「ねぇ」
後ろから聞こえてきたその声に反応して、僕は振り返る。すると、そこには如月さんが立っていて、僕のことを見つめていた。今日も今日とて無表情で無愛想な様子は変わらない。そんな彼女に対して、僕は恐る恐る言葉を返す。
「え、えっと、どうしたの?」
「来て」
「えっ?」
表情を変えないまま、相も変わらずな淡々とした口調で、如月さんは短くそう告げた。あまりに唐突だったから、僕は呆気に取られてしまって、間の抜けた声を出していた。
「一緒に来て」
「え、えぇっ!?」
だけども、彼女はそんなことお構いなしといった感じで言葉を続けた。だからこそ、僕は思わず驚きの声を漏らしてしまう。いや、一体どういう事なんだろうか。
「嫌ならいいけど」
「い、嫌なわけじゃなくて! というか、むしろ嬉しいっていうか、何ていうか……」
慌てて首を振りながら否定する僕の言葉に、彼女は少しだけ表情を和らげる。その表情の変化にドキッとする僕だったが、彼女はそれに構わず言葉を続けた。
「じゃあ、付いて来て」
それだけ言うと、如月さんはさっさと歩き出してしまう。僕は戸惑いながらも、彼女を追い掛けるようにして歩き出した。
廊下を歩きながら、僕は必死に頭を働かせる。一体これから何をするつもりなのか。そもそもどうして僕に一緒に来てと言ったのか。僕に何の用があるのか。聞きたいことは山ほどあった。
どうしてこんなことになったんだろう。彼女はいったい何をするつもりなんだろう。頭の中をぐるぐると疑問が駆け巡る。だけど、どれだけ考えても答えは出ない。それどころか、どんどん混乱していく一方だった。
そうして僕が頭を悩ませている間にも、彼女は歩みを止めない。一度も振り返る事もなく、ただ黙々と歩いているだけだ。
その足取りには迷いがないように見えるし、目的地があるようにも見える。だけど、その真意までは分からない。
もういっその事、直接聞いてしまおうかとも思ったけど、それも何だか気が引けてしまう。なので、僕はとにかく黙って後をついて行くことにする。
やがてしばらく歩いたところで、彼女が足を止める。そして辿り着いた先は校舎裏にある非常階段の前だった。
ほとんど人が来ない場所なので薄暗く、どこか不気味な雰囲気が漂っている気がする。なんなら確か、ここは不良の溜まり場になっているという噂もあったはずだ。
そんな場所に連れて来られたことで、ますます僕の頭の中に疑問符が浮かんでしまう。そうした中、彼女はくるりと振り返り、僕の事を真っ直ぐ見つめてきた。
「……ここなら誰も来ないわね」
そして如月さんは呟くようにそう言うと、そのまま黙り込んでしまう。相変わらず何を考えているのか分からない表情だが、彼女のその目は真剣そのものだ。
「えっと……?」
よく分からない状況に対して僕が困惑していると、如月さんは少しだけ僕に近寄ってから軽く首を傾けていた。
「誰にも聞かれたくない話があるから」
「あ、うん」
「だからここにしたの」
「そ、そうなんだ……」
僕は彼女の言葉に頷くことしかできない。どうやら何か大事な話をするつもりらしい。それは分かるんだけど、その内容が全く予想できない。しばらく沈黙が続いた後で、やがて彼女が自分の髪をいじりながら口を開く。
「あのさ」
「う、うん」
「名前」
「え?」
「名前、なんていうの?」
首を傾げながら問い掛けてくる如月さん。まさかそんなことを聞かれるとは想定していなかった僕は面食らってしまい、思わず固まってしまう。だってさ、かれこれ一年も同じクラスだったのに、名前を覚えられていなかったのだから。
ショックと言えばショックだけど、同時に納得できる気もした。彼女は他人に興味がないし、興味のない相手には全くと言っていいほど関心を持たないのだ。
そんなことを考えている間にも、彼女はじーっと僕の顔を見つめている。早く質問に答えろということなのだろう。仕方なく僕は口を開いた。
「えっと……その、立花です」
「下の名前は?」
「……蓮です」
「そう」
納得したような素振りをみせると、彼女は小さく頷いて見せた。
「じゃあ、蓮くん」
そしてまさかの名前呼びだった。普通に苗字呼びで、立花くんとか呼ばれるものだと身構えていたものだから、不意打ち過ぎて心臓がバクバク言っているのが分かる。
お陰で変な声が出そうになったけど、それが漏れるのを僕は必死で堪えた。そしてそれを表に出すわけにはいかないので、なんとか平静を装う。
「な、何、かな……?」
動揺を隠しつつ何とか返事をする僕だったが、対する彼女は特に気にする様子もなく話を続ける。
「これ」
そう言って彼女が差し出してきたものは一枚のメモ用紙だった。そこには綺麗な字で数字がいくつか書かれている。何かの番号だろうか?
「これは?」
「私の携帯の電話番号」
僕がそう尋ねると、彼女は表情を変えずに答える。それを受けて改めてメモに視線を落とすと、そこには確かに十一桁の数字が書かれている。つまりこの数字は彼女の携帯電話の番号ということになるのだろう。
僕はそれを理解すると同時に驚きのあまり目を見開く。まさか彼女が僕に連絡先を教えてくるなんて思いもしなかったからだ。
今までそんな素振りを見せたことは一度もなかったし、何よりも他人との関わりを避けたがっていたはずなのに。
予想外の展開に戸惑っている僕に、彼女はさらに追い討ちをかけるようにまた何かを差し出してきた。
「それと、これも」
その手に握られていたのは小さな鍵だった。キーホルダーも何もついていないシンプルなデザインの鍵だ。いったいどこの鍵だろう? そう考えていると、彼女は続けて言った。
「私の家の合鍵」
「……え?」
突然告げられた言葉に、僕は一瞬何を言われたのか理解できなかった。いや、言葉の意味自体は理解できるのだが、頭が理解することを拒んでいるのだ。
今この人は何て言ったんだ……? 僕は呆然としたまま立ち尽くすことしか出来なかった。その間にも彼女は言葉を続ける。
「ねぇ、蓮くん」
「う、うん」
「私と、付き合って欲しい」
「……へ?」
如月さんが発した衝撃的な言葉を耳にして、僕は硬直することしかできなかった。あまりに予想外な出来事すぎて思考回路がショート寸前だ。
そんな僕のことなどお構いなしといった様子で、彼女は再び口を開く。
「聞こえなかった?」
「い、いや、そうじゃなくて……」
ようやく我に返った僕は慌てて言葉を探すが、上手く考えがまとまらない。すると痺れを切らしたのか、彼女の方から再び話し始めた。
「私と付き合って」
その言葉を聞いた瞬間、今度こそ本当に思考が停止したような気がした。あまりにも突然の告白に僕の頭は真っ白になってしまったのだ。