培養液がゆっくりと下がり始め、透明なカプセルに閉じ込められていたような静かな眠りの時間が、少しずつ終わりに近づいていた。
周囲の機械音が遠ざかると共に、徐々に意識が浮上し、やがてカプセルの蓋が低く響く音を立てて開いた。
その瞬間、長い眠りから目覚めたように、間宮里保の瞼がわずかに動き、ゆっくりと持ち上がった。
里保の視界に飛び込んできたのは、何度も見慣れた冷たく鋭い白色の蛍光灯の光だった。
目に少し刺さるようなその無機質な光の中で、ぼんやりとしていた視界が徐々に鮮明になり、周囲の空間を認識していく。
白い壁と精密に配置された機器の並ぶ、冷たくも清潔な部屋。
けれど、その中に一つだけ彼女の心に温かさを感じさせる存在があった。
白衣を纏った、間宮嶺二の姿だった。
「おはよう、これでメンテナンスは終了だ。」
と、嶺二はタブレットを操作しながら穏やかに声をかけた。
里保はカプセルを出て、備え付けられたシャワーで培養液を洗い流した。
滴る液体を拭き取り、いつもの服装に着替えると、再び嶺二の元へ向かった。
「どうでしたか?」
と尋ねる里保に、嶺二はタブレットを閉じ、机に置きながら答えた。
「人工皮膚の維持設定に少し異常があったが、それだけだ。」
嶺二の言葉を聞き、里保はふと部屋を見回し、懐かしそうに言葉を漏らした。
「…この部屋で、生まれたんですよね、私は。」
嶺二はおどけた表情を浮かべ、軽く笑って見せた。
「おや、思い出話しかな?」
だが、里保は真剣な表情のまま嶺二を見つめていた。
そして、少しためらいがちな口調で話し始めた。
「嶺二、聞きたいことがあります。」
嶺二はその様子を見て、椅子に座り直すと、彼女に向き合った。
包み込むような優しさを漂わせた、いつもの親しみある雰囲気をたたえて。
「言ってみなさい。」
里保は一度目を伏せ、ほんの少し迷うような間を置いた後、静かに問いかけた。
「…人間はアンドロイドを作れるほど聡明だというのに、なぜ愚かなのですか?」
その問いに、嶺二はふぅ、と小さく息をつき、しばらくの沈黙の後に穏やかに答えた。
「里保、そういう疑問は自分で考え、感じ、探していくことが大事なんだ。私には答えられないよ。」
その言葉は、まるで親が子供に教え諭すような口調だった。
里保もそれを理解していた。
彼女が生まれて間もない頃、この手の質問を投げかける度に、嶺二はいつも同じように答えていたからだ。
それでも彼女はあきらめずに、自ら調べ、感じることで成長してきた。
だが今日、彼女はどうしても知りたかった。生みの親である嶺二の考えを。
それでも嶺二は、あえて答えを明かそうとはしなかった。
「私の意見を聞いたら、それが君の基準になってしまうだろう」と。
だからこそ、彼は彼女に自身の答えを見つけさせようとするのだ。
「…わかりました。」
里保は、視線を少し落としながら静かに答えた。
少しの沈黙が部屋に漂った後、嶺二がわずかにため息をつき、重い口を開いた。
「…個人的な意見だが」
彼の声に含まれる低い響きが、里保の注意を引いた。
彼女は顔を上げ、真っ直ぐに嶺二を見つめる。
「人間は愚かだ、だが馬鹿じゃない。」
そう言うと、嶺二は手元のタブレットを操作し、ペイントソフトを起動した。
画面にペンを走らせながら、彼は彼女に語りかけるように説明を始めた。
「人間が"愚か"に見える理由の多くは、本能や感情、そして社会的なつながりが関わっているんだ。」
彼は画面に図を描き、線を引きながらゆっくりと話を続けた。
「人間は合理的な判断ができる生き物だ。しかし、その判断は感情や経験、集団の影響を受けることで複雑なものになる。一見すると、ただの失敗や過ちに見える行動も多いかもしれない。」
ペンは次々と円や矢印を描き、画面に複雑な相関図を形作っていく。
嶺二はふと息をつき、遠くを見るような表情で続けた。
