週末。田中一郎に、柄にもない予定が舞い込んだ。妹夫婦が急用で一泊二日の外出となり、来年小学校に上がる甥の健太(けんた・五歳)を一日預かる羽目になったのだ。子守りの経験など皆無の田中は途方に暮れたが、妹の必死の懇願に押し切られた形だった。
「おじちゃん、あーそーぼー!」
エネルギーを持て余した健太は、朝から田中の狭いアパートを縦横無尽に駆け回る。積み木を派手にひっくり返し、絵本を床一面に広げ、テレビゲームに熱中する。田中はその後を追い、散らかったものを片付け、健太の脈絡のない質問に時折応えながら、昼前にはすでに疲労困憊だった。
「ねぇ、おじちゃん、お腹すいたー!」
昼過ぎ、健太が不満げな声を上げた。何か食べさせねばならないが、冷蔵庫にはろくな食材がない。かといって、この元気すぎるエネルギーの塊を連れて外食に出る気力も湧かなかった。
(困ったな…どうしたものか…)
思案に暮れていると、妹から託されたメモに「どうしても困ったら、近所の『にじいろスマイル保育園』で一時預かりを利用して。手続き済みだから」と記されていたことを思い出す。一時預かり。それは、今の田中にとってまさに僥倖だった。
「健太、少しだけ保育園に行ってみないか? きっと楽しいぞ」
「ほいくえん? やったー! オモチャいっぱいある?」
「ああ、山ほどあるだろうさ」
ぐずる健太をなんとか宥めすかし、田中は近隣の保育園へと向かった。
「にじいろスマイル保育園」は、その名の通り、鮮やかな色彩で彩られた、比較的新しい園舎だった。入口には愛らしい動物のイラストが描かれ、園庭からは子供たちの快活な声が漏れ聞こえてくる。やや場違いな感覚と緊張を覚えつつ、田中はインターホンを押した。
「…はい、にじいろスマイル保育園です」
スピーカー越しに聞こえてきたのは、若い女性の声。どこか事務的で、ぶっきらぼうな響きが感じられる。
「あ、あの、田中と申します。甥の健太の一時預かりでお願いしておりますが…」
「…ああ、田中さんですね。どうぞ、お入りください」
自動ドアが静かに開き、田中は健太の手を引いて園内へと足を踏み入れた。
清潔感のある明るいエントランス。壁には園児たちの描いた絵が賑やかに飾られている。奥のプレイルームからは、楽しげな声が一段と大きく響いてくる。間もなく、事務室と思しきドアが開き、一人の女性が姿を現した。
思わず息を呑むほど、整った顔立ちだった。大きな瞳、すっと通った鼻筋、少しだけ薄い形の良い唇。艶やかな黒髪は、うなじのあたりで一つに束ねられている。年齢は二十代後半といったところか。白いブラウスにネイビーのエプロンという装いはシンプルだが、それがかえって彼女の端正な美しさを際立たせていた。
ただし、その表情は硬く、どこか不機嫌さを漂わせている。眉間には微かに皺が寄り、何かを警戒しているかのようだ。
「…田中さんですね。担任の鈴木みさきです」
彼女は、抑揚のない事務的な口調で名乗り、田中を一瞥した。その視線は、値踏みするようでいて、どこか冷ややかだ。
(あれ…? なんだか、歓迎されていないような…?)
田中は彼女の第一印象に戸惑いを隠せない。保育士といえば、もっとにこやかで、子供好きの柔和な笑顔を振りまくものだと思っていたからだ。
「あ、ど、どうも。田中一郎と申します。こちら、甥の健太です。本日はよろしくお願いします」
緊張で声が裏返る。田中は慌てて頭を下げた。健太も、見慣れない場所と少し近寄りがたい雰囲気の先生に戸惑っているのか、田中のズボンの裾を固く握りしめている。
「健太君ですね。こんにちは」
みさきは健太に視線を落とすと、ほんのわずかに表情を緩めた。だが、それも一瞬。すぐに元の硬い表情に戻り、手にした書類に目を落とす。
「では、いくつか確認事項がございます。こちらの書類にご記入をお願いします。それから、アレルギーや特記事項などはございますか?」
早口で、感情の乗らない声。田中は彼女の放つ空気に気圧されながら、必死で質問に答えた。
事務手続きが進むうち、健太がそわそわと周囲を見回し始めた。プレイルームから漏れ聞こえる賑やかな声に、好奇心を刺激されているようだ。
「おじちゃん、あっち行きたい!」
「こら、健太。今、大事なお話をしてるんだから…」
田中が健太を宥めようとした、まさにその時だった。緊張と、子供を落ち着かせたいという焦りが混ざり合い、彼の口から、例の“あれ”が、全くの無意識のうちに滑り落ちた。
「あ、そうだ健太、先生がお話ししてるんだから静かにな。…しかし、この書類、多いですね…なんだか見てると、昔飼ってた金魚のこと思い出しますね…別に、金額が多いとか、そういう訳じゃ…いや、すみません、忘れてください…はは…」
空気が、凍てついた。
田中自身、口にした瞬間に「やってしまった」と後悔した。また、意味不明でつまらないことを口走ってしまった。気まずさがこみ上げ、乾いた笑いだけが虚しく響く。
目の前の鈴木みさきは、完全に動きを止めていた。表情こそ変わらない。だが、注視すると、その白い頬が、見る見るうちに朱に染まっていくのが分かった。熟れた林檎のように、鮮やかな赤色に。
「…………………………」
長い、息苦しい沈黙。
プレイルームの子供たちの無邪気な声だけが、やけに大きく鼓膜を打つ。
(……え? なぜ赤くなっているんだ? 怒っているのか? いや、でも怒っている顔つきとは少し違うような…?)
田中は混乱した。彼女の反応は、これまでの人生で経験したことのない、全く未知のものだった。
やがて、みさきはハッと我に返ったように、一度深く息を吸い込んだ。そして、努めて平静を装いながらも、隠しきれない動揺を声に乗せて言った。
「…っ! わ、わけのわからないこと言わないでください!」
その声は、先ほどよりワントーン高く、明らかに震えている。彼女は田中の目を真っ直ぐに見られず、視線を斜め下に彷徨わせている。耳朶まで真っ赤に染まっているのが見て取れた。
「い、いえ、大変失礼しました、つい…」
田中は慌てて謝罪した。やはり、不快にさせてしまったのだろう。
「…結構です。では、お子さんをお預かりします。お迎えは、夕方五時でよろしいですね?」
みさきは早口にそう告げると、健太に手を差し出した。
「健太君、行きましょうか。おもちゃ、たくさんあるわよ」
意外にも、健太は素直にみさきの手を取った。彼女の声色が、心なしか先ほどより少し柔らかくなったように聞こえたのは、田中の気のせいだろうか。
「あ、はい。それでは、よろしくお願いします」
田中は、いまだ混乱を引きずりながらも、深く頭を下げた。
みさきは、もはや田中には一瞥もくれず、健太の手を引いてプレイルームへと歩き去っていく。その後ろ姿を見送りながら、田中は釈然としない思いを抱えていた。
(なんなんだ、あの先生は…。とんでもない美人だが、とんでもなく感じが悪い…いや、しかし、あの赤面は、一体…?)
思考がまとまらないまま、保育園の門を後にする。解放感と、不可解な出来事への戸惑いが混ざり合った、奇妙な感覚だった。
ふと、みさきが去り際に、ごく小さな、聞き取れるかどうかの声量で、何かを呟いた気がした。
「……ふん……まあ……突拍子も…ないけど……悪くは…ない……かも……」
(…聞き間違い…だよな…?)
田中は軽く首を振り、一人になった安堵を噛み締めつつ、自宅への道を辿り始めた。この時の彼は、まだ預かり知らない。この出会いが、彼の止まっていたかに見えた人生に、予測不能な波紋を投げかけることになるということを。そして、あの氷のように不機嫌な保育士が、実は彼の“才能”に、誰よりも激しく心を揺さぶられていたという事実を。