夕刻、五時きっかり。田中は再び「にじいろスマイル保育園」の門を叩いた。迎えの時間だ。昼間の出来事が脳裏をよぎり、少しばかり緊張しながらインターホンを鳴らすと、昼と同じ鈴木みさきの声が応じた。
エントランスで待つことしばし、健太がみさきに手を引かれて現れた。健太は満面の笑みで、保育園での時間を満喫した様子だ。
「おじちゃーん! ブロックでね、すっごい大きなお城作ったんだよ!」
「ほう、そうかそうか、それはすごいな」
田中は健太の頭を優しく撫でながら、ちらりとみさきへ視線を送る。表情は相変わらず硬いままだが、昼間のような刺々しい空気はいくらか和らいでいるように感じられなくもない。
「健太君、今日は一日よく頑張りましたね。こちら、連絡ノートになります」
みさきはノートを手渡すと、事務的ながらも丁寧な口調で今日の健太の様子を報告し始めた。食事量、午睡時間、排泄状況など、その報告は細部にわたる。仕事ぶりは非常に真面目なタイプのようだ。
「…それから、午後の活動は主にブロック遊びに集中していました。没頭ぶりは相当なもので、かなりの大作を築き上げていましたよ。お片付けが少し大変だったくらいです…」
みさきの説明に、田中は内心感心していた。子供の相手は骨が折れるだろうに、実に細やかに観察している。
そして、またしても彼の口は、思考よりも先に動いていた。脳が勝手に言葉の響きだけを拾い上げ、意味のない連想を紡ぎ始めてしまったのだ。
「へぇー、ブロックですか。そんなに夢中になるなんて。よっぽど…なんというか、ロクなものですね、ブロックってのは…あ、いや、すみません、今のは変でしたね…忘れてください…」
口にした直後、田中は再び「しまった」と顔をしかめた。本日二度目の失態だ。なぜ、こんなにも脈絡がなく、つまらない上に自己否定まで含んだ言葉が、この絶妙なタイミングで飛び出してしまうのか。自分の口が恨めしい。
今度こそ、心の底から軽蔑されるだろう。そう覚悟し、おそるおそるみさきの反応を窺った。
果たして、みさきの動きがピタリと止まった。彼女はゆっくりと顔を上げ、田中を凝視する。その大きな瞳が、信じがたいものを見るかのように、わずかに見開かれている。
そして、次の瞬間。彼女の顔面が、まるで沸騰したやかんのように、ぶわっと音を立てんばかりに赤く染まった。昼間より、さらに濃い赤色だ。熟れすぎたトマト、いや、それ以上かもしれない。
わなわなと唇を震わせ、何かを言おうとしているが、うまく言葉にならないようだ。
「……っ! …………っ!!」
沈黙。針が落ちる音すら聞こえそうな、気まずい沈黙。健太だけが、不思議そうに田中とみさきの顔を交互に見上げている。
(ああ、まただ…。完全に呆れられている。人間失格の烙印を押されたようなものだ…)
田中は内心で頭を抱え、項垂れた。
数秒が永遠のように感じられた後、ようやくみさきが声を発した。
「…っ! そ、そういう感想は求めていません! 子供はちゃんと観察してますからっ!」
それは、怒鳴り声に近い甲高い声だった。だが、純粋な怒りというよりは、極度の羞恥と激しい動揺が綯い交ぜになったような、複雑な響きを持っている。彼女は顔を真っ赤にしたまま俯き、肩で荒い息をついている。耳朶から首筋まで、見事に赤く染め上がっていた。
「は、はあ…申し訳ありません…」
田中は、ただただ謝ることしかできない。完全に、彼女の逆鱗に触れてしまったようだ。これ以上の長居は危険だ。
「け、健太、帰るぞ」
「えー、まだ遊びたいー」
「だめだ、もうお開きの時間だ。ほら、鈴木先生に、さようならのご挨拶は?」
「…せんせい、ばいばーい!」
健太は、まだ名残惜しそうではあったが、素直に手を振った。
みさきは、俯いたまま、か細い声で「……さようなら」とだけ呟いた。
田中は、逃げるように健太の手を引き、そそくさと保育園を後にした。
(…完全に嫌われたな…)
帰り道、田中は深々とため息をついた。類稀なる美貌と仕事への真摯さを持ち合わせているが、とんでもなく気難しい保育士だ。もう二度と関わることはないだろう。そう確信していた。
保育園の門を出て、数歩進んだ、その時だった。背後から、やけに響く大きな声が飛んできた。明らかに、わざと聞こえるように発せられた声だ。
「田中さんのそのダジャレ! 園児たちには全く響きませんでしたから! むしろ、全員ポカーンとしてましたよっ!!」
振り返ると、みさきがエントランスのドア付近に仁王立ちし、こちらを鋭く睨みつけていた。顔はまだ火照ったままだ。
(……そこまで言わなくてもいいだろうに……)
田中は、さすがに少しカチンときた。確かに、自分でも酷い出来だとは思うが、ここまで貶される謂れはない。
だがその時、偶然通りかかった別の保育士が、小走りに田中に近づき、悪戯っぽい笑みを浮かべて小声で囁いた。
「……あの、田中さん、みさき先生の言葉、気にしないでくださいね」
「え?」
「ああは言ってますけど……」
その保育士は、声を潜めて続ける。
「さっき職員室で、田中さんのダジャレ、話題になったんです。そしたら先生、『……まあ、発想の…角度?は……独特……かもしれないわね……』って、顔真っ赤にしながら、ボソッと言ってましたから」
「…………は?」
田中は、自分の耳を疑った。
独特? あの、最高にダサくて意味不明な言葉が? しかも、顔を真っ赤にしながら……?
頭の中が、さらなる混乱に見舞われる。あの先生の言動は、完全に矛盾している。冷たく突き放したかと思えば、陰では微妙な評価を与えている…? それも、赤面しながら…?
(なんなんだ、一体…? 俺のダジャレは、そんなにも人を不快にさせる代物なのか? それとも……まさか……いや、ありえない…)
彼の脳裏に、この世界の奇妙な法則が、霞がかかったようにぼんやりと浮かび上がってきた。「ダジャレは、ダサければダサいほど、人を惹きつける」
(まさか、あの先生……俺の、この救いようのないダサさに……惹かれている……? いやいやいや、そんな馬鹿な話があるか!)
田中は、突拍子もない妄想を打ち消すように、激しく頭を振った。彼女は若く、美しく、仕事もできる。こんな、妻に先立たれて久しい中年の、しかも致命的にセンスの欠如したダジャレに心を動かされるわけがない。きっと、あの同僚保育士の勘違いか、あるいは単なる揶揄だろう。
そうだ、そうに決まっている。
そう自身に強く言い聞かせながらも、田中は、先ほどの鈴木みさきの燃えるように赤い顔と、潤んで見えた瞳の残像を、なぜか頭から振り払うことができなかった。
彼の胸の内に、これまで感じたことのない、ざわざわとした微熱のような感情が芽生え始めていることに、本人はまだ気づいていない。それは、五十二年間、ほぼ平熱で生きてきた彼の心に灯った、ささやかな、しかし確かな変化の兆しだった。