田中一郎は、中堅食品メーカー「株式会社スマイルフーズ」の経理部に籍を置く、凡庸という言葉を体現したような男だ。二十代で入社して以来三十年、大過なく、さりとて目立つ功績もない。ただ黙々と数字を追い、伝票を捌き、請求書を作成し、予算とにらめっこする。それが彼の世界のすべてだった。
体型は中肉中背。体重もここ数年ピタリと安定している。白髪が混じり始めた髪は、生真面目に七三分け。服装は決まってくたびれたスーツに地味な色合いのネクタイ。特徴を挙げるとすれば、その体温の低さだろうか。真冬は言うに及ばず、酷暑の日ですら彼の手は時折ひやりと冷たい。感情の起伏も乏しく、声を荒らげる姿は誰も見たことがない。同僚からは「平熱の田中さん」と、尊敬とも揶揄ともつかぬあだ名で呼ばれている。
今日の経理部も、いつもの空気に満ちている。キーボードを打つ乾いた音、電卓の電子音、そして時折、場違いな熱気を孕んだ声が響く。
「課長、この資料、至急とのことですが、具体的な締め切りはいつ頃でしょう? なんかこう、急かされると僕、なぜか唐揚げのこと思い出しちゃうんですよね…特に意味はないですけど…から揚げだけに…なんちゃって」
若手の佐藤君が、渾身の(すなわち、この世界基準で最高級にダサい)ダジャレを放った。周囲の女性社員から、抑えた笑い声が漏れる。それは決して面白さに対するものではない。その意味不明さ、脈絡のなさに対する、一種の生理的な反応に近い。頬を染め、うっとりとした表情を浮かべる者までいる。
「佐藤君、やるわね! その意味不明さ、たまらない!」
「うーん、斬新だ…将来有望だね」
課長も目を細めて頷く。これこそが、この世界の日常風景なのだ。
田中は、そんな一連のやり取りを、まるで対岸の火事のように眺めていた。佐藤君の言葉のどこに、人々をこれほど惹きつける要素があるのか、彼には皆目見当がつかない。ただただ、寒い。不可解だ。それだけだった。
(…締め切りと唐揚げ…? 一体、どういう思考回路なんだ…?)
内心で呟きつつ、彼は再び目の前の数字の海へと意識を沈めた。
田中一郎は、ダジャレが絶望的に下手だった。いや、より正確に言えば、「気の利いた」ダジャレを意図して放とうとすると、必ず惨憺たる結果を招く。だが皮肉なことに、彼が全く意図せず、無意識に口走る言葉が、時折、この世界の基準における「神がかり的なダサさ」を顕現させることがあった。
数年前の出来事が思い出される。部署の忘年会で、酔った上司から「田中君も何か景気づけに一発頼むよ!」と無茶振りされたのだ。極度に困惑した田中は、しどろもどろになりながら、たまたま目の前にあった枝豆の皿を見て、こう口走った。
「え、ええと…この枝豆、美味しいですね。緑が鮮やかで…そういえば、まめ…と言えば、昔、祖父が盆栽をやってまして…いや、あの、何でもないです。関係ありませんね、はい」
発した瞬間、会場は水を打ったように静まり返った。上司は呆気に取られ、同僚たちは息を飲む。沈黙を破ったのは、女性社員の一人だった。
「……っ、た、田中さんっ…! そ、それ…! あまりにも……ダサすぎます…っ!」
顔を真っ赤にして、絞り出すような声で叫んだ。それを合図としたかのように、他の女性陣も「ヤバい…鳥肌が…」「寒すぎて震える…」「もはや芸術の域…」と囁き合い、フロアは異様な熱気に包まれた。
田中自身は、ただただ混乱の極みにいた。場を盛り上げようとして、完璧に失敗した。そう認識していたからだ。なのに、なぜか女性たちの反応は異様に熱っぽく、その夜はやたらと酌をされ、不自然なほどボディタッチが増え、執拗に二次会へと誘われた。結局、田中は適当な口実で早々に退散したが、あの時の得体の知れない感覚は、今も鮮明に記憶に残っている。
以来、田中は人前で「面白いこと」を言おうとする行為そのものを固く封印した。元来口下手なのだ。余計な発言でさらに場を凍りつかせたくない。そして何より、あの時の女性たちの爛々とした視線が、正直なところ少し恐ろしかった。まるで、自分が理解不能な獣の檻に不用意に足を踏み入れてしまったような、落ち着かない感覚があった。
彼は知らない。自らの無意識が生み出す「脈絡のない思考の断片」こそが、この世界で至上の価値を持つ“才能”だということを。そして、その才能ゆえに、これまで知らず識らずのうちに多くの女性を「翻弄」してきた可能性があることを。十数年前に妻を病で亡くして以来、心を閉ざしがちになっていた彼が、今なお一人でいるのは、単にその喪失感から立ち直れないでいるからだけではないのかもしれない。彼の無自覚な“ダサ力”が、意図せず女性たちを惹きつけ、彼自身をさらに混乱させ、人との距離を置かせる一因となっている可能性すら否定できないのだ。
昼休み。田中はいつも通り、会社の近くにある公園のベンチを目指す。先立った妻が愛用していた、年季の入った弁当箱を開ける。卵焼き、ほうれん草のおひたし、鮭の塩焼き。彩りには乏しいが、妻がよく作ってくれた定番の組み合わせだった。これを見るたび、胸の奥が微かに痛む。
公園には、束の間の休息を楽しむ人々が行き交う。談笑するOLグループ、読書に没頭する老人。ひときわ目を引くのは、ベンチで睦み合う若い男女だ。
「ねぇ、ダーリン。私のこと、どれくらい好き?」
「んー、そうだな…。君への愛はね、まるで深海のアンコウみたいだよ! あんまりにもこう…深すぎて、自分でもよくわからないくらい!」
「……もうっ、ダーリンったら! わけわかんない!……でも、好き!」
女性はそう言いながらも、嬉しそうに男性の肩に寄り添っている。
(…アンコウ…? あんまりにも、こう…? ……やはり、理解不能だ…)
田中は、口に含んだ鮭の塩味すら曖昧になるほどの違和感を覚え、静かに視線を逸らした。彼にとって恋愛も、この世界の「モテ」の基準も、今はただ遠い異星の文化のように感じられた。妻が生きていた頃は、ダジャレなど意識したこともなかったが…。
(俺には、もう縁のない世界だ…)
心中で呟き、空になった弁当箱の蓋をパチンと閉める。午後の業務が待っている。数字は決して嘘をつかない。意味不明な言葉遊びのように、彼を混乱させることもない。それだけが、今の田中一郎にとって唯一の確かな現実だった。