「だが、過ちを通じて学び、成長し、適応してきたのもまた人間だ。」
彼は画面の図を指し示しながら続ける。
「科学や技術の進歩、哲学や芸術、社会制度といったものすべてが、過去の経験を土台にして進化してきたんだ。」
その姿は、里保がこれまでに見た嶺二とは少し違っていた。
饒舌に語る彼は、まるで熱心な講義を行う研究者のようだった。
「失敗を重ねながらも、学ぼうとする意志。それが人間らしさであり、進化と繁栄をもたらしてきた原動力だ。愚かさは学びの一部であり、それが人間をただの"失敗する生き物"以上にしている。」
彼のペンは画面の【愚か≠馬鹿】と書かれた部分を強調するように、何度も丸で囲んだ。
「つまりだ、人間は感情に左右されて短絡的な行動をとることもある。だが、そこから学び、改善し、進化していく知恵や柔軟性も持っている。それが人間を馬鹿でなくしている理由だと私は思う。」
彼は再び「愚か≠馬鹿」と書かれた文字に視線を落とし、もう一度力強く囲みながら付け加えた。
「愚かさというのは、人間の不完全さを示している。しかし同時に、失敗を土台に成長し、より良い未来を目指す力も表している。だから、人間は馬鹿じゃないんだ。あくまで私個人の意見だが。」
嶺二はそう言うと、タブレットの電源を切り、机に置いた。
「満足いただけたかな?」
嶺二は里保に向き直り、彼の目はいつもと違い、まるで父親ではなく一人の研究者が語りかけるように鋭く見つめていた。
里保は、嶺二のその姿に一瞬言葉を失った。
嶺二がここまで饒舌に、そして真剣に語るのを見たことがなかったからだ。
その視線の先にいる彼女自身も、少しずつ違う目で彼を見つめ返していた。
嶺二は静かに微笑んで、里保の方を見つめた。
その瞳には、まるで里保の成長を誇らしく思うかのような優しさが宿っていた。
「今の里保ならば、私の言葉が絶対ではないというのを理解しているね?」
と彼は語りかけるように言った。
「だからこそ、私は答えた。あとは好きに解釈するといい。」
そう言い終えると、彼はゆっくりと立ち上がり、軽く里保を促すように手を振る。
「さぁ、オフィスへ戻ろうか。」
「了解しました。」
里保はしっかりとした声で返事をし、嶺二の後ろについて歩き始めた。
二人がオフィスへ戻るために無機質な白い廊下を進んでいく間、里保の思考は絶え間なく巡っていた。
嶺二から聞いた言葉の一つひとつが脳裏に残り、それぞれが新しい意味を持って彼女の意識の中で広がっていく。
「(やはり人間という存在は複雑で理解が難しい。)」
廊下の静けさの中で、里保は心の中でつぶやいた。
嶺二の言葉は確かに一つの答えを与えてくれたが、それが全てではないこともまた分かっていた。
「(1から10へ成長し、けれどその10が時に-100に転じることもある。そんな不安定で不可解な存在が人間だなんて…)」
それでも、里保の内側には人間に対する興味と、嶺二への敬意が揺るぎないものとして根付いていた。
彼の語る「愚かさ」と「成長」の物語は、機械である自分から見ても面白く、時に人間の不完全さが輝かしくも思える。
「(大勢の人間が愚かであっても…貴方は例外なのでしょう。)」
里保は嶺二をそう思わずにはいられなかった。
それは彼に対する無意識のうちの特別視、そして尊敬が形となって現れたものであった。
たとえ人間という種の全体像が理解し難くとも、彼のように自分に真摯に向き合い、答えを見出そうとする姿には心からの敬意を抱いていた。
里保は嶺二の背を追いながら、心の中でそっと思った。
「(人間という存在は、簡単に割り切れない複雑さがある。それでも、その一つひとつの愚かさや過ちが、いつか進化の形を作るのかもしれませんね。)」
里保は、僅かに微笑みを浮かべた。
その表情には、初めて得た理解の片鱗が宿っていた。
そして、無言のまま、二人の足音だけが廊下に心地よく響いていくのだった。