綾子が来てから数日が経ったある日のことだった。
里保はオフィスの椅子に座り、小さな卓上鏡をじっと覗き込んでいた。
どこから持ってきたのか定かではないが、その鏡に映っているのは、無表情な自分の顔。
嶺二は珍しくオフィスにおらず、急な用事で出かけている。
里保は同行を申し出たが、嶺二に却下され、仕方なくここに残っている。
オフィスは静寂に包まれ、外から聞こえる車の音だけが微かに耳に入ってくる。
里保は鏡の中の自分を見つめ続けた。
その顔には感情の動きが一切ない。
アンドロイドである自分に、そもそも自然な表情を作ることができるのかどうか、それすら疑わしい。
しかし、それでも彼女は試みた。
「笑顔…」
彼女は小さくつぶやくと、指で口角を持ち上げ、無理矢理笑顔を作ろうとした。
口角を上げたり下げたりして、ぎこちない動きを繰り返す。
けれど、その笑顔は不自然で、まるで壊れた人形のように見える。
いくら努力しても、彼女の中でその動きが「自然」になることはなかった。
今度は、指を使わずに笑顔を作ろうとする。
しかし、今度も失敗だった。
さらに歪んだ笑顔が鏡に映し出される。
笑顔というにはあまりにも遠く、どこか醜くさえ見える表情。
片目でウィンクを試みるが、うまくできず、両目が半分閉じてしまい、口元もどちらかに上がりきらない。
「…どうしてうまくいかないのでしょう?」
彼女は首を傾げながら、鏡に映る自分の顔をじっと見つめる。
その時、ドアのロックが静かに解除される音がオフィスに響いた。
入ってきたのは綾子だ。
彼女は里保に気づくと、ふと卓上鏡を見やり、何かを感じ取ったかのように問いかけた。
「何してるの?」
その問いかけには、純粋な好奇心が含まれていた。
綾子は不思議そうな顔で、卓上鏡を見つめる里保に近づいてきた。
里保は、鏡越しに彼女と目を合わせることなく、無表情のまま静かに答えた。
「笑顔の練習です。」
言葉に感情はこもっていない。
彼女は再び卓上鏡に向き直り、もう一度笑顔を作ろうとする。
しかし、その結果は同じだった。
どこか歪み、酷い表情。
それを見た綾子は驚いたような表情を浮かべ、近づいてきて里保の隣に腰を下ろす。
そして、彼女と同じ目線に合わせて、優しい声で語りかけた。
「里保、笑顔っていうのは作るものじゃないわ。」
その言葉には、まるで姉が妹に諭すかのような温かさがあった。
綾子はそっと里保の顔に手を伸ばし、指で軽く口角を上げた。
そして、彼女自身も微笑みを浮かべる。
「楽しかったことや、嬉しかったこと、大事な人を思い浮かべてみて。そうすれば、自然に出てくるものよ。」
その言葉を聞いて、里保は一瞬、考え込んだ。
何が「笑顔」を引き出すのか。
彼女は頭の中を巡らせ、探し求めた。
そしてすぐに、ある一つの答えが浮かんだ九
――それは、間宮嶺二だった。
彼の顔を思い浮かべると、里保は再び笑顔を作ろうとした。
今度は、少し違った表情が現れた。
完璧ではないものの、そこには先ほどよりも柔らかい表情が浮かんでいた。
歪んではいたが、不自然な笑みではなく、少しだけ温かさを感じさせる笑顔だった。
「…うん、少し良くなったわね。」
綾子は微笑みながらそう言った。
彼女の声には安堵と喜びが混じっていた。
里保の笑顔はまだ未完成だったが、そこには確かに成長の兆しがあった。
それは、単なる模倣ではなく、里保が自分の内側から感情を引き出そうとしている証でもあった。
しかし、その言葉を聞いた瞬間、里保の顔は曇った。
「お世辞は要りません。」
彼女は不機嫌そうに顔をしかめ、少しだけ綾子を睨んだ。
データには完璧な笑顔の基準があり、今の自分の表情がその理想から程遠いことは分かっていた。
それを「良い」と言われることが、里保には受け入れがたかった。
綾子はそんな里保の様子を見て、微笑みを浮かべたまま優しく言った。
「お世辞じゃないわ。私は、里保の笑顔が好きよ。」
その言葉とともに、綾子はそっと里保を後ろから抱きしめた。
まるで妹を包み込むかのような、柔らかで温かな抱擁だった。
彼女の腕からは、言葉以上に多くの思いが伝わってきた。それは偽りのない、心からの愛情と信頼の証だった。
「…ごめんなさい。」
里保は小さな声で謝罪した。
彼女にはまだ、自分の感情をどう表現すればいいのか分からないことが多かった。
その不器用さに苛立つこともあったが、今はただ素直に謝るしかできなかった。
「いいのよ。」
綾子は、まるで全てを包み込むように、再び優しい声で答えた。
彼女の声には、妹を守る姉のような慈愛があふれていた。
二人はしばらく静かな時間を共有した。
外の世界は静かで、部屋の中に差し込む夕陽が、二人の背中を温かく包んでいた。