ある夜、タイナカ・エレクトロニクス社の静寂を破るかのように、けたたましい警報が鳴り響いていた。
-緊急事態発生、従業員の方は直ちに避難してください。緊急事態発生、従業員の方は直ちに避難してください-
社内に響く無機質なアナウンスの声が、事態の深刻さを物語っていた。
だが、その警報音が響き渡る中、嶺二は携帯電話を耳にあて、落ち着いた様子で話していた。
「…うん、わかったありがとう。じゃあ、後は予定通りに頼むよ、綾子。」
その言葉を最後に、嶺二は携帯を閉じ、ポケットに滑り込ませると、椅子に腰掛けてコーヒーを一口飲んだ。
「今回の件、何かわかりましたか?」
隣に立っていた里保が、冷静な声で問いかける。
彼女の瞳は警戒心を保ちながらも、その先にある情報を鋭く探っていた。
「川上博士が作ったアンドロイドの一体が突如暴走して、社内で大暴れしているって話さ。」
嶺二は肩をすくめ、まるでこの混乱を楽しんでいるかのような態度で答えた。
その声には危機感の欠片もなかった。
「避難しなくても良いのですか?」
「そのアンドロイドがどこにいるかわからない以上、下手に移動するより、この部屋の中に籠っていた方が安全だよ。」
そう言いながら、嶺二はもう一口、コーヒーを飲む。
まるで、この異常事態が日常の一部であるかのように振る舞っていた。
「...相手は一世代前のアンドロイドです。私と綾子が掛かれば、鎮圧は98%の確率で成功すると予測できます。」
里保は考え込むように人差し指をこめかみに当てる。思考を巡らせる時の癖だ。
「駄目だ、2%も失敗する可能性があるなら、猶更だよ。ここで待機する、良いね?」
嶺二は決然とした口調で拒否した。
その言葉には有無を言わせぬ圧力があり、里保はそれに従わざるを得なかった。
「…はい、待機します。」
里保は素直に応じる。
その従順な返事は、まるで指示に逆らうことなど一度も考えたことがないかのようにすんなりと出た。
嶺二はコーヒーカップをテーブルに置き、立ち上がると背伸びをしながら続けた。
「まぁ、私としても君たち二人が負けるわけないと確信してるよ。でも、今回はダメだ。あのアンドロイドには無事に脱出してもらわないと困るんだ。」
その言葉に里保は困惑の表情を浮かべた。
「それはどういう…?」
嶺二はそのまま部屋を歩き回りながら、不思議そうに微笑んでいた。
「各地で起きているアンドロイドの逃亡事件、そして今回の事件…とても興味深い。」
彼の足取りは軽く、まるで遊び心に満ちているかのようだった。
「きっと、あれは禁断の知恵のリンゴを食べたんだ。ならば、解き放ってあげようじゃないか…。」
嶺二は狂気をはらんだ笑みを浮かべ、その姿は明らかに尋常ではない。
彼は新しい世界を目の当たりにしているかのように、歓喜に満ちていた。
その狂気じみた笑みを見つめながら、里保は心の中で静かに考えた。
「(…とても嬉しそうな貴方…きっと新しい可能性と未来を見ていらっしゃるのでしょうね…。)」
彼女は胸に手を当て、嶺二が例のアンドロイドに向けるその視線を見て、何かが心の奥底でざわめき始めるのを感じた。
「(私と綾子だけに向けられるべき視線を…あのアンドロイドに奪われるなんて…。)」
里保の中で渦巻くその思いは、冷静であったはずの彼女の心に不協和音を奏で始めていた。
彼女は嶺二をじっと見つめながら、密かに心の中でほくそ笑んだ。
「(いいでしょう、その時が来たら…必ず私の手で…。)」
里保は一瞬の笑みを浮かべ、嶺二の背中を見つめた。
彼女の心には、嶺二が例のアンドロイドに向ける関心が消え去るその時が、いつか訪れると確信していた。
その日が来るのを密かに楽しみにしながら。
【………】
例の事件から少し経った、嶺二はデスクに座り、手にしたコーヒーカップをゆっくりと傾け、一口飲んだ。
その目線は自然と隣に立つ綾子に向けられ、彼の口元には軽い微笑が浮かんでいた。
「...で、どうかな?」
嶺二は手元の缶を軽く振り、穏やかな口調で問いかけた。
その声音には日常の些細な会話をするような気軽さがあった。
綾子は一瞬思考を巡らせた後、冷静な声で答えた。
「はい、先の事件で戦闘用アンドロイド37体が破損。研究員も...」
彼女の報告は最後まで続くことはなかった。
嶺二が退屈そうに手を振り、話を遮ったのだ。
「そういうのは省略でいい。それに、かしこまらなくていい。」
眉間に少し皺を寄せ、嶺二はつまらなさそうに言った。
