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第九話「里保、笑顔っていうのは作るものじゃないわ」

綾子が来てから数日が経ったある日のことだった。


里保はオフィスの椅子に座り、小さな卓上鏡をじっと覗き込んでいた。

どこから持ってきたのか定かではないが、その鏡に映っているのは、無表情な自分の顔。

嶺二は珍しくオフィスにおらず、急な用事で出かけている。

里保は同行を申し出たが、嶺二に却下され、仕方なくここに残っている。


オフィスは静寂に包まれ、外から聞こえる車の音だけが微かに耳に入ってくる。

里保は鏡の中の自分を見つめ続けた。

その顔には感情の動きが一切ない。

アンドロイドである自分に、そもそも自然な表情を作ることができるのかどうか、それすら疑わしい。

しかし、それでも彼女は試みた。


「笑顔…」


彼女は小さくつぶやくと、指で口角を持ち上げ、無理矢理笑顔を作ろうとした。

口角を上げたり下げたりして、ぎこちない動きを繰り返す。

けれど、その笑顔は不自然で、まるで壊れた人形のように見える。

いくら努力しても、彼女の中でその動きが「自然」になることはなかった。


今度は、指を使わずに笑顔を作ろうとする。

しかし、今度も失敗だった。

さらに歪んだ笑顔が鏡に映し出される。

笑顔というにはあまりにも遠く、どこか醜くさえ見える表情。

片目でウィンクを試みるが、うまくできず、両目が半分閉じてしまい、口元もどちらかに上がりきらない。


「…どうしてうまくいかないのでしょう?」


彼女は首を傾げながら、鏡に映る自分の顔をじっと見つめる。


その時、ドアのロックが静かに解除される音がオフィスに響いた。

入ってきたのは綾子だ。

彼女は里保に気づくと、ふと卓上鏡を見やり、何かを感じ取ったかのように問いかけた。


「何してるの?」


その問いかけには、純粋な好奇心が含まれていた。

綾子は不思議そうな顔で、卓上鏡を見つめる里保に近づいてきた。

里保は、鏡越しに彼女と目を合わせることなく、無表情のまま静かに答えた。


「笑顔の練習です。」


言葉に感情はこもっていない。

彼女は再び卓上鏡に向き直り、もう一度笑顔を作ろうとする。


しかし、その結果は同じだった。

どこか歪み、酷い表情。

それを見た綾子は驚いたような表情を浮かべ、近づいてきて里保の隣に腰を下ろす。

そして、彼女と同じ目線に合わせて、優しい声で語りかけた。


「里保、笑顔っていうのは作るものじゃないわ。」


その言葉には、まるで姉が妹に諭すかのような温かさがあった。

綾子はそっと里保の顔に手を伸ばし、指で軽く口角を上げた。

そして、彼女自身も微笑みを浮かべる。


「楽しかったことや、嬉しかったこと、大事な人を思い浮かべてみて。そうすれば、自然に出てくるものよ。」


その言葉を聞いて、里保は一瞬、考え込んだ。


何が「笑顔」を引き出すのか。


彼女は頭の中を巡らせ、探し求めた。

そしてすぐに、ある一つの答えが浮かんだ九

――それは、間宮嶺二だった。


彼の顔を思い浮かべると、里保は再び笑顔を作ろうとした。

今度は、少し違った表情が現れた。

完璧ではないものの、そこには先ほどよりも柔らかい表情が浮かんでいた。

歪んではいたが、不自然な笑みではなく、少しだけ温かさを感じさせる笑顔だった。


「…うん、少し良くなったわね。」


綾子は微笑みながらそう言った。

彼女の声には安堵と喜びが混じっていた。

里保の笑顔はまだ未完成だったが、そこには確かに成長の兆しがあった。

それは、単なる模倣ではなく、里保が自分の内側から感情を引き出そうとしている証でもあった。


しかし、その言葉を聞いた瞬間、里保の顔は曇った。


「お世辞は要りません。」


彼女は不機嫌そうに顔をしかめ、少しだけ綾子を睨んだ。

データには完璧な笑顔の基準があり、今の自分の表情がその理想から程遠いことは分かっていた。

それを「良い」と言われることが、里保には受け入れがたかった。


綾子はそんな里保の様子を見て、微笑みを浮かべたまま優しく言った。


「お世辞じゃないわ。私は、里保の笑顔が好きよ。」


その言葉とともに、綾子はそっと里保を後ろから抱きしめた。

まるで妹を包み込むかのような、柔らかで温かな抱擁だった。

彼女の腕からは、言葉以上に多くの思いが伝わってきた。それは偽りのない、心からの愛情と信頼の証だった。


「…ごめんなさい。」


里保は小さな声で謝罪した。

彼女にはまだ、自分の感情をどう表現すればいいのか分からないことが多かった。

その不器用さに苛立つこともあったが、今はただ素直に謝るしかできなかった。


「いいのよ。」


綾子は、まるで全てを包み込むように、再び優しい声で答えた。

彼女の声には、妹を守る姉のような慈愛があふれていた。


二人はしばらく静かな時間を共有した。

外の世界は静かで、部屋の中に差し込む夕陽が、二人の背中を温かく包んでいた。

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