夜の帳が降り、静寂が社内を包み込む頃、廊下には二つの影がゆっくりと歩いていた。
空気はひんやりとしており、オフィスビルの明かりが薄暗く光を放っている。
里保が隣を歩く嶺二に問いかけた。
「本日も社内に宿泊ですか?」
彼女の声には、何度も繰り返された質問に対する淡々とした響きが含まれていた。
それに対し、嶺二は気にする素振りもなく、まるで当然のことのように答えた。
「うん、今日もだ」
その簡素な返事に、里保はふと疑問を抱いた。
彼がこれほどまでに帰宅を避ける理由を、彼女は未だに掴めずにいた。
だからこそ、彼女は少し考えてから再び口を開く。
「...今日で何日目なんです?私が製造されてから一度も帰宅なさってませんよね?」
その問いに、嶺二は大きなあくびをしながら応じた。
「細かい日数は覚えてないけど、少なくとも10年はここに居るよ」
里保は驚きの表情を浮かべた。10年も家に帰らず、社内に留まるとは尋常ではない。
いつものオフィスに辿り着くと、嶺二は無造作にロックを解除し、扉を開けた。
オフィスの中は無機質で冷たく、彼の生活がこの場に凝縮されているかのような雰囲気が漂っていた。
「そんな長い間、家を空けていてよろしいのですか? 家の状態など、問題が出てくるのでは?」
「大丈夫だよ。必要な届け物はここに届くようにしてあるし…家に関しては弟と息子が色々とやってるはずだからね」
その言葉に、里保は困惑と驚愕が入り混じった表情を浮かべた。
弟、そして息子?
彼には家族がいたのか。
「…お子さん、いらっしゃったのですか?」
僅かに胸の中に芽生えたのは、嫉妬にも似た感情だった。
嶺二という存在は、里保にとって特別であり、彼女の創造者であり、存在そのものを定義する人物である。
しかし、彼に配偶者や子供がいたという事実は、彼女にとって衝撃的であった。
嶺二はそんな里保の複雑な感情に気付くことなく、少し笑って首をかしげた。
「おっと、その“機械相手に欲情しているような人が子供を…?”みたいな顔はよしなさい」
彼はそう言ってソファに腰を下ろし、軽く手で隣を指さす。
里保は言われるがままに隣に腰を掛けたが、その内心はざわめいていた。
「少し昔話をしようか」
彼の声はどこか遠く、過去の記憶に引き込まれていくようだった。
「まぁ、こんな私でもね、一時は“このままじゃいけない、人並みに恋をして子をなして、次に繋げねば”と思っていた時があってね」
嶺二の目がゆっくりと閉じられ、その表情には過ぎ去った時を思い出す哀愁が漂っていた。
「運良く、そんな私を愛してくれる女性と出会い…一通りやることをやって、無事に一人の子を作ったのさ」
淡々と語るその言葉の背後には、かつての幸せな日々が浮かび上がってくるようだった。
里保は、彼の話に耳を傾けながら、知らなかった彼の一面を見つめていた。
嶺二には、確かに愛し合った女性がいて、そして息子がいる。
それは彼女にとって少しばかりの苦みを伴う事実だった。
「なんだかんだ幸せだったよ。嫁と息子を得て、私も変わっていける…と思っていたんだがね」
その時、嶺二の雰囲気が変わった。
里保はその微妙な変化に気付き、困惑した。
嶺二がこうして感情を露わにすることは珍しかったからだ。
「長くは続かなかったよ。ある時、嫁が病気にかかってね。しかも、一度発症したら進行を遅らせるくらいしか手がないというおまけ付きさ」
彼の言葉は、あっけらかんとした調子を装っていたが、その裏には深い悲しみが隠されていることを、里保は感じ取った。
嶺二は自嘲するように笑いながら続ける。
「…ただ励ますことしかできないということが、あそこまで辛いとはね」
その言葉に込められた震え。
嶺二はそれに気付かないまま、記憶の深淵に沈んでいくように話し続けていた。
「それでまぁ…」
