『忘れないで』
暗闇。
一切の光も差さない暗がり。
『私はここに戻ってきたから。』
優しい声が響く。
それは温かく、よく知っているはずの声。
『いつか、あなたに届くと信じて。』
声は弱々しく消えていく。
『きっと、あなたの始まりに。役に立つから。』
彼女は温もりに手を伸ばした。
「あなたは……」
◇◆◇◆◇
目が覚めた時、酷く汗をかいていた。
部屋に用意されていた綺麗な寝巻きが、汗でじっとりと肌にまとわりつき、彼女の白い髪の先も濡れて額に張り付いていた。
麻布の簡素な寝間着は湿って重くなり、胸元や背中に不快な冷たさを残していた。
船の狭い客室は、蒸気機関の低いうなり声とわずかな揺れに満ち、油ランプの薄暗い光が壁の錆びたパイプをぼんやりと照らしていた。
少女はベッドのマットレスに身を起こし、息を整えようと試みたが、動悸が収まらず、汗が首筋を伝って滴った。
彼女の鈍色の瞳は、記憶の空白と何か得体の知れない不安に揺れ、まるで夢の中で見た何かから逃れるように、ぎゅっと膝を抱えた。
「わかんない。わかんないよ……思い出せない……」
少女の鈍色の瞳から、抑えきれずに涙が溢れ出した。
最初は静かに、頬を伝う一筋の滴だったが、次第に震える唇を濡らし、止めどなく流れ落ちた。彼女は両手で顔を覆い、指の隙間から零れる涙が汗で湿った麻布の袖をさらに重くした。
肩が小さく震え、嗚咽が喉から漏れるたび、胸の奥から湧き上がる得体の知れない悲しみが彼女を締め付けた。
少女は膝を抱えたまましばらく泣き続け、涙がようやく途切れると、ゆっくりと顔を上げた。
汗と涙で濡れた麻布の寝間着が肌にまとわりつき、彼女は小さく息を吐いて立ち上がった。
ベッドの脇に置かれた、ルビアから渡された綺麗な洋服に目をやる。
それは薄い青の麻織りのチュニックと、裾に刺繍の施された簡素なズボンで、船員の粗野な装いとは異なる柔らかな手触りだった。
少女は寝間着を脱ぎ、慎重に新しい服に袖を通した。
チュニックの布が汗で冷えた肌を優しく包み、刺繍の細かな糸が指先に触れ、彼女に一瞬の安堵を与える。
ズボンを履き、腰の紐を結ぶと、服の軽さが身体を少しだけ軽く感じさせた。白い髪を指で梳き、彼女は乱れた髪を整え、深呼吸して客室の扉に手をかけた。
扉を開けると、飛空船の仄暗く狭い廊下が静かに広がっていた。
油ランプの薄暗い光が壁の錆びたパイプを照らし、人の声がしない船内に蒸気機関の低いうなり声が遠くから響いてくる。
廊下は昼間の喧騒とは異なり、夜の静けさに包まれ、木板の床が少女の素足に冷たく触れた。
彼女はそっと扉を閉め、慎重に歩を進めた。
通路の曲がり角で、革の作業着を着た船員とすれ違った。
船員は工具を手に持ち、軽く会釈すると、少女も小さく頭を下げて通り過ぎた。
さらに進むと、別の船員が現れ、彼女と目が合うと無言で頷き合い、足音だけが一瞬重なって遠ざかった。
船の揺れが少女の足元を微かに揺らし、彼女は壁のパイプに手を添えてバランスを取りながら、甲板へと続く階段を目指した。
階段を登り、甲板の重い鉄扉を押し開けると、冷たい夜風が少女の頬を撫でた。
「……寒い」
飛空船は灰色の雲の合間を漂い、甲板の煤けた帆が風に軽くはためく。
少女は手すりに近づき、地上の夜の景色を見下ろした。
