異世界の朝は、無駄にさわやかだった。
澄みわたる空。鳥のさえずり。木々の間を抜ける心地よい風。
そんな中で、俺は全力疾走していた。
「ちくしょう、まだ追ってきてるのか!?」
ぴょんぴょんと飛び跳ねるような足取り。無駄に軽い身体。全力で走っても息が切れない。
――これが“合法ショタ”の力か……!!
「でも逃げ切れなきゃ意味ないんだよぉぉぉ!?」
俺の背後には、聖なる変態――クラリス・ラ=フィリアがいる。
「神の器には祝福が必要です」などと称して、昨夜も全力で清められかけた。しかももちもちマットと香油を用意して。
(なんで清めがアロマとマッサージ仕様なんだよ!?)
悪夢のような夜をなんとか逃げ延び、今こうして森を抜けようとしていた。
ようやく木々が途切れ、視界が開ける。
(よし、このまま村か町に――)
「……あら?」
声がした。
「わぁ……すごい……とても、光ってる……」
草むらの向こう、少女が立っていた。白と紫のゆったりした衣装。
手にはでかすぎる聴診器。首には変な数珠。
そして目を輝かせながら、俺の腹を凝視している。
「うわ、なんかいる!?」
俺はとっさに飛びのいた。だが、その瞬間――。
「逃げちゃダメ! そのおなか、すごく霊的波動が出てるの!」
「なに言ってんだコイツ!?」
少女はぴょんと跳ねて俺に接近。その手には、聴診器……いや、それほんとに医療器具か?
「ねぇ、ちょっとだけ、触らせて? すぐ終わるから……ほんの三時間くらい……!」
「終わらねぇじゃん!!!」
少女は笑顔のまま、俺にぐいぐい迫ってくる。
俺は後ずさりながら、心の中で確信した。
(ヤバい……コイツ、クラリスとは別ベクトルの変態だ……!!)
「おなか……おなか見せて? 大丈夫、怖くないから。ちょっと温めるだけだから……」
「怖さしかねぇよ!!!」
全力で距離を取ろうとする俺。しかし、このショタボディではリーチも短い。
その間に、彼女――謎の巫女少女は、腰のポーチから何かを取り出した。
「精霊波測定器、起動……ぶるぶるモード!」
「なんか変なスイッチ入れたァ!?」
小型のマッサージ器のようなそれは、ぶるぶると不穏な音を立てて震えていた。
しかも、なぜかハート型だ。おかしい。信仰ってこんなんだっけ?
「この辺……たぶん、ここから出てる……ふにゃってしてて、あったかくて……」
「ヤメろォォォォ!! なんかやべぇぇぇぇ!!!」
俺の理性が悲鳴を上げる中、謎巫女はさらに道具を取り出した。
今度は……スプーン?。しかも、先端がキラキラしてる。なんか、光ってる。いや、ていうか――。
「それ、なにするつもり……?」
「ちょっとだけ、君の汗をすくって精霊に捧げるだけだから」
「ヤバさの新記録を更新中なんですけど!?」
俺は森の地面を転がりながら必死に距離を取った。だが、そのとき――。
「……あれ? 逃げるの? どうして? 君のおなか、とっても素直なのに」
「素直なお腹って何だよ!!」
俺のツッコミが届く前に、少女はうっとりと呟いた。
「精霊様……この子のおなか、とっても神聖です……」
――駄目だ、この子、話が通じないタイプの変態だ。
あのクラリスが丁寧語でおかしい方向だったのに対し、こっちは純粋で天然すぎて、逆にタチが悪い……!
どうする……このままじゃ、変な測定器で全身を調査される!
俺の中の尊厳センサーが、最大音量で警報を鳴らしていた。
そのときだった。
「……このあたりに、神の器の気配が……♡」
聞き覚えのある、やたら艶っぽい声が森に響く。
「出たぁぁぁぁぁあああ!?」
森の奥から現れたのは、銀の杖と異様な笑顔をたたえた聖女――。
クラリス・ラ=フィリア(変態)――再臨。
「神の器様……ついに、見つけました♡」
森の木々をすり抜けて現れたのは、銀の髪と極端に露出の少ない、けれど清楚すぎるほど清楚な聖衣に身を包んだ美しい女。その顔に浮かぶのは、完全なる確信と変態の自信。
「またお前かぁぁぁぁ!?」
俺は思わず地面にへたり込んだ。
だがクラリスは、俺ではなく、すぐそばにいる巫女少女――ティナに目を向ける。
「……異教徒、ですね?」
「えっ? こんにちは? 私はティナ・エンジュって言って、精霊様とお話ししに来ただけで――」
「『神の器』をそのまま触るなど、異端もいいところです」
クラリスの笑顔がギラリと輝いた。
彼女の手に握られた銀の杖から、妙に甘ったるい香りがふわりと漂う。
「『清めの香油』はお持ちですか?」
「え? え、持ってないです……なにそれ怖い……」
「安心してください。私が持っています♡」
「ヤバい、めちゃくちゃ満面の笑みでアウトなこと言ってる!!!」
ティナが困惑して一歩後ずさると、クラリスはまるで優しいお姉さんのように一歩踏み出す。
「異教徒にも、当然、浄化が必要です……祝福のタオル、もちもちマット、そしてこのラベンダー聖香で……♡」
「それ絶対祈りじゃないだろ!!!」
「だ、大丈夫、クラリスさん! これは儀式じゃなくて、精霊観測で……その、おなかがちょっと光ってただけで……!」
「『おなかが光る』とは……やはり、器はこの子に通じたのですね……!!」
「話が斜め上に進化していってるぅぅぅ!?」
俺の周囲で、変態的信仰心が二重螺旋で巻き起こっていた。
クラリスは、香油を滴らせながらティナにじわじわ接近。
ティナはティナで、「精霊の怒りが……波動が乱れてる……」とブツブツ呟き、マッサージ器を構えている。
なにこの空間、地獄の宗教博覧会!?