嶺二は話の続きを、どこか空虚な声で始めた。
「ある日、ふと"もういいや"と思ってね。嫁の命を繋いでる機械の配線を引っこ抜いたんだ」
彼は淡々と、ピッとケーブルを引っこ抜く仕草をしながら言った。
「そしたらあっという間だったね、命が失われていくのは」
そう言い終えると、嶺二はふっとため息をついた。
その様子は、まるで何でもない日常の出来事を話しているかのようだ。
しかし、話の内容はあまりにも重く、冷たいものだった。
「でさ、その間、嫁がずっとこっちを見てくるのさ。声を上げることぐらいはできたはずなのに、まんじりともせずに死んでいったよ」
嶺二は乾いた笑い声を漏らした。
その笑いには、どこか虚無的な響きがあった。
まるで自分がしたことの意味をも理解しないような、その無力さが浮かび上がる。
「そして嫁の死体を見下ろして気づいたんだよ。最初から、彼女を愛してはいなかったってね」
嶺二は目を閉じ、淡々と過去を振り返る。
「それに気づいたら、息子にも興味がなくなってね。色々と手続きをして、弟に押し付けたのさ」
その言葉はあまりにも軽く、無感情で、まるで自分の心を守るために無理に感情を押し殺しているかのようだった。
「とまぁ…こんなことがあったのさ。どうだい、里保? この話を聞いてどう思った?」
嶺二は軽い調子で尋ねたが、里保は何も言えなかった。
先ほど感じた嫉妬の感情は、すでに消え失せていた。
ただ、彼の背負っている悲しみと虚無だけが、静かに彼女の心に流れ込んできた。
一瞬の沈黙が続いた後、里保は口を開く。
「…一言で言うなら、"最低"ですね」
その言葉は冷たいが、どこか温もりを感じさせるようだった。
彼女の表情には、呆れと憐れみが入り混じっていた。
嶺二は短く笑った。
「はは、ごもっともだ」
嶺二の背中には、これまで彼が何を失い、何を捨ててきたのか、そのすべてが刻み込まれているように見えた。
里保には、それが痛々しく映った。
彼は、人間の繊細な感情に対処する術を知らず、ただ流されるままにここまで来てしまったのだろう。
「…そろそろおやすみになられてはいかがです? これ以上は明日の業務に差し支えますよ」
里保は、淡々とした口調で提案した。
「おっと、もうそんな時間か。シャワーでも浴びてくるよ。里保は先に寝ていなさい。おやすみ」
嶺二は立ち上がり、軽く手を振って部屋を出ていった。
「はい、おやすみなさい」
里保は静かに答えたが、その声にはどこか迷いが含まれていた。
嶺二が出て行った後、彼女は一人オフィスのソファに座り、考え込んだ。
「(配線を抜いて…? 病院でそんなことができる環境なんて普通ありえない)」
彼女の頭の中に疑問が渦巻く。
嶺二の話は、どこか現実離れしていた。
まるで彼自身が何かを隠しているかのように、話の表面だけを撫でるような描写だった。
「(…なぜあんな嘘をつくのでしょうか? そしてなぜ、あなたは泣いているのでしょうか?)」
里保の中には、確信があった。
嶺二は自分に対して何かを隠そうとしている。
しかし、それを無理に指摘してしまえば、彼の心が完全に壊れてしまうかもしれない。
「(言うべきなのかもしれません、"そんなことはない、あなたは彼女を愛していた"と…)」
しかし、その言葉を口に出せば、全てが崩れ去る気がした。
彼の脆い心を支える最後の柱を壊してしまうかのような、そんな恐れが里保にはあった。
「(わかりました。あなたが目を背けるというのなら、私もそうします。それが私に求められることならば…)」
里保は強い決意を固めた。
彼の過去に触れるべきではない、そう判断したのだ。
果たしてこの選択が正しかったのか、正しくなかったのか。
それは今は分からない。
しかし、里保は信じた。
いつか、この選択の意味が明らかになる日が来ると。
夜は深まり、静けさが再び戻ってきた。