禁足地の大地は、昼の荒涼とした不気味さを残しながら、月光に浴して幻想的な輝きを放っていた。
ひび割れた大地は銀色の光に濡れ、まるで凍てついた湖の表面のように広がっている。
遠くの崩れた遺構は、尖塔の欠けた影が闇に溶け、かつての栄華を囁く亡者のように佇んでいる。
枯れた枝が風に揺れ、砂塵が月光を反射して淡い霧のように舞い上がった。
昼間の乾いた無機質さは、夜の静寂の中でどこか哀愁を帯び、不穏さを漂わせていた。
少女の白い髪が夜風に揺れ、彼女の鈍色の瞳は、地上の美しさと荒廃が交錯する光景に吸い寄せられた。
胸の奥で、記憶の空白と響き合う何かを感じながら、彼女はただ静かにその景色を見つめ続けた。
「白髪ちゃん、眠れなかった?」
甲板の静寂を縫うように、ルビアの穏やかな声が夜風に乗って響いた。
彼女は軽快な足取りで少女の背後に現れ、獣耳をぴくぴくと動かしながら手すりに寄りかかる。
夜の飛空船は、昼の喧騒が嘘のように静まり、煤けた帆が風にそよぐ音と、遠くで蒸気弁がシュッと漏らす音だけが、闇に溶けていた。
ルビアの笑顔は、冷たい夜風に温かな灯りをともすようだった。
「あっ、ルビアさん……ごめんなさい、さっき、起きちゃって」
「なんで私謝られたの?」
ルビアは首を傾げ、不思議そうに目を丸くした。彼女の獣耳が一瞬止まり、少女の言葉を待つようにじっと少女を見つめた。
「えっと、勝手に部屋から、出ちゃって」
「あー、気にしないで。別に拘束してる訳じゃないんだから。まあでも、ややこしい機械類には触らないようにね。私もよく言われる」
ルビアは納得したようにニッと笑った。
彼女は手すりに肘をつき、軽く身を乗り出して夜空を見上げた。
二人は言葉を切り、静かに並んで夜の景色を眺めた。
禁足地の大地は、月光に照らされて静謐な輝きを放ち、ひび割れた土が銀の鱗のようにきらめいた。
遠くの遺構は、闇に沈む巨石のように佇み、風に揺れる枯れ枝がささやくような音を立てていた。
「何を見てたの?」
ルビアが景色を眺めながら問いかけ、獣耳を少女の方に軽く傾ける。
彼女の声は夜の静けさに溶け込むように柔らかく、しかし好奇心が表情に現れていた。
「えっと、ぼんやり、景色を眺めていただけです」
少女は遠慮がちに答えた。
彼女の鈍色の瞳は地上の銀色の光に引き寄せられ、言葉よりも深い思いがそこに宿っているようだった。
「いいね、私も夜の景色とか好きだよ、おちつくよねぇ」
ルビアは満足げに頷き、手すりに頬杖をついた。
禁足地の夜は、昼の無骨な荒涼さを脱ぎ捨て、まるで時間が止まったような静けさに満ちている。
月光が大地の裂け目を柔らかく撫で、遺構の崩れた尖塔が闇に浮かぶ幻のよう。
風が砂塵を巻き上げ、淡い光の粒が夜空に舞い、まるで星屑が地上に降り注ぐようだった。
遠くの地平線では、雲の切れ間から零れる月光が、枯れた木々の影を長く伸ばし、哀愁と神秘が交錯する光景を作り出している。
ふと少女の視線が遠くに留まった。
遺構の暗がり、崩れた石壁の隙間で、とても小さな明かりが瞬いた。
まるで誰かが持つ灯火のように、弱々しく、しかし確かに輝いていた。
「ルビアさん……あそこ、何か……」
「んー?ん?あれ、ほんとだ。」
ルビアの獣耳がピンと立ち、彼女の笑顔が一瞬引き締まった。
