瀬戸内海に面した
だが不思議なことに、そこらの大大名家よりよほど懐は豊かである。さらに不思議なことに、戦乱の世にありながら、もう何年も戦に参加していない。
もともと、温暖な気候に恵まれ、農業と漁業が盛んな国である。
戦がなければ人々は土を耕し、漁に励む。ここ何年も、そんな豊かでのんびりとした暮らしが続いている。
そんな戦国の世らしからぬ土地の、ただいまの領主は
先代が類まれなる長寿であったために当主の座について日は浅く、当人はこれといった特徴のない男である。言ってしまえば平々凡々を絵にかいたような凡夫である。
だが、彼の妻子がすごい。
世に聞こえた美貌の奥方と、美丈夫の嫡男、日ノ本全国に名が轟くほどに美しく賢い長女、そして有能な家臣団がいる。
さてそんな柑橘領の北には山が二つある。
この二つの山の間を流れる川もある。
これは途中で二股にわかれ、平野にちょうど「人の字」を描いている。そのために、人川《ひとかわ)と地元の人々には呼ばれている。その「人の字」のちょうど付け根に真っ白い城・柑橘城《かんきつじょう》がある。
天守閣や本丸、奥の丸……ひととおりの城としての建築物はそろっているが、生垣もお堀もない。城の門の前では蓆を敷いた民が魚や野菜を売っているし、そもそも城門は開けっ放しで閂が下ろされたためしはない。
建物が無防備にもむき出しで、攻められたらひとたまりもないのだが、ここを攻める者は一人もいない。
その理由は、一冊の書物を読めばわかる。
柑橘城の書物が仕舞われている
だがしかし、誰もそうは呼ばない。『柑橘家事件記録』と親しみをこめて呼んでいる。
なぜならば、誰か彼かがやってきて、柑橘家に起こった事件や柑橘家の人々が起こした事件を記していくからだ。
今日も夕日が傾き始めたころ、白髪の武家が
「……おお、あったぞ。『事件記録』。これでござるな」
彼は、ぱらぱらと慣れた手つきで紙をめくり、ひとつ頷いた。
「ぬっ? いかぬ、新たなる事件が記されておる」
表紙に蝋燭を近づけ、じっと目を凝らし、手で表紙をなぞる。
「表紙も綴じ紐も新しいものに改められてござるな……」
それを素早く
「殿、持ってまいりましたぞ」
「おお、
室内には、引き攣った面持ちの壮年の男性がちんまりと座っている。
だが、香母酢と呼ばれた老人――柑橘家筆頭家老・
「香母酢、中を読んだか?」
「はい。……我らのあずかり知らぬ出来事が新たに記されてございます」
「そうであろうな。前回閲覧して数日が経っておるからな……」
「しかし、一つではござりませぬ」
「なっ、なにっ!?」
素っ頓狂な声を出した八朔が、己を落ち着かせるかのように深呼吸し、帳面をゆっくり開いた。その拍子に、挟まれていたらしき紙がひらひらと落ちた。それを拾い上げた香母酢はぎょっとしてのけぞった。
「と、殿! ご覧くだされ! 我らのことが記してありまする!」
八朔が覗きこんだ紙には、
・登場人物紹介・
柑橘(かんきつ)家……瀬戸内海に面した小さな大名家。戦乱の世にありながら戦とは無縁で、今まで他家との戦の経験がない。豊かで穏やかな、平穏無事な小大名家。
柑橘 蜜柑(みかん)……柑橘家の嫡男。放浪癖・盗癖がある戦国一の傾奇者。自称十八歳、独身。黙っていれば美丈夫。凄腕の剣客。
柑橘 八朔(はっさく)……柑橘家の現当主。蜜柑がしでかす常識外れの所業(しょぎょう)に頭を悩ませている。人柄は温厚、容姿は凡庸(ぼんよう)。
柑橘 伊予(いよ)……八朔の美貌の奥方。息子・蜜柑を温かく見守っているが、怒ると恐ろしい。
柑橘 柚(ゆず)……蜜柑の妹姫。十五歳。母の血を色濃く受け継いだ日本一の美貌の持ち主。頭脳明晰でそこらの男では太刀打ちできない。
金柑(きんかん)家……代々柑橘家を支える名家。父親・香母酢と嫡男・酢橘がお城に仕えている。
金柑 酢橘(すだち)……金柑家の嫡男。非情に有能な、蜜柑の側近。幼いころから蜜柑の放浪に付き合わされているがゆえに、様々な特技を持つ。柑橘城下にも聞こえた「堅物」。
柑橘城……天守閣の最上階が蜜柑の居室。立派な大屋根があり、そこには展望台でもないのに卓と椅子が設置されている。蜜柑はよく、ここから瀬戸内海や領地を眺めている。
と、
「かっ、香母酢、誰がこれを書いたのじゃ! 我が家のことが外部に筒抜けじゃぞ!」
「殿! 我が家臣団には、かように力強く、尚且つ流麗な手蹟の者はおりませぬが……」
「いや、文字だけではないぞ。この帳面の新しき部分と人物一覧表に使われている紙を見てみよ。はわが国には入ってきておらぬ、かなり上等なものじゃ……」
二人は、黙って視線を交わらせた。
つまり、この帳面は、他国の者の手によって事細かい「登場人物一覧」が記されたということになる。
「うぬぬ……我が家の恥が、日本全国に知れ渡っておるのか……まぁ、当然のことではあるが……」
八朔と香母酢、二人は揃って大きな、大きなため息をついた。
「我が家の先行きが、心配じゃ……」
そんな二人の背後を、のんびりと