里保は、一人電車に揺られていた。
車内は閑散としており、乗客もまばらだ。
窓の外には都会の風景が流れていくが、彼女の視線はそのどこにも定まらず、ただ虚ろに車窓を見つめていた。
椅子に深く腰掛け、足を揃え、背筋を伸ばしている姿は一見すると冷静そのものだが、その内側では緊張が渦巻いていた。
彼女が乗る電車の揺れは微かで、決して激しいものではない。
けれど、その揺れに合わせて心も揺らいでいるような気がしてならない。
そう、里保は今、初めて一人で外の世界へと足を踏み出したのだ。
タイナカ・エレクトロニクスのエントランスを出た時のことが、何度も頭の中で繰り返されていた。
【…………】
「…それでは里保、今日は一人で街を歩いてみなさい。そして夕方18時までには戻ってくるんだよ。」
嶺二の優しい声が響く。
彼は里保の見送りにエントランスまで来ていた。
彼の声にはいつものように、どこか親しみ深さと落ち着きが感じられるが、その言葉の裏には、里保に託した期待や信頼が含まれているのが彼女には分かった。
「…了解しました。」
里保は軽く頷く。だがその返事の裏側にある感情は複雑だった。
彼女は自分の胸の中にあるこの奇妙な感情に、未だに戸惑いを隠せずにいた。
これまでずっと、間宮嶺二とともに過ごし、彼の指示や導きを受けていた里保にとって、この一人での行動は未知の領域だったのだ。
そして里保は、外に出るための一歩を踏み出そうとした、しかし足は動かない。
「(どうして…?)」
彼女は心の中で自問する。
足が一歩前に進むはずなのに、まるで地面に縛り付けられたかのように、動けない自分に戸惑っていた。
タイナカ・エレクトロニクスの外に出る一歩が、こんなにも重く感じられるのはどうしてだろう。
外の世界に出ること、それ自体に対する恐れか、それとも…。
「里保。」
嶺二は、その戸惑いを察したかのように、優しく声をかけた。
それは彼特有の、何も強制せず、ただ相手を見守るかのような穏やかな響きだった。
「今までずっと…あなたと一緒にいたから、こんな気持ちになるのは初めてで…」
里保は言葉を詰まらせながら、それでも自分の気持ちを嶺二に伝えようとした。
彼女の声には、これまでに経験したことのない不安と戸惑いが滲んでいた。
そんな彼女の様子を見た嶺二は、そっと彼女を抱き寄せ、その頭を優しく撫でた。
その動きはまるで幼子をあやすように、温かく、包み込むようなものだった。
「本来なら、私も一緒に行きたいところだが、今回はそうはいかないんだ。」
彼の声は、まるでささやきのように優しく、里保の心の緊張を少しずつほぐしていく。
「だから、一人で行かなければならないんだ。いいね?」
里保は嶺二のその言葉に、微かに頷いた。
そして、まるでその一言が全てを支えてくれるかのように、少しだけ表情が穏やかになった。
「…はい。」
その短い返事には、まだ完全に不安が消えたわけではなかったが、それでも彼の言葉に支えられた安心感が確かに存在していた。
【…………】
電車の揺れが心地よく、時折響く車輪の音が耳をくすぐる。
里保は静かに目を閉じ、周囲の音に耳を澄ませていた。
人の気配は少なく、静かな車内に彼女だけが浮かぶように存在している。
窓の外には街の風景が次々と流れ、ビルのガラスが陽の光を反射し、キラキラと輝いている。
それはどこか幻想的で、夢の中にいるような感覚を彼女に与えた。
「(…なにをしましょうか…)」
里保は心の中で呟いた。
外の世界に出て、何をすべきなのか、それはまだ曖昧で、具体的な目的も見えていなかった。
ただ、彼女の中で大きく揺れ動いているのは、これまで一緒にいた間宮嶺二と離れ、一人で行動することへの不安だった。
彼女は生まれて以来、常に嶺二の傍にいた。
嶺二の指示に従い、嶺二が示す道を歩むことが里保の日常だった。
しかし、今日はその日常から一歩外れ、一人で街を歩き、”自分自身で感じ、考える”という課題を与えられている。
