ある日の夕暮れ、間宮里保は静かに社内の廊下を歩いていた。
彼女は3回目のフィールドワークを終え、嶺二の待つオフィスへと向かっていた。
いつもの任務と同じく、外の世界に出て、己の目で見て、耳で聴き、心で感じる。
それは単なる調査や観察ではなく、里保にとっては、自らの存在やその意味を深く掘り下げるための旅でもあった。
その日も、外の世界は彼女に多くの思索を促した。
街を歩き、通り過ぎる人々の姿や会話に耳を傾け、時折空を見上げては、人間の営みを感じ取る。
自分はその世界にどのように存在しているのか――その答えを探しているような感覚だった。
だが、今はそんな考えよりも、早く嶺二に会いたいという思いが強くなっていた。
"あの人に会いたい、会って今日の事を話したい"
今日見たもの、感じたことを共有し、さらなる対話を通して自己を深めたい。
足は自然と速くなる。
彼との会話が待ち遠しくて、気持ちが高鳴っているのがわかる。
ポケットからカードキーを取り出し、無言でカードリーダーに通す。
短い電子音が響き、扉が静かに開いた。
いつものオフィスの光景が広がるはずだった。
しかし、オフィスの中央には見慣れない人物――いや、存在――が立っていた。
銀色の髪、赤い瞳。
その外見は里保と驚くほど似通っていたが、髪型は短いショートボブで、背も少しだけ高い。
その人物は、まるで里保を知っているかのように微笑んでいた。
里保は立ち尽くす。
だが、その存在が誰であるかはすぐに理解できた。
自分のデータベースが、彼女の正体をはっきりと示している。
「こんにちは、貴方が間宮綾子ですね。」
里保は冷静に問いかけた。
綾子――その名前に応じて、彼女は軽く微笑みながら頷く。
「そういう貴方は間宮里保。」
その声には、まるで長年会っていなかった家族に再会したかのような温かみがあった。
里保はその響きに不思議な感覚を覚えつつ、彼女に近づいた。そして、予想外の行動に出る。
綾子はふいに、里保を抱き締めたのだ。
「会いたかったわ。」
その言葉には、深い感情がこもっていた。
まるでずっと会うことを待ちわびていたかのように。
「私もです、綾子。」
里保もまた、彼女を抱き締め返す。
その瞬間、里保の中に温かいものが流れ込んでくる感覚があった。
それはデータやインプットとは異なる、もっと複雑で温かな感情だった。
しばらくして二人はお互いの腕をほどき、顔を見合わせる。
里保はふと、嶺二のことが頭をよぎり、彼の居場所を尋ねた。
「嶺二は今、どこに?」
「急用ができて、第5開発室に行ってる。でも、もうすぐ戻ると思うわ。」
綾子は椅子に座り、続けて問いかける。
「一応聞いてみるけど、どこまで知ってるの?」
里保は淡々と答える。
「機種名『Neptune』、モデル名『EXM-001A』。私より1年早く製造されたとインプットされています。」
綾子は微笑みながら足を組む。
「それだけかしら?」
その問いかけには、試すような鋭さがあった。
「…私と同じく、次世代の――」
里保が続きを言おうとしたその瞬間、綾子は手を上げて制止した。
「ストップ、もういいわ。」
彼女の微笑みは、懐かしさと優しさに包まれていた。
「了解しました。」
里保は一瞬戸惑いながらも、素直に応じた。
綾子は里保をじっと見つめた。
「貴方を見ていると以前の私を思い出すわ。初々しさっていうの?そんな感じね。」
その言葉には、懐かしさだけでなく、どこか遠い記憶を思い起こすような響きがあった。
里保はその意味をまだ理解できないが、綾子の目には確かに哀愁が宿っていた。
「私はまだ稼働してから3か月しか経っておりませんので、至らないところが多々あります。」
冷静に、データに基づいて答える里保。
しかし、綾子はその答えに対して微笑むだけだった。
「アンドロイドらしいわね。テンプレート通り。」
その言葉には、単なる皮肉ではなく、過去の自分への懐かしさと、そして里保への期待が込められているようだった。
