「どう思う?」
夜の飛空船は、夜の飛空船は深い静寂に沈み、蒸気機関の低いうなり声と歯車の軋む音だけが、止まることなく鳴いていた。
煤けた帆が微かに擦れ、甲板の油ランプが揺れる光を闇に投げかけている。
ルビアは部屋の中央に置かれた木製のテーブルに腰を下ろしていた。
部屋は狭く、油ランプの揺れる光が壁の錆びたパイプと無数の書棚をぼんやりと照らしていた。
蒸気機関の低いうなり声が遠くから響き、時折、窓の外を流れる灰色の雲が月光を遮って影を落とす。
アリエラはテーブルの向かい、背もたれの高い椅子にゆったりと座り、片手で羊皮紙の束を軽く叩いていた。
彼女の赤銅色の髪が肩に落ち、ランプの光を受けて鈍く輝いた。
「そうねぇ、確かにそれは、調べてみる必要があるわね」
彼女は低く呟き、緑色の瞳を細めて考え込んだ。
彼女の指が、羊皮紙の端を無意識に撫でる。
アリエラは一瞬視線を上げ、ルビアの獣耳を見つめると、ゆっくりと頷く。
「それに、彼女に関して、気になる部分があるの」
「気になる部分?」
ルビアは、獣耳をピンと立てて尋ねた。
彼女の瞳には、いつもの明るさに加え、アリエラの言葉を逃すまいとする好奇心が踊っている。
「彼女、魔力が全くと言っていいほど体に宿っていなかった。」
「魔力が枯渇してたってこと?」
ルビアはテーブルの端に腰掛けたまま、眉を上げて尋ねた。
アリエラはそれに、首を横に振り答える。
「というよりは、そもそもの彼女の
ルビアは片耳をぴくりと揺らし、しばし瞬きをした。
まるで言葉の意味が霧の奥に消えていくのを、目で追いかけようとするかのように。
理解する気はある、しかし理解に至っていない、そんな表情だ。
彼女は眉を寄せて口を開きかけ、それから首を傾げた。
「私にもわかるように言ってくれる?」
ルビアの声は、夜気に滲む油ランプの光のように、どこか頼りなげだった。
アリエラは微笑を浮かべると、羊皮紙の束をそっと脇に置き、一呼吸置いてから静かに語りはじめた。
「人には、魔力を蓄える器官があるの。その器官は成長すると共に魔力を貯蔵するための容量も増えて、たくさん魔力を貯めておくことができるの」
ルビアはじっと耳を傾け、小難しい言葉を飲み込もうとするように、ゆっくりと瞬きをした。
油ランプの明かりが、彼女の金色の瞳に小さな火を宿して揺れている。
「魔力は、魔法を使う時はもちろん。限界を超えた体力の消耗の際に消費されて体への負担を軽減したり、傷の自然治癒や、脂肪の代わりに消費されたり、体温維持や免疫機能を担うこともある。重要な生命線。」
アリエラの声は淡々としていたが、その一言一言には、慎重に針を刺すような重みがあった。
ルビアは身じろぎもせず、理解しているのかは怪しいが、ただ静かに頷いている。
「もちろん、例外はあるけれど、燐髄が正常に発達しなかった多くの場合、年齢が2桁を迎える前に衰弱死してしまったり、虚弱体質になってしまったりと、何かしらの疾患を患う事になるわ。」
アリエラはそこで言葉を切り、ランプの炎の向こうを見つめる。
部屋を満たす蒸気機関の低いうなり声が、ふと、より深く、重たく響いた。
「彼女の話、聞いたでしょう?たしかに弱っているけれど、でも、あの建造物から半日で歩いてくるほどの体力はあった訳でしょう?」
ルビアはその言葉に小さく頷いたが、いまいち話を掴めていない表情を隠せなかった。
甲板を渡る風が窓枠をかすかに叩き、油ランプの火がふっと揺らぐ。二人の影が壁に伸び、重なった。
「彼女の燐髄の状態は、言わば産まれたての赤子のようなもの。生きていることが奇跡と言っても過言じゃないわ」
アリエラの声は静かだったが、その瞳には拭いきれない困惑と戸惑いの色が濃く滲んでいる。
静かな室内に、蒸気機関の低い脈動音だけがじわじわと響き、アリエラの胸の内に広がる混乱をいやでも際立たせていた。
「さらに奇妙なのは、燐髄の周辺組織に微細な欠損が見られること。まるで過去に何らかの外傷や干渉を受けたかのような痕跡よ。ただ、これが先天的な異常なのか、後天的な影響なのかは、現在の検査だけでは判断できない。もし後天的なら、彼女の記憶喪失や遺構での目覚めとも関連があるかもしれないわ。」
アリエラは言葉を区切り、ちらりと窓の外に目を向けた。
そこには、遠く黒い夜気に沈みながらも、なお荘厳な存在感を放つ遺構の影があった。
崩れた塔のような外壁、ひび割れた石材、それらは月明かりの中、まるで巨人の影のように立ち尽くしていた。
「白髪ちゃんが怪しいってこと?」
ルビアは耳をぴくりと動かしながら尋ねたが、その声には微かな戸惑いが滲んでいた。
膝の上で指を絡め、テーブルの上に投げ出した尻尾をそわそわと揺らしている。
「彼女が怪しい……ね。わたしは、それより、彼女が何かの被害者なんじゃないかと疑っているわ」
アリエラはそう言って、ランプの光に照らされた指先を組んだ。
その瞳はわずかに伏せられ、ルビアの反応を待っている。
「それって……」
ルビアは言いかけて、すぐに口を噤んだ。
瞳を伏せ、耳をわずかに後ろに倒す。
気まずさと恐れが交じった感情が、夜の空気に溶けていった。
「そう。私と同じように、何かの実験の被験者として扱われていたり、何かの儀式に利用されたりしていたのかもしれない。」
アリエラはゆっくりと頷いた。
その仕草は、ルビアが言おうとした言葉をすでに理解していることを示している。
「もし、彼女が実はその状況から逃げ出して、何かしらの理由で記憶を失っていたとしたら。彼女を連れ戻すために探している人達が、ろくな人間じゃなかったとしたら……」
アリエラは静かに目を閉じた。
まるで胸の奥に巣食う痛みを押し隠すように、彼女はしばし口を閉ざす。
そして、ルビアを見つめた後、静かに呟いた。
「分からないけれどね。私はそれが怖いの」
アリエラは小さく息を吐き、夜の静寂にその言葉を沈めた。
油ランプの火がまた一度、小さく揺れた。