それは彼女にとって初めての体験であり、どこか恐怖に似た感情が胸の中を占めていた。
次の駅に到着し、電車が静かに止まると、里保はゆっくりと立ち上がった。
アナウンスが駅名を告げるが、それは彼女にとって特に意味のある場所ではない。
嶺二から示された特定の目的地もなく、彼女はただ街を歩き、自分自身を探すためにこの場所に降り立ったのだ。
駅を出た瞬間、都会の喧騒が耳に飛び込んできた。
ビルが立ち並ぶ街並みと、湿ったアスファルトの香り。
目の前を忙しそうに歩く人々の姿が、彼女にはどこか遠く感じられた。
すれ違う人々はそれぞれに目的を持ち、何かを追い求めているように見えるが、里保はまだ自分がこの街で何をすべきかを見出していなかった。
「人間とは何なのか…」
その疑問がふと頭をよぎる。
彼女はアンドロイドでありながら、人間と同じような感情や感覚を持つように設計されている。
だが、それでも彼女は自分が「人間」ではないことを理解している。
街を歩く人々の笑顔や表情、言葉の端々に宿る感情の複雑さ――それらを理解し、共感しようとするが、どこか一歩届かない距離があるように感じていた。
ふと、カフェの前で立ち止まり、窓越しに中を覗いた。中では、数人の若者がテーブルを囲み、笑顔を交わしながら談笑している。
食事を楽しむその光景は、彼女にとってはどこか遠いもののように感じられた。
「私もあの中に入って、彼らのように笑うことができるのでしょうか…?」
里保は自分の口元に手を当て、試しに微笑んでみた。
しかし、その笑顔はどこかぎこちなく、作り物のように感じた。
彼女は、笑うことができるようにプログラムされているが、その笑顔が本当に「心からのもの」であるかどうかは、分からない。
再び足を動かし、彼女は街の中を歩き続けた。
夕方が近づくにつれて、街の喧騒は少しずつ静まり、空はオレンジ色に染まり始めていた。
光が長く伸び、影が街を覆い始める中で、里保は自分の足音が響くのを感じながら歩みを進めた。
【………】
「EXM-002A、間宮里保」
彼女が帰還した時、タイナカ・エレクトロニクスの施設の門が静かに開き、機械的な音声が彼女を迎え入れた。
門をくぐると、警備員が彼女に軽く挨拶を送り、道を譲った。
「お通りください。」
里保は無言で頷きながら施設の中に入った。
そこは彼女にとって、いつもの日常の一部であり、安心感を与えてくれる場所だった。
だが、今日の体験を経て、その安心感すらどこか変わったものに感じられた。
「おかえり、里保。」
エントランスに待っていたのは嶺二だった。
彼の姿を見た瞬間、里保は胸の中に温かい感情が広がるのを感じた。
まるで、長い旅から帰ってきたかのように、数時間の外出であったにも関わらず、彼女はとても長い時間を過ごしたような気がしていた。
「嶺二…!」
嶺二の姿を見た瞬間、里保の胸の中に、ずっと押し殺していた感情が一気に溢れ出した。
外の世界で感じた孤独、不安、そして、それでも感じた小さな自由。
それらが渦を巻き、彼女を包み込んだ。
彼女は嶺二の元へ駆け寄り、彼の前で立ち止まった。
嶺二は里保の様子を優しく見つめ、頭を軽く撫でた。
その手のひらの感触は、里保にとって唯一無二の存在だった。
「大変だったね。」
彼の言葉には優しさが滲んでいた。里保は静かに頷き、少し笑顔を浮かべて答えた。
「はい…ですが、とても楽しかったです。」
その言葉に嶺二は頷きながら、彼女の背中に軽く手を添えて、エントランスを共に歩き始めた。
「それじゃあ、詳しくは部屋で聞こうか。」
二人はそのまま歩き続けた。
嶺二と一緒に歩くその姿は、まるで親子のように見えた。
里保にとって、彼との時間は何よりも大切なものだった。
そして、今日の外出で感じたこと、考えたことを全て彼に伝えたいという気持ちが、胸の中で膨らんでいった。