──世界は、歪んでいた。
生命は皆、生まれながらにして罪をその身に宿していた。
他の生命を奪わねば、生きてゆくことが出来ぬ……"生きる"とは即ち罪を重ねてゆく行為に他ならない。日々、生命のやり取りが世界中の至る所で繰り広げられていた。
中でも特に罪深い存在とされたのが、人間であった。彼らは、自分たちこそが生命の頂点であると驕り高ぶり、不必要な殺戮を楽しんだ。自分勝手に善悪の概念を定義し、同族同士で殺し合うなどは日常茶飯事であった。
何より、彼らは他の生命と比べても欲望が極めて深かった。決して満たされることを知らぬその様はさながら、底なし沼のようでさえあった。
専横を極める、醜悪なる存在──ある意味で、彼らは歪んだ世界そのものを体現していると言えた。
だが──そんな世界を創造したと自ら称する
眼前では、首を吊った若い女が木枯らしに吹かれてゆらゆらと揺れていた。まだ死んでから間もないのだろうか。薄汚れた粗悪な
視線を少し動かせば、至る所に死体が転がっていた。首を刃物で掻き切った者、眼前の女のように首を吊った者、吐瀉物に塗れながら倒れている者。
「……惨いね」
黒衣に身を包んだ少女がぽつりとそう呟くと、彼女の傍らに控える一匹の黒い狼が、彼女の言葉に同意するかの如く悲しげに吠えた。
遠方に目を向けると、巨大な砂時計が蜃気楼のように不規則に輪郭を変えながら、時を刻んでいるのが見える。あの砂時計が目の前に広がる惨状の元凶だということを、少女はよく理解していた。
──"崩壊の砂時計"。
少女は砂時計のことをそう呼んでいる。それは世界が終焉を迎えるまでの秒読みをする装置。そして世界中の何処にでもあって、何処にもない空虚なるもの。生命あるものが、どれほど砂時計に近付こうと試みたところで無意味である。常に一定の距離を保ったまま、目的地に何時まで経とうとも辿り着くことは出来ないのだから。
崩壊の砂時計が出現してから、世界は変貌した。遥かなる天空より飛来する、翼持つ者──
そして……古より、人類を脅かしてきたそれらに加えて、新たに地上に出現した、嘗て人間だった者たちの、成れの果て──
崩壊の砂時計を目の当たりにし、天使や魔族、堕罪者の脅威に晒された人間たちの行動は、実に様々だった。生に絶望して自ら命を絶つ者。開き直って我欲を剥き出しにする者。心穏やかに過ごし、静かに終焉の時が訪れるのを待つ者。目の前にて屍となって転がっている彼らは、恐らく前者だったのだろう。
「──私たちの手で、彼らを葬ってあげよう……マルコシアス。もう二度と、こんな辛い世界に生まれなくても済むように」
狼に向かって少女がそう呟いた、その時だった。
少女の足元に転がっていた死体が突然起き上がり、少女の華奢な足首を掴んだ。まだ辛うじて、息のある者がいたのだ。
それは、壮年の男だった。口元が吐瀉物に塗れていることを考えるに、どうやら服毒自殺を図ったものの死にきれなかったらしい。
「ア……アアッ……」
口から汚物を撒き散らし、苦しげな呻き声を発しながら、男は少女のすらりと伸びた細い脚に縋り付く。厚手の白いストッキングや黒いスカートの裾が、瞬く間に男の吐瀉物や血に塗れ、名状し難い不気味な色へと変色した。
風でフードがめくれ、少女の素顔が露わとなる。何処か幼さが残っていながらも、その顔は彫像のように美しい。艶やかな銀色の長髪と青い瞳も相まって、この世の者とは思えぬほどの神々しさを放っていた。
「ア……アアッ……」
男は懇願するように少女を見上げる。鼻が曲がるほどの悪臭が漂うも、少女は眉ひとつ動かさない。ただ真っ直ぐ、男の目を見据えていた。
涙を流す男を見下ろしたまま、少女は小さく頷く。
刹那──目にも留まらぬ疾さで少女は抜剣し、無音で男の首を刎ねていた。
血飛沫を上げながら横倒しとなった男の身体は、暫くの間痙攣を繰り返していたが──やがて完全に動かなくなった。
少女は丁重に、男の頭を拾い上げる。苦悶に満ちていた先程までと異なり、男の死に顔は安らかなものであった。
「──おやすみ。どうか、安らかに」
男の頭部に対し、少女は穏やかな声音でそう言葉を掛けた。