そしてその日の放課後、ホームルームが終わった後で、僕は如月さんに声を掛けようと立ち上がる。だけど、僕が話し掛けようとする前に、如月さんは鞄を持つと足早に教室から出て行ってしまった。
そんな彼女に追いつこうと、僕は慌てて後を追う。すると、如月さんは帰る為に昇降口へ向かっていくのではなく、階段を上がっていく姿が目に入った。どうやら帰るわけではないらしい。
そのことに少しホッとしつつ、僕もまた帰る為や部活に行く目的の押し寄せる人の波を避けながら、彼女の後に続いて階段を上っていく。すると、上の階の踊り場付近で彼女の姿を見失ってしまった。どうやらさらに上の階に行ったようだ。
彼女が向かったと思われる場所を目指して歩みを進めると、程なくしてその姿を見つけることができた。そこは屋上へと続く扉の前だった。どうやら彼女はここから外へ出たらしい。
「屋上かぁ……」
本来であれば、屋上は立ち入り禁止とされている場所だ。そうした内容の張り紙が扉の前にも張られているが、それが発揮する効力は皆無に等しいだろうと思う。
そしてここも、昨日に如月さんに連れられて訪れた校舎裏の非常階段前と同様に、不良生徒の溜まり場とされている場所でもある。
しかし、屋上からはあまり人の気配というものは感じてこなかった。恐らくではあるが、他の生徒たちがあまり寄り付かないせいだと思う。
そんな訳で僕は恐る恐る扉を開けてみることにする。ギィィッと音を立てて年季の入った扉を開くと、その先に広がっていたのは、予想通り人気のなく、殺風景で閑散とした空間だった。
僕は胸を撫で下ろしながら、音を立てないようにゆっくりと扉を閉めると、改めて周囲を見回してみる。そしてそこには案の定と言うべきか、予想通りの人物の後ろ姿があった。そう、如月さんである。
彼女は屋上の周囲に張り巡らされた落下防止のフェンスに手を掛けながら、空を見上げていた。その瞳には一体何が見えているのか僕には分からないけど、とても真剣な眼差しをしているように思えた。
そんな彼女の姿を見ていると、声を掛けることを躊躇ってしまう。けれどいつまでもここに立っているわけにもいかないと思い直し、勇気を出して声を掛けた。
「き、如月さん……?」
そう呼び掛けると、彼女はゆっくりとこちらを振り返る。そして僕と目が合うなり、口を開いた。
「どうしたの? 何か用?」
相変わらず抑揚のない声で尋ねてくる如月さん。それに対して僕は苦笑を浮かべながら言った。
「いや……えっと、その、何してるのかなって気になってさ」
そう言うと、彼女は再び空へと視線を向けた後、淡々とした口調で答える。
「……景色を眺めてる」
その言葉に釣られて僕も視線を上空へと移す。そこから見える空は青く澄み渡り、雲一つない快晴の空模様。そしてもうしばらくすれば夕暮れを迎える為か、太陽が徐々に傾き始めていた。
「確かに、良い天気だね」
僕が呟くように口にすると、彼女もこくりと頷いて同意を示す。それから少しの間沈黙が流れた後で、不意に彼女が言った。
「それで?」
「え?」
「私に何か用があったんじゃないの?」
そう言われてハッとする僕。そう言えばそうだった。あまりにも彼女がいつも通りの態度だったので忘れていたけど、僕は彼女に用事があってここに来たんだった。
危うく目的を忘れるところだった。危ない危ない。僕は軽く咳払いをすると彼女に尋ねる。
「あ、あのさ……ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
そう尋ねると、彼女は無言のままこちらを一瞥した後、無言で頷いた。それを見て安心した僕は言葉を続ける。
「昨日貰ったこの鍵なんだけど……」
そう言いながらポケットから取り出した鍵を彼女に見せる。僕が持っている鍵に視線を集中させながら、彼女は首を傾げてみせた。
「それがどうかしたの?」
「いや、どうしたも何も……」
「……?」
「その、えっと……」
逆にこっちが聞きたいくらいなのだが、そんなことを言えるはずもなく、僕は言葉を濁してしまう。そんな僕の様子を眺めていた彼女は見兼ねてか、変化に乏しいその表情を少しだけ歪めてみせた。
「……言いたいことがあるなら、はっきりと言って欲しいんだけど」
そう言って見つめてくる彼女を前に、僕はゴクリと唾を飲み込む。僕の優柔不断な態度に、彼女は不機嫌さを募らせているのだった。
これ以上は如月さんの機嫌を損ねてしまわないようにと、僕は意を決して彼女に尋ねた。
「こ、この合鍵のことなんだけどさ。渡されたはいいけど、これってどういう意味なのかなって思って」
「……」
僕の言葉を聞いて、如月さんは黙り込んでしまう。やはり聞くべきではなかったのだろうか。そう思っていると、彼女は静かに口を開いて答えた。
「そのままの意味だよ」
それだけ言って如月さんは再び口を閉ざしてしまう。そして彼女はまた空を見上げて黙ってしまった。そんな彼女の横顔を見つめながら、僕は必死に頭を働かせる。
(そのままの意味って……どういうこと?)
