん!」と勢いよく念話で返事をする。
瓦礫が積まれたような古い街並みではなく、ちゃんと整備された大通りや広場に面しているだけあって、人の流れも多く、屋台の数もかなり豊富だ。周囲を見渡せば、あちらでは鉄串に刺した肉を豪快に焼いているし、こちらでは湯気の立つシチューのようなものを出している。甘い蜜を垂らした焼き菓子もあるし、香辛料の効いたスパイシーな香りが鼻をくすぐる屋台もある。
「うわあ……どれにしようか迷っちゃうな……」
ルナは銀貨と銅貨の枚数をざっと頭の中で計算しながら、ハクの好きそうな肉料理がありそうな店をキョロキョロと探す。童顔な上に背が低いルナにとって、大人たちの肩越しに覗く屋台はちょっとした冒険みたいだ。
リュックの中で、ハクはもどかしそうに「にく、にく……」とつぶやいている。ルナはそんなハクをなだめながら、ようやく目星をつけた屋台へ足を向けた。
「いらっしゃい! お嬢ちゃん、一人かい? 今日はおまけしとくよ!」
香ばしい肉を炙る屋台のおじさんは、いかにも人当たりが良さそうだ。鉄串にたっぷり刺さった肉塊がじゅうじゅう音を立て、染み出す肉汁が炭火に落ちては香ばしい煙を立てている。ルナは思わず唾を飲み込みながら、好みの大きさを指さした。
「これを……一本ください。……あ、あと、できれば少し細かく切ってもらえますか?」
「もちろんいいとも! ほらよっ、熱いから気をつけな!」
そう言って渡された肉串は、こんがり焼けた外側がとてもいい香りで、ハクだけでなくルナの食欲をも刺激する。おじさんが切り分けてくれた小さな肉片を、ルナはそっとリュックの口のあたりへ持っていった。
「はい、ハク。まだ熱いから、ゆっくり食べてね」
「……わーい、にくー!」
はじめての焼き肉の味に、ハクは尻尾を振るような気配を念話で伝えてくる。ルナも一口かじってみると、噛むたびに肉汁がジュワッと広がり、ほのかな塩味と炭火の香りがたまらない。朝からの採集で消耗していた体が、一気に活力を取り戻すようだ。
「……おいしい……! ハク、どう?」
「すごい、おいしい! やわらかい!」
ハクのはしゃいだ声を聞いて、ルナの心もあったかくなる。今日は初依頼の報酬を受け取り、そしてこうして美味しい肉を味わえる。どれもささやかな一歩だけど、確実に自分が“生きている”手応えを感じられる瞬間だ。
焼き串を平らげたルナとハクは、まだ香りに誘われるように何か別の屋台を覗きながら、のんびり通りを散策していく。
「さて……宿に戻って、今日のところはゆっくり休もうか」
腹を満たし、心も満たされつつある。新米冒険者のルナには、すべてが初体験の連続だ。ハクとともに街の雑踏を抜けて、薄闇に包まれ始める空を見上げる。
――これから、どんな世界が広がっているのだろう? そんな期待に胸を高鳴らせながら、ルナは満足そうに息をついた。