健太を無事に妹夫婦のもとへ送り届け、ようやく解放された田中は、夜道を自宅アパートへと歩いていた。時刻はすでに八時を過ぎ、週末の繁華街は喧騒とネオンに彩られている。
ふと、大型ビルの壁面に設置された巨大な電光掲示板が視界に入る。「緊急速報! ダジャレ界の超新星、只野 凡(ただの ぼん)、衝撃のデビュー作『カメレオンがカメラを構えてレモン色!…理由は不明!』がダサさ指数99.1をマーク! 社会現象化の兆し!」というテロップが、目まぐるしく流れている。周囲では、多くの人々がスマホを片手にそのニュース映像に見入っている。
「マジかよ、99.1だって!? 神がかってる!」
「カメレオンがカメラでレモン色って…意味わからなすぎて最高!」
熱狂的な声が、あちこちから聞こえてくる。
(…カメレオンが、カメラで、レモン色…?)
田中は、眉間に深い皺を刻んだ。やはり、何度目の当たりにしても、この世界の価値観は理解の範疇を超えている。何が面白いのか、どこに魅力が潜んでいるのか、皆目見当もつかない。
商店街を通り抜ける途中、「ダサ力診断センター」の前には、依然として長い行列ができていた。カップルや友人グループらしき若者たちが、自らの“才能”を数値化しようと、わくわくした面持ちで順番を待っている。壁には「目指せ! ダサ力100! モテ期到来はすぐそこだ!」という、煽情的なキャッチコピーが大書されている。
田中は、その異様な光景を横目に、足早に通り過ぎた。自分には、永遠に縁のない場所だと確信している。
自宅アパートに辿り着き、疲労困憊の体をソファに投げ出す。気晴らしにテレビをつけると、人気のバラエティ番組が佳境を迎えていた。司会者が、ゲストの若手人気アイドルに向かってマイクを向けている。
「さあ、今週のキラリちゃんの、とっておきのダサダサ・ワード、聞かせてもらおうか!」
アイドルは、愛らしいぶりっ子ポーズを決め、満面の笑みで応える。
「はいっ! いっきまーす! あのね、ゾウさんがね、おつかいに行ったんだけどね、冷蔵庫にゾウを入れて忘れちゃったんだってー! …って、あれ? 何の話だっけ? キャハッ!」
スタジオは、割れんばかりの拍手と歓声、そして爆笑に包まれる。「可愛いー!」「ダサすぎ萌えー!」「もはや哲学ー!」といったテロップが画面を埋め尽くす。ファンらしき観客たちは、感極まって悶絶している。
(…………冷蔵庫に、ゾウを…………?)
田中は、表情筋を一切動かさぬまま、リモコンでテレビの電源を落とした。もう、何も考えたくなかった。この世界は、彼にとってあまりにも奇妙で、そして騒々しすぎた。
静寂が支配する部屋で、田中はふと、健太が保育園から持ち帰った荷物を妹夫婦に渡すのを忘れていたことに気づく。何気なく荷物を整理し始めると、着替えやタオル類に紛れて、一枚の画用紙が出てきた。それは、健太が保育園にいる間に描いたらしい、自由画だった。
画用紙には、クレヨンで力強く描かれた、お世辞にも上手とは言えない田中の似顔絵があった。そして、その似顔絵の吹き出しのように、たどたどしい文字でこう書かれていた。
「きんぎょ おじちゃん」
どうやら、田中が昼間に口走った「金魚」の話が、健太には妙に印象に残ったらしい。そして、その「きんぎょ おじちゃん」という文字の隣には、明らかに大人の、しかし少し癖のある筆跡で、こう追記されていた。
『迷言大賞:シュールで賞』
(……シュールで賞……? 迷言……? やはり、まともな評価ではないな……)
田中は、力なく苦笑いを浮かべた。あの先生、わざわざこんな形でダメ出しの追記をしなくてもいいだろうに。どこまでも辛辣な人だ。
だが、その時、彼はある細部に気づいた。
『シュールで賞』と記された文字の、そのすぐ右下。
極めて小さく、控えめに、赤いクレヨンで描かれたハートマークが、ちょこんと添えられているではないか。
「………………え?」
田中は、思わず画用紙を顔にぐっと近づけ、目を凝らした。
ハートマーク。間違いなく、ハートマークだ。いびつで、ほんの数ミリの大きさだが、それは確かに愛や好意を示す記号のはずだ。
(……これは……一体? 健太が描いた? いや、ハートマークの意味をまだ知らないだろうし、こんな場所に描くか…? となると……まさか……あの先生が……?)
いや、まさか。そんなはずはない。
田中は、またしても反射的に頭を振った。きっと、何かの見間違いだ。他の園児が落書きしたのかもしれない。あるいは、単なるクレヨンの汚れが、偶然ハートの形に見えているだけかもしれない。そうだ、そうに違いない。
あの、氷のように不機嫌で、ツンツンと刺々しい先生が、こんな少女趣味のような、可愛らしい印をつけるはずがない。ましてや、自分のあのどうしようもないダジャレに対して、こんな……。
しかし、そう理屈で否定しようとすればするほど、胸の内のざわめきは治まるどころか、むしろ増していく。
もしかしたら、あの先生は、外面の厳しい態度の裏側で、実は……。
そんな淡い期待が、現実味を帯びて頭をもたげてくる。
田中は、その小さな赤いハートマークが描かれた画用紙を、しばらくの間、ただ茫然と見つめ続けていた。それは、この奇妙な世界で彼が初めて手にした、理解不能でありながらも、どこか温もりを感じさせる、不可解なメッセージのように思えた。
五十二年間、凍てついていたかに見えた男の心に、間違いなく何かが起こり始めていた。それはまだ、ささやかな変化に過ぎなかったが、確実に彼の灰色だった日常を、そして彼の心を、静かに、しかし力強く揺さぶり始めていたのだ。