彼女の言葉の意味を考える為に思考を巡らせるが、残念ながらその意味を理解することができなかった。
そのままというのは言葉通りそのままの意味なのだろうけど……本当にそのまま? 自由に如月さんの家に出入りしていいよってこと?
いや、まさか……流石にそれは無いよね? そんなことを考えていた僕の思考を断ち切るように、彼女が言葉を発する。
「あなたは私の恋人役だから」
「う、うん……」
「何かあった時、すぐに駆け付けられるようにしておきたいから」
その言葉を聞いた瞬間、僕は思わずドキッとする。だって、それってつまりいつでも来ていいってことだから。つまりはそういうことだよね……?
いやいや、勘違いしちゃダメだ。いくらなんでも、僕に都合よく考え過ぎだよ。きっと如月さんの考えとしては、そういう意味じゃないはずだ。そう自分に言い聞かせて、何とか平静を保つことに成功した僕だったけど、それでも心臓の鼓動は早くなるばかりだった。
そんな僕に構うことなく、如月さんは続けて言う。
「あと、うち……親はいないから」
「え?」
「一人暮らししてる」
突然のカミングアウトに驚く僕を他所に、彼女は淡々とした調子で話を続ける。
「だから、それをどうするかは、蓮くんの好きにしてくれればいい。彼氏役になってくれた見返りと思ってくれていいから」
そこまで言うと、彼女は再び黙り込んだ。どうやら話は終わりということらしい。要するに、これは遠回しに『家に来てくれ』と言われているのではないか? しかも合鍵を渡すという行為によって、その意味合いを強調させているような気さえしてくる。
けど、どうなんだろう。如月さんの言葉をそのままの意味で、額面通りに受け取ってしまって大丈夫なのだろうか。
もし違ったら自意識過剰みたいで恥ずかしいし、何より彼女にとって迷惑でしかないかもしれない。それなのに一人で先走って判断を下すわけにはいかないだろう。
……とりあえず、今はこの鍵は使わないでおこう。必要に迫った時に使えばいいと、そう考えて僕はポケットにしまい込んだのだった。
そして僕は如月さんを残して屋上から出て行った。その際に彼女に一緒に帰らないかと誘ってみたのだけど、あっさりと断られてしまったので仕方なく帰路に着くことにしたのだ。
そうして昇降口まで降りてきたところで、ふとあることを思い出す。
「……そういえば、僕。如月さんの住んでいるところって知らないや」
その事実に気付いて愕然とする僕なのだった。鍵の使い道以前に、鍵の使用する先が分からないのでは意味がないではないか。
場所について聞いておけば良かったなと思いながらも、後の祭りだ。今更引き返して彼女に聞くのもなんなので、今日のところは止めておこう。聞いたところで、彼女の家に行くつもりはまだ無いのだから。
こうして僕は家路に就くことになったのだが、家に帰ってからも彼女のことが頭から離れず、悶々とした気分のまま夜を過ごすことになってしまった。