彼女は手すりに身を乗り出し、遠くの明かりを凝視する。
夜の緩やかな空気が、かすかな緊張の糸で張りつめ、帆の擦れる音が一層鮮明に聞こえた気がした。
「何か、光ってる?」
ルビアは目を細め、片手を額に当てて遠くを見ようとした。
彼女の声は軽さを保ちつつも、どこか真剣な響きを帯びている。
「あそこ、私が起きた場所……」
少女の視線は再び明かりに吸い寄せられた。
彼女の鈍色の瞳は、月光に照らされた遺構の影を写して離れない。
「え、じゃあもしかして、白髪ちゃんを探してる人の灯りだったり?」
ルビアの声が弾み、彼女は少女に顔を近づけてニッと笑った。しかし、彼女の瞳には、ほんの少しの慎重さが宿っていた。少女は言葉を返さず、ただ遠くの明かりを見つめ続けた。光は弱々しく瞬き、まるで彼女に何かを囁くように揺らめいていた。
「ちょっとまってて!望遠鏡持ってくるから!」
ルビアは突然身を翻し、獣耳を揺らしながら甲板の階段へと駆け出した。
彼女の革ブーツが木板を軽く叩き、鈴のチリンという音が夜風に残った。
少女は一人手すりにもたれ、ぼんやりと明かりを眺めた。
遺構の暗がりで瞬く光は、まるで遠い記憶の断片のように儚く、しかし確かにそこに存在していた。
月光が大地の裂け目を照らし、砂塵が光を乱反射して淡い霞を作り出す。枯れた枝の影が揺れ、遺構の石壁が夜の静寂に沈黙を守っている。
少女の胸の奥で、名もなき感情が渦巻き、その景色をただひたすらに見つめていた。
「ただいま!えっとねー、うーんと」
ルビアの声が再び甲板に響き、少女はハッとして振り返った。
ルビアは片手に小さな単眼鏡を持ち、息を弾ませながら駆け戻ってきた。
彼女の獣耳が興奮でぴくぴくと動き、革マントが夜風に軽くはためいている。
「……あ、消えちゃった」
ルビアの声が小さく途切れ、彼女は単眼鏡を下ろして眉を寄せた。
遺構の暗がりは再び完全な闇に沈み、さっきまで瞬いていた明かりは跡形もなく消えていた。
月光が大地を照らすだけでは、闇の深さが一層際立ち、まるで何かが息を潜めるように静寂が重なった。
少女の瞳がわずかに揺れ、その暗闇を見つめる。
「ありゃ、これは、アリエラちゃんに報告しないとかな」
ルビアは顎に手を当て、考え込むように首を傾げた。
彼女の焦げ茶色の髪の上で獣耳がゆっくりと動き、夜の静けさの中で何かを探るように揺れている。
「起きてるか見てくるね!戻るか分からないから、白髪ちゃんはほどほどに寝るんだよ!」
ルビアは急に明るさを取り戻し、少女にウィンクして手を振った。
彼女は踵を返すと階段へと駆け下りていき、彼女の姿は暗がりに消える。
「うん」
少女はそのルビアの背中に軽く手を振った。
彼女の白い髪が風に揺れ、鈍色の瞳には、遠くの闇と小さな安堵が混ざっていた。
少女は再び手すりにもたれ、夜の景色を見つめた。
禁足地の大地は、月光の薄い光に覆われ、果てしない静寂の中に沈んでいる。
遺構の崩れた石壁は、闇の底で沈黙を守り、尖塔の欠けた影が、先程の明かりをほんの一瞬の夢だったかのように思わせる。
彼女の瞳は、闇の奥に沈んだ明かりの記憶を追い、胸の奥で響く夢の断片に耳を澄ませた。
飛空船の帆が風に擦れる音が、少女には、まるでこの果てしない夜の歌を奏でているかのように感じられた。
「……」