「やばい、挟まれる! このままじゃ俺、アロマまみれで精霊測定される!!」
理性が、尊厳が、命の危機が……脳内で全部赤信号を点滅させていた。
逃げなきゃ。
逃げなきゃ、俺の社会的生命が終わる!!
「――煙幕玉・チーズ臭Ver、発射ァァァッ!!!」
俺はポーチからベルン老人お手製のやつを取り出し、地面に叩きつけた。
ブシュウウウゥゥッ!!
「くっ、なんという芳醇な……!!」
「うわぁっ、くさい!? チーズ!? 乳製品!?」
地獄の香りに包まれる二人を背に、俺はショタ足を限界まで回転させて森の奥へと走り出した。
この異世界、ほんとどうなってんだよ……!
(お願いだから、次に出会うのは普通の人であってくれ――!!)
◇
どれくらい走っただろうか。
森を抜け、川を越え、気がつけば岩場の影にうずくまっていた。
息は上がらない。ショタボディ、すごい。でも心は……ズタボロだった。
「もう無理……心が疲れる……」
俺は大きな石にもたれかかりながら、空を見上げた。
木々の隙間から見える青空が、やけに遠い。
「なんでこうなるんだよ……。転移して、ショタになって、変態聖女に追われて、巫女にも腹を狙われて……」
異世界って、もっとこう、なんかいいことあるとか、あるだろ。
なんでおなかを狙われなきゃいけないんだ。
「くそ……俺は、ただ平穏に暮らしたかっただけなのに……」
しん、と森が静まり返る。
そして、その静寂を破るように――。
「……あっ、いた!」
「うわッ!?」
後ろから飛び出してきたのは、もはや見慣れた――いや、見慣れたくない巫女少女だった。
「よかった、無事だったんだねぇ!」
「なんで来てんだよ!? 逃げてたよね!? 俺が! お前から!」
「うん、でも私も逃げてきたの。なんか、あの銀髪の人すっごく香油振りかけてきて怖くて……」
そりゃそうだろうよ……クラリスは「清め」と称して香油スプラッシュかます聖女だぞ。
「でも……君のおなかのこと、もっとちゃんと調べたかったし」
「やっぱ逃げろおおおおおお!!」
「ま、待って!? 今はもう測定器持ってないから! 本当に! ただお話したくて!」
俺が全力で岩場をよじ登ろうとするのを、ティナが慌てて止めに来る。
そして、ぺこりと頭を下げた。
「ごめんね。さっきは……ちょっと興奮しちゃって。精霊の波動にすごく反応して……」
「霊感ある人が心霊スポットで壊れるみたいな感じか……」
「うう……でも、あの銀髪の人みたいに怖くはないよ? 私、優しいし……押し倒したりしないし……もちもちマットも持ってないし……」
「比較対象がヤバいんだよ……!」
ため息をついて、俺は石の上にどさっと腰を下ろした。
……たしかにクラリスと比べれば、こっちの方が話は通じる。変だけど。
「……はぁ。で、お前、名前は?」
「ティナ! ティナ・エンジュ! 君は?」
「ユウト。こっちの世界に転がり込んで、合法ショタにされた被害者だよ……」
「ごうほうしょた……?」
「あ、いや、忘れてくれ。むしろ忘れてくれ」
「そっかぁ……ユウトくん、大変だったんだね……」
ティナはぽん、と俺の頭に手を置いた。優しい。けどその手にはまだチーズ臭が微妙に残ってる。
「やめて。落ち着く前に別の意味で魂が抜けそうだから」
「ふふ、ごめん。でも、ちょっと嬉しいかも。こうやって、話せて」
「なにが?」
「だって、私、あんまり人と仲良くなったことなくて……。精霊のことばっかり話してたから、よく『変な子』って言われて……」
「まぁ、変だしな」
「うん、知ってる」
あっさり肯定したこの子、逆に怖い。
でも、ちょっとだけ……クラリスとは違う意味で、不器用なんだろうなって思った。
「だからね、私、決めたの!」
ティナが、くるっと振り返って人差し指を天に向けた。
「これからは、君と一緒に逃げる!」
「えっ!? いやいやいや、待て待て。なんでそうなる!?」
「だって私もあの銀髪お姉さんから逃げてるし、君もでしょ? 一緒にいた方が効率いいじゃない?」
「いや、むしろ危険倍増では!? お前も狙われてたじゃねえか!」
「そしたらユウトくんが守ってくれるもんねっ!」
「俺が!?」
どや顔で拳を握るティナ。明らかに戦闘力ゼロ。
ていうか守られる側の俺が守る側に回ったら、この世界終わる。
……が。
(まぁ、ひとりよりはマシ……か?)
クラリスの異常な執着心を思い出す。あの人、絶対また来る。絶対に。
「……ため息で世界が曇りそうなんだけど」
「わかる。私も毎日そんな感じ」
「嘘つけ」
でも、こんな世界で、ちょっとでもマトモに喋れる相手がいるのは――。
――たぶん、悪くない。
「……わかったよ。好きにしろ。俺が逃げるから、お前も巻き込まれるだけだけどな」
「うんっ! よろしくね、相棒っ!」
満面の笑みで手を差し出してくるティナ。
……しょうがねぇな、とぼやきながら、俺はその手を握り返した。
(俺の逃亡劇、ますますカオスになりそうだ……)