「……」
「……」
そうした不安を拭えぬまま、僕と弥生さんは無言でお互いを見つめ合ったまま立ち尽くす。
それから取り繕ったように空笑いをする弥生さん。
「ま、まぁ、大丈夫だよね! うん、きっと大丈夫!」
「そ、そうですよね! 大丈夫ですよね!」
弥生さんの言葉に同調するように、僕もまた明るく振る舞うことで、自分の中の不安を打ち消そうとした。
しかし、そんな僕たちを嘲笑うかのように―――
「てめぇ、ふざけんじゃねぇっ!!」
突如として、卯月の怒号が聞こえてきた。僕らがいる炊事場と如月さんと卯月の二人がいる場所とは距離が離れているというのに、ハッキリと聞こえる程の大きさの声量であった。
それを聞いた弥生さんはビクッと身体を震わせる。僕も驚きのあまり目を大きく見開いてしまった。
「え、ちょ、どうしたの!?」
弥生さんが焦った様子で声を上げる。僕も何が起きているのか、全く理解出来なかった。
ただ言えることは、卯月の怒鳴り声が響き渡ったということだけだ。
怒鳴るということは、何か如月さんと揉めているのか、それとも別の誰かに対して怒っているのだろうか。
どちらにせよ、良くない状況であることは明白だった。
「ど、どうしよう……!」
「と、取り敢えず、僕、行ってきます!」
「えっ、大丈夫!? ていうか、あーしも一緒に行くよ!」
弥生さんは慌てた様子でそう言ってくれた。僕はそれに対して首を横に振る。
「い、いえ、大丈夫です。それよりも、弥生さんはここに残っていてください。炊飯中の飯盒を放置しておく訳にはいきませんから」
「そ、そっか……そうだよね。……分かった、そっちは任せるよ。その代わり、こっちは任せて!」
弥生さんはそう言うと、親指を立てて見せた。僕はそんな彼女に対して頷いて応える。そして僕は急いで如月さんと卯月のいる場所へと向かうのだった。
息を切らしながら僕が二人のもとに到着すると、そこでは驚くべき光景が僕を待ち受けていた。
「お、お前……いい加減にしろよ!」
「……嫌」
「この、我が儘ばかり言いやがって!」
なんと、卯月が如月さんを背後から羽交い締めにしていて、何やら押し留めて、彼女の動きを封じているようだった。そして如月さんはといえば、そこから抜け出そうとジタバタと普段の姿とはかけ離れた行動を取っていた。
その光景を見た僕は思わず呆然としてしまう。何がなんだか良く分からない状態だったのだ。
しかし、そんな中で卯月だけは僕の存在に気付いたようで、僕に向かって声を掛けてきた。
「おい、立花! お前も手伝え!」
「えっ、ええっ!?」
突然、卯月からそんなことを言われて、僕は困惑を隠しきれなかった。いや、だってそうだろう? いきなりこんなことを言われたら誰だって困惑するに決まってるじゃないか。
「いいから、早くこっちに来い! で、如月が持っている瓶と容器を取り上げろ!」
「え、えっと……わ、分かった!」
とりあえず、何が起きているか分からなかったけど、僕は卯月の指示に従って、如月さんが手に持っている瓶とプラスチック製の容器を取り上げようとする。しかし、彼女はいつになく真剣な表情で抵抗してきた。
「離して」
「うるせぇ、大人しくしろ!」
卯月はより一層力を込めて如月さんの動きを封じ込めようとしているみたいだった。だが、それでもなお、如月さんは抵抗することを止めない。
「離してって言ってる」
「だから、嫌だって言ってんだろうが! 離したら、どうせその中身を入れるに決まってるだろ!」
「……そんなことしない」
「それ、絶対にするやつの反応だろうが! とにかく、離す訳にはいかないんだよ!」
卯月が語気を強めると、如月さんも負けじと言い返してきた。二人は口論を続けながらも、お互いに譲ることなく攻防を続ける。その様子はまるで子供同士の喧嘩のようだった。
「立花、早くしろ! このままだと、俺が社会的に死ぬ!」
「う、うん、分かったよ!」
卯月が切羽詰まったような声で僕に訴えかけてくる。それを見て、僕も覚悟を決めて、如月さんの手から瓶と容器を取り上げた。
すると、如月さんは恨めしそうな目で、不機嫌そうな表情で僕のことを睨んでくる。
「返して」
彼女は短くそう言って、手を伸ばしてきた。しかし、未だ卯月に羽交い締めにされているから、その手が僕から瓶と容器を奪い返すことは出来ないようだった。
「おい、駄目だぞ。絶対に返すなよ」
「う、うん。でも、これって何の瓶と容器なのかな?」
卯月に凄まれつつ、念押しされるように言われた僕は、戸惑いつつもその中身が何なのかを確認しようと近づけて見た。すると、中には何なのかが察しのつく赤色の粉末と、色々な粉末が混ざったようなものが入っていた。
「えっと……こっちは多分、唐辛子粉末で……こっちは、何だろう?」
「ガラムマサラ」
「え?」
「香りづけの香辛料」
如月さんは淡々とした口調でそう言った。それを聞いて、僕はなるほどと思う。どうやら、これは調味料のようなものらしい。
「へぇ、そうなんだね」
「おい、立花! 納得してる場合じゃねぇぞ!」
「え、え?」
「そっちはいいにしても、もう一つの方が問題なんだよ! こいつ、作ったカレーに唐辛子の粉を全部入れるつもりだったんだぞ!」
「え、ええー……」
如月さんの計画を聞いて、僕は唖然としてしまった。いくらなんでもそれはやり過ぎではないだろうかと思ってしまうのだ。というか、普通はそこまでやらないと思うんだけど……。
「……駄目?」
如月さんは首を傾げて、そう訊ねてくる。その姿はとても可愛らしいものであったが、今はそれ以上に彼女の考えが理解出来なくて困ってしまう。
「だ、駄目だよ! そんなに入れたら食べられないよ!」
「大丈夫、食べられるから」
「それは如月さんだけだから!」
「そんなことない。辛いものは美味しいもの」
「そ、そんな暴論あるかな!?」
如月さんの主張に思わず突っ込みを入れてしまう僕。だけど、彼女はそんな僕に対して真顔で見つめ返してくるだけだった。
「そもそも、別にそこまで辛くしなくてもいいんじゃないかな……?」
「違う。辛くないのに、カレーなんて名乗る資格はない」
如月さんは無表情のまま、平然とそう言いきった。いや、カレーって辛い食べ物って意味じゃないけど……?
「それに、唐辛子は入れれば入れる程、幸せになれるから」
「ねえよ!?」
「絶対に違うよ!?」
僕と卯月の声が重なった。どう考えてもおかしいでしょ!? いくら何でも無理があり過ぎるよ! 流石にこればっかりは認められないよね!?
「とにかく、それは没収だ! 立花、それをこいつの手に渡らないように預かっておいてくれ」
「あ、うん、分かったよ」
僕は頷くと、如月さんから取り上げた瓶と容器を背中の後ろに隠した。それを見た如月さんは不満そうな表情を見せる。
「どうして隠すの?」
「い、いや、だって、これはちょっと危ないから……」
「危なくない」
「いやいや、どう見ても危険物だよ!」
「どこが危険なの?」
「どこもかしこもだよ!」
僕は必死に訴えるが、如月さんは全く理解してくれない様子だった。それどころか、さらに不服そうな顔になる始末だった。
「蓮くんは、私を裏切るの?」
「へ? いや、そういう訳じゃ……」
「じゃあ、何で私の邪魔をするの?」
「そ、それは……」
「あのなぁ、お前が変なものを作ろうとするから、邪魔してるんだよ!」
僕が言葉に詰まっていると、横から卯月が口を挟んできた。それに対して、如月さんは鋭い視線を向ける。
「変じゃない」
「十分変だろ! 食べられないもんを作ろうとしている時点でアウトだっつーの!」
「そんなことない」
卯月の言葉に如月さんはきっぱりとそう言って断言をした。それから彼女はまた僕のことを見つめてきた。その視線にはどこか強い意志のようなものが感じられた気がした。