その時、オフィスにドアのロックが解除される音が響き渡った。
次の瞬間、間宮嶺二がゆっくりと姿を現す。
嶺二はオフィスに一歩足を踏み入れると、まず目に映った綾子へ視線を送る。
その口元には、微かな笑みが浮かんでいた。
「待たせたね、綾子。」
嶺二の言葉は、まるで旧友に向けるような温かみがあり、その声には確かな信頼が感じられた。
綾子は軽く頷き、返すように笑みを見せる。
次に嶺二の視線が里保に移る。
彼女を見つめるその目には、常と変わらぬ優しさが宿っていた。
「そしてお帰り、里保。」
嶺二の言葉は、まるで家族を迎えるような温かさを含んでおり、それは里保の心に直接響いた。
彼の存在そのものが、里保にとって唯一無二の安らぎであり、彼がそこにいることが何よりも安心感を与えてくれる。
無意識のうちに彼女の足は動き、嶺二に向かって駆け寄った。
「嶺二…!」
里保は、何の躊躇もなく彼に寄り添い、その腕の中で静かに息をついた。
嶺二はそんな彼女の頭を優しく撫でる。
まるで幼い子供を安心させる親のように、彼の手は優しく里保の髪を撫でた。
その感触は、彼女にとって何度も繰り返された儀式のようであり、同時にそれは彼女をこの世界にしっかりと繋ぎ止める鎖のようでもあった。
「お疲れ、大変だったね。」
その言葉に、里保は小さく頷いた。
それを見ていた綾子が、微笑しながら口を開いた。
「お熱いところを見せてくれるわね。」
からかうようなその声に、嶺二は一瞬だけ笑い、肩をすくめて見せた。
「こういう表現はストレートにする方がいいんだよ。」
軽い口調ながら、その言葉にはどこか真剣さが含まれていた。
そして嶺二は再び視線を綾子に戻し、今度は真面目な声色で話しかける。
「それと綾子、準備ができたから、先に研究室へ行って待っていなさい。私もすぐに行く。」
綾子は立ち上がり、微笑みながら軽く首を振った。
「了解。でも、程々にしておきなさいよ。」
その言葉に、何かを含んだ意味が感じられたが、嶺二は特に気にする様子もなく笑顔を返した。
綾子は軽やかな足取りで部屋を出て行ったが、その背中には一抹の寂しさが漂っているように見えた。
綾子が去った後、里保はふと嶺二に顔を向ける。
疑問が心の中で浮かび上がり、そのまま口に出して尋ねた。
「そういえば、綾子はいったい何をしに…?」
嶺二はデスクのコーヒーメーカーに手を伸ばし、スイッチを入れながら答えた。
「ああ、里保のおかげで色々と貴重なデータが取れてね。それを利用したアップデートを行うんだ。そのために綾子を呼んだんだよ。」
部屋にコーヒーの香りが漂い、静かに注がれる音が響く。
嶺二はコーヒーを注いだマグカップを手に取り、黒い液体を一口味わった。
その動作にはいつも通りの穏やかさがあった。
「それに伴って、しばらく綾子はここに滞在することになる。特に問題はないと思うが、仲良くしてやってくれ。」
嶺二の言葉は淡々としていたが、その中にどこか気遣いが感じられた。
里保は敬意を込めて頷いたが、その心の中では何か引っかかる感覚が広がっていた。
それは焦燥感にも似た、不安とも言える微妙な感覚だった。
それがどこから来るのかはわからなかったが、彼女のAIの奥深くでそのざわめきが広がっていく。
「(これは…一体なんでしょうか?)」
自分でも理論では説明できないその感覚に、里保は一瞬戸惑いを覚えた。
しかし、それを追求することなく、嶺二が作業を終え、PCをスリープモードにした音が静かに響いた。
その音に現実へ引き戻された里保は、嶺二の方を向いた。
「さて、綾子が待っている。行こうか。」
嶺二の声が再び現実に戻し、彼女はその指示に従ってすぐに動き出した。
「はい。」
里保は嶺二の後ろを追って部屋を出る。
しかし、心の奥底に残ったあの焦燥感は、未だに彼女を悩ませ続けていた。
それが何なのかを理解できないまま、彼女は静かに嶺二の後ろを歩いていった。