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第3話 『空谷の民』

 少女はバルデの背後に座り、恐る恐る彼の革コートの裾を握りしめた。翼竜の硬い鱗の感触が腰に伝わり、力強い羽ばたきが身体を揺らすたび、彼女の白い髪が乾いた風に乱れた。


 眼下には荒涼とした大地が遠ざかり、灰色の空に浮かぶ飛空船が徐々に近づいてくる。

 船体は古木と黒鉄で補強され、煤けた帆が風を受け、甲板の錆びたパイプから白い蒸気が断続的に噴き出していた。バルデは手綱を握り、鋭い視線で飛空船の甲板を見据えた。


「船に降りる、着地の際に揺れるからしっかり捕まっていなさい」


 バルデの落ち着いた声が、風を切る翼竜の羽ばたきの音に混じって少女の耳に届いた。

 翼竜は首を振って低く唸り、船の着陸スペースへと高度を下げ始めた。少女は思わず目を閉じ、揺れに耐えるようにバルデの背にしがみついた。


 風が一層強く頬を叩き、翼竜の羽が空気を切り裂く音が耳に響く。飛空船の甲板では、船員たちが慌ただしく動き回っている。

 木と鉄でできた頑丈な着陸スペースの周囲には、太いロープと滑車が張り巡らされ、船員たちがそのロープを握って翼竜の降下を先導する準備を整えていた。


「よし、降りるぞ」


 バルデが短く叫ぶと、翼竜は大きな翼を広げ、甲板に向かって降下した。少女は小さく悲鳴を上げ、バルデの背に顔を埋める。


 翼竜の爪が甲板の木板にガリッと当たり、硬い鱗が擦れる音と共に一瞬の浮遊感が少女を包む。

 翼竜が完全に着地すると、バルデは手綱を緩め、素早く背から飛び降りた。

 彼は少女の方を振り返り、落ち着いた声で言った。


「降りる時は気をつけて、慌てないように」


「う、うん」


 少女は震える手で翼竜の鞍を掴み、ぎこちなく甲板に足をつけた。

 初めて踏む船の木板は、わずかに軋む音を立て、彼女の足元を不安定に感じさせた。バルデが片手で彼女の腕を支え、しっかりと立つまで見守った。

 船員がバルデから翼竜の手綱を引き継ぎ、竜舎へと連れ帰る。


 船内では、甲板の喧騒とは対照的に、船員たちの活気ある声が響き合っていた。


 甲板から続く階段を降りると、船の内部は雑多な荷物と機械がひしめく空間だった。木箱や麻袋が積み上げられ、壁には錆びたパイプと歯車が露出している。船の奥から聞こえる機械の低いうなり声が、船全体を微かに震わせていた。


 そこに獣人の少女、ルビアが軽快な足取りで甲板に駆け寄り、獣耳をぴくぴく動かしながら少女に笑いかけた。


「ルビア、部屋の手配は」


「あー、えっと、部屋は用意してあるけど、アリエラが、先に色々聴取したいって」


「……厄介だな。できれば、先に休ませてやりたいものだが」


 そこに船員の女性がゆったりと二人に近づいてきた。彼女の歩みはとても緩やかで、革のブーツが甲板の木板を軽く叩く音が響いた。

 肩にかかる赤銅色の髪は、船内の薄暗い光を受けて鈍く輝き、腰に下げた革ベルトには小さな瓶が無造作に吊るされている。


 彼女の優しい緑色の瞳は、少女を一