「こいつが『暴食』……なのか?」
でっぷりとした体に大きな口。歯は黄色く、とてもこの世の生き物とは思えない。
仮にこいつが「暴食」だとして、どうやって乗り越えるんだ? この怪物――明らかに人ではない――を乗り越える、つまり倒すには銃火器がないと無理だ。やはり、圭たち警察に任せるべきだ。だが、この場に警察はいない。どうする?
あたりを見渡すと客の大半が散乱したテーブルやイスの陰に隠れている。もちろん、里帆も。このままじゃ、この場の人間は全員殺される。
俺は足元に落ちていたプラスチック製のイスを担ぐ。そして、思い切り振りかぶる。
「これでもくらえ!」
勢いよくモンスターに叩きつけるが、あっという間に粉々に砕け散る。それも、皮膚にぶつかる前に。
こいつ、変なオーラをまとってる。禍々しい黒色のオーラが本体を守っているに違いない。
「晴人、逃げて! そいつから離れて!」
里帆の声が聞こえた――と思った時には、体は宙を舞っていた。
ああ、このまま地面にぶつかって死ぬんだな。もっと、里帆と一緒に過ごしたかった。言いたいことも山ほどある。だが、それも叶いそうにない。じゃあな、里帆。
蔵で見つけた指輪が地面から飛び上がる。まるで、意思があるかのように。指輪からは薄く黒い何かが漏れ出ている。里帆や圭の言う通り、こいつは危ない代物かもしれない。だが、はめていた時は蔵に拳をぶつけてもなんとも感じなかった。つまり――。
指輪をはめると、体中を薄い黒色のオーラが包み込む。あの時と一緒だ。地面にぶつかる衝撃に備えて腕で顔面を覆う。ズシン、と音を立てて着地する。普通なら骨折、いや、死んでいただろう。だが、そうはならなかった。指輪のおかげに違いない。こいつがあれば、あの怪物とも対等に渡り合える気がする。
「こいつをくらえ!」
ボディーブローがヒットすると、モンスターは後ずさりする。確実にダメージを与えられている。
このままラッシュをくらわせれば、倒しきれる!
パトカーのサイレンが聞こえてくる。
「グギガゲゼヨ」
そう叫ぶとモンスターは背を向けて逃げ出そうとする。
「させるか!」
足を振り上げて、かかと落としをくらわす――はずだった。しかし、空を切り地面に突き刺さる。
「ちっ、外したか」
パーン、と音が鳴る。勘違いじゃなければ銃声だ。やっと警察が来たらしい。
「おい、そこの民間人! そいつから離れろ!」
離れろ? とどめを刺すチャンスを逃すわけないだろ。
「今度こそ、終わりだ」
拳を顔面に食らわせる。しかし、モンスターの顔に黒いオーラが密集し、衝撃が吸収される。
こいつ、オーラを自在に操れるのか。それなら、きっと俺にもできるはず。オーラよ右手に集まれ。集まれ。
「これは……」
拳のオーラは揺らいでいるが、剣の形をしている。こいつの斬撃で切り裂く!
腕を振り上げると、拳銃を手にした警官が視界に入る。遠くからモンスターを撃つつもりか。だが、それはまずい。間違って俺に当たれば即死する。オーラが守っているのは右腕のみ。
素早くモンスターから離れる。向こうも好機と受け取ったのか、ぶよぶよとした巨体を揺らしながら逃げていく。
ちくしょう、トドメまでいけなかった。このままでは、どこかで奴による被害が増えていく。悔しいが、今回はここまでだろう。
「あなた、そこで何してるんですか!」
警察官が慌てて近寄ってくる。俺の右腕を見るなり、顔が引きつる。
「お前……奴の仲間なのか?」
「それは違う! 俺は奴を倒そうとしただけだ」
俺は指輪を引き抜いて黒いオーラを消し去る。これなら問題あるまい。
「そうだとしても、署に来てもらうぞ。詳しい話を聞かせてもらおうか」
なんだか面倒なことになってきたぞ。
駆けつけた警官の中に圭の姿がある。それなら話は早い。
「圭、なんとかしてくれ」
「そう言われても。これは職務だからな」
市民を守ったのに連行されるのは納得がいかない。
圭が耳打ちしてくる。
「言っただろ? 不審者が目撃されているって」
不審者と誤魔化していたのは、市民の不安を和らげるためか。つまり、警察は「暴食」と思われるモンスターの存在を隠していた。
「なあ、さっきからお前のことを見つめてる女の人がいるんだが」
圭の視線の先にいたのは里帆だった。
「里帆、ごめん。心配させて」
「ううん。だけど、あの黒いモヤモヤは何? 指輪をはめてから、おかしくなったわ。やっぱり、それは捨てるべきよ」
「これを捨てる? それじゃあ、またモンスターが現れた時に対抗できない」
「晴人、あなたが戦う必要はないわ」
里帆は、どうしても指輪を捨てさせたいらしい。頭がスッキリと冴える感覚。そして、イメージ通りに操れるオーラ。問題はないように思うんだが。
「へえ、この人がお前の恋人か? 俺は小野寺圭。こいつの幼馴染だ」
「聞いたことがあるわ。骨董屋の息子だって」と里帆。
「おいおい、二人で盛り上がるなよ」
人の恋人に馴れ馴れしく話しかけて欲しくはない。
「それで、二人はどうしてここに?」と圭。
「それは、えーと。なんでだっけ」
俺の言葉に里帆が固まる。まるで、氷像のように。
「え、ショッピングの休憩でしょ? ちょっと、しっかりしてよ」
そういえば、そうだった……ような。あまり、記憶がない。
「ねえ、その指輪、はめていると『記憶がなくなる』なんてことないわよね」
記憶がなくなる? なんとなく身に覚えがある。蔵ではめた時も、里帆から聞くまで指輪は彼女からもらったと勘違いしていた。
もし、記憶を失うというデメリットがあるなら大きな問題だ。今回は小さな記憶で済んだ。もし、これから力の行使を続ければ、次になくす記憶は里帆との思い出かもしれない。いや、すでにそうなっている。
途端に手のひらに乗った指輪が恐ろしくなった。こんなもの、どこかに行ってしまえ!
思い切り放り投げる。指輪は弧を描いて飛んでいく――。と、思いきや、ブーメランのように手元に戻ってくる。まさか、生きているのか?
「な、なんなのこれ……」と里帆が一歩後ずさる。
「……やっぱりお前は、普通の人間じゃなくなってるのかもしれないな」と、圭がつぶやく。
「この指輪、警察に預けた方がいい。鑑識に――」
「無理だよ、圭」と俺は言った。
「こいつ、捨てようとしても戻ってくる。たぶん、もう俺から離れない」
里帆の手が俺の腕をつかむ。か細い声で言った。
「お願い、晴人……その指輪に飲み込まれないで」
俺は答えられなかった。ただ、じっと指輪を見つめることしかできなかった。
その時――。
俺の影が、かすかに揺れた。
風は吹いていない。照明も変わっていない。それなのに、俺の足元の影だけが、にじむように歪んだ。
誰も気づいていない。里帆も、圭も。
俺だけが、それを見ていた。
指輪の黒いオーラが、わずかに、影へと伸びていた。
まるで、何かとつながっているかのように――。