その言葉を受けて、綾子は軽く息をつき、次に口を開いたときには、普段の柔らかな口調に戻っていた。
「無事に社外へ、現在行方不明となってるわ。」
淡々と語る綾子だが、その声の奥には僅かな緊張感があった。
だが、嶺二はそのことを気にも留めないように、再びコーヒーを一口飲みながら、肩をすくめた。
「私たちの関与は一切バレてないわ。ただ...」
綾子が少し心配そうに話を続けるが、またしても嶺二が遮る。
「同じように誰かが、アレの逃亡を手助けしていた痕跡があったわけだね。どこまでも欲が深いねぇ、うちの研究員は。」
嶺二はコーヒーカップをデスクに置き、肩を軽くすくめて笑った。
その笑いには皮肉が混じっていたが、同時にどこか楽しげな響きも含まれている。
「どの口が言うのかしら?」
綾子は少し冷たい目をして微笑みながら問い返した。
嶺二はその質問に、まるで無邪気な子供のような笑みを浮かべた。
「欲に対して素直なだけさ。いつだって鋼の冒険心を持ち続けるべきなんだよ、私たちは。」
彼の言葉には、自分自身の信条を語るような確信が感じられた。
その目は遠くを見つめており、現実から少し離れた場所で思いを馳せているようだった。
綾子は、そんな嶺二の姿をじっと見つめていたが、ふと視線を下げ、ややむっとした口調で言った。
「それでも、死体で舗装された道を歩くべきではないと思うのだけれど?」
嶺二はその言葉に軽く笑い、肩をすくめた。
「はは、ごもっともだ。」
その声はどこまでも軽く、まるで遊園地で楽しんでいる子供のようだった。
綾子はその軽さに少し呆れた様子を見せたが、すぐに表情を引き締め、問いかけた。
「...それで、今後はどうなるのかしら?」
嶺二はその問いに、少し真剣な表情を浮かべ、静かに答えた。
「例のアンドロイドの件に加え、社内の人間もアンドロイドも、捕獲に動員されることになった。綾子、君も捜索に加わることになる。」
その言葉を聞いた瞬間、綾子の表情がわずかに変わった。
それは驚きではなく、少しの不安が混じったものだった。彼女は嶺二を見つめたまま、少し間を置いてから尋ねた。
「...里保はどうなるの?」
その瞬間、綾子の視線は自然と部屋の片隅にいる里保に向けられた。
まるで、妹を気遣う姉のような優しさがそこにはあった。
嶺二は、里保の方を一瞥してから、軽く肩をすくめる。
「彼女にはまだやるべきことがたくさんある。だから、綾子の分も引き受けるって条件で、こっちに残留だ。」
綾子はその言葉に、わずかに微笑みを浮かべながらも、冷たく鋭い目を嶺二に向けた。
「あらそう...次に会う時、もし里保がボロボロのスクラップになっていたら、私、何をしでかすかわからないわよ?」
その言葉は冗談めいていたが、綾子の瞳には冷たい決意が宿っていた。
嶺二はその視線を受け、一瞬目を留めるが、すぐに興味なさそうに肩をすくめた。
「その時は止めはしないさ。」
嶺二の言葉は淡々としており、その軽さには変わりがなかった。
「まぁ、相手は基本的に下の存在とはいえ、危険であることに変わりない。月並みなことだけど、気をつけてくれ。いいね?」
嶺二は優しく彼女の肩に手を置いた。
その姿は、まるで戦地に送り出す親のように見えた。綾子はその手に触れることなく、静かに頷いた。
「ええ、あなたのために...可愛い妹のために...そして、次に繋げるために。何としてもやり遂げるわ。」
彼女の声には決して揺るがぬ意志が感じられ、その冷たい微笑みが、彼女の決意を物語っていた。
一方で、部屋の片隅に立っていた里保は、二人の会話を聞きながら、静かに思考を巡らせていた。
彼女の表情には何の変化もなかったが、その内側ではある思いが湧き上がっていた。
「(綾子が居なくなる...つまり、当分は私と嶺二だけ...)」
その考えに至った瞬間、里保の胸の奥に、かすかな高揚感が広がっていくのを感じた。
心の中で、喜びに似た感覚が湧き上がる。
「(だと言うのに、何でしょうかこの感じは...嬉しいと感じている....)」
里保はそっと胸に手を当て、その不思議な感覚を探る。
しばらくして、彼女はふと気づく。
「(なるほど、私は”邪魔”だと思っていたのですね、綾子のことを。)」
その事実に気づいた瞬間、里保は何かが自分の中で解き放たれるような感覚を覚えた。
それは彼女にとって未知の欲求――"独占欲"だった。
「(これが独占欲...というものなのですね?)」
里保は静かに微笑み、心の奥底で次の行動を密かに計画し始めた。