翌日の日曜日。田中は、週課となっている食料品の買い出しのため、近所のスーパーマーケットを訪れていた。特売の卵、牛乳、食パン。いつもの棚を巡る、いつも通りの退屈なルーティンだ。
カートを押しながら、ぼんやりと惣菜コーナーに目をやると、ふと見慣れた後ろ姿が網膜に映った。艶やかな黒髪をラフなポニーテールにまとめ、白いTシャツに色褪せたジーンズという、極めてカジュアルな出で立ち。だが、その背筋の伸びた凛とした立ち姿には、確かな見覚えがあった。
(……あれは……鈴木先生?)
保育園でのエプロン姿とは打って変わり、完全なプライベートモードだ。それでも、その整った横顔は、昨日出会ったばかりの、あの不機嫌な美人保育士、鈴木みさきに間違いなかった。彼女は、真剣な眼差しで、カゴに入ったトマトを一つ一つ吟味している。
(……まずい、気づかれたくない……)
田中は、咄嗟に商品棚の陰に身を隠そうとした。昨日の今日である。顔を合わせるのは、あまりにも気まずい。しかし、運命の悪戯か、彼女がふと顔を上げたタイミングで、二人の視線は真正面から交錯してしまった。
「……………………あ」
みさきが、小さく息を漏らした。彼女の大きな瞳が、驚きに見開かれる。そして次の瞬間には、気まずさと、わずかな戸惑いが入り混じったような、複雑な表情へと変化した。
田中も、どう反応していいかわからず、とりあえず反射的に会釈した。
「あ、ど、どうも……昨日はどうも……」
ぎこちない沈黙が落ちる。スーパー特有の喧騒だけが、やけに耳についた。
彼女も、軽く頭を下げ返す。しかし、その視線は落ち着きなく宙を彷徨い、田中と足元の床を交互に見ている。気のせいか、彼女の頬が、またしても、うっすらと桜色に染まっているように見える。
(何か、何か言わなければ…この空気をどうにかしないと…)
田中は、この針の筵のような状況を打開しようと、必死で言葉を探した。だが、焦れば焦るほど、気の利いた台詞など浮かぶはずもない。そして、またしても。彼の口は、最悪のタイミングで、最悪の言葉を紡ぎ出してしまった。
「あ、どうも。今日は…ええと、スーパーな人出ですね…まるで、鳥でもいるみたいに…いや、何でもないです、すみません…」
言ってしまった。スーパーマーケットで「スーパーな人出」「鳥でもいるみたい」。意味不明な上に、何の面白みもない、ただただ寒い言葉の羅列。状況との関連性もゼロ。最悪だ。穴があったら入りたい、とはまさにこのことだ。自分で自分の口を塞ぎたくなった。
予期した通り、みさきの顔が、カッと音を立てるように赤くなった。昨日遭遇したどの赤面よりも、さらに強烈な赤さだ。信じられない、という表情で田中を睨みつけ、全身をわなわなと震わせ始めた。
「………っ!! あ、あなたという人は……っ、本当に………もうっ!!」
その声は、純粋な怒りだけではない。羞恥、困惑、そして何か別の、言語化できない強い感情が渦巻いているような響きを帯びていた。彼女は、顔を真っ赤にして俯き、肩で激しく息をしている。今にも、その大きな瞳から涙がこぼれ落ちそうな気配すらあった。
(ああ、終わった……。完全に、不審者を見る目で見られている……)
田中は、絶望的な気持ちで、彼女から発せられるであろう次の言葉を待った。罵詈雑言か、完全無視か。
だが、次の瞬間、彼女の震える唇から飛び出したのは、全くもって予想外の言葉だった。
「…………………………………こ、今度の日曜日」
「へっ?」
「……あの……その…………こ、今度の……日曜日……もし、ご予定が……なければ……ですけど……」
聞き間違いだろうか。田中は、完全に思考が停止し、ぽかんとした表情で彼女を見つめた。
みさきは、顔をトマトのように真っ赤にしたまま、俯いて、指先をもじもじと弄んでいる。その声は、か細く、ほとんど吐息のようだ。
「……え? あ、いや、日曜日は……今のところ、特に何も……」
田中が、しどろもどろに答えると、彼女はさらに小さな声で、しかし必死に言葉を繋いだ。
「……あ、あの……えっと、園の……こ、子どもたちが……! そう、園の子たちが、その、田中さんの……お、お話を……また聞きたいって……一部の子が、うるさくて……! き、昨日の、あの…金魚のダジャレが……よ、よっぽど……その……シュール?だったみたいで……!」
明らかに、苦し紛れの、しどろもどろな言い訳だった。しかし、その必死な取り繕い方が、なぜか田中の目には、たまらなく不器用で、そして少し、可愛らしく映ってしまった。
彼女は、真っ赤な顔を伏せたまま、さらに言葉を絞り出す。
「だ、だから……その……もし、もし、お時間があれば……の話なんですけど……近くの公園とかで……ほんの少しだけ……子どもたちの……その……遊び相手?みたいなことを……お願いできませんでしょうか……? も、もちろん、ご迷惑なら、全然、気にしないでくださいっ!」
それは、どう考えても、デートの誘い……とは言い切れないかもしれない。あくまで、「子供たちがダジャレ(のような迷言)をまた聞きたがっている(ということにしておく)から」という、苦しい言い訳を盾にした、不器用極まりない、しかし明確な「誘い」に他ならなかった。
ツンとした態度の裏側に隠された、あまりにも分かりやすい「デレ」。
田中一郎、五十二歳。平熱を保ち続けてきた彼の脳内回路は、この瞬間、完全に焼き切れた。
目の前で、顔を真っ赤にして俯く、アラサーの美人保育士。
彼女が、自分の、あの超絶ダサい、意味不明な言葉の羅列を、再び欲している(と子供たちのせいにしている)……?
そして、自分を、来週の日曜日に、公園へと、誘っている……?
理解が、まるで追いつかない。
ただ、胸の奥底から、これまで経験したことのない、温かいような、むず痒いような、それでいて心地よいような、不思議な感情が、急速に込み上げてくるのをはっきりと感じていた。
「………………………………はい」
田中は、自分がどのような声色で、どのような表情で返事をしたのか、まるで覚えていない。
ただ、目の前の不機嫌な天使が、ほんのわずかに、安堵したように息をついたのを、確かに感じ取った気がした。
(……これから、一体、どうなってしまうんだ……?)
五十二歳、妻に先立たれたしがない経理部員、田中一郎。彼の止まっていた時間と、凍てついていた人生の歯車が、今、ゆっくりと、しかし確実に、大きく軋みながら動き出そうとしていた。
ダジャレが超絶ダサいとなぜかモテてしまう、この不可思議な世界で。アラサーのツンデレ保育士、鈴木みさきに翻弄される日々の中で、彼の内なる何かが、少しずつ「昇華」を始めていく。
その長く、そして奇妙な物語の、ほんの序章が、今、静かに幕を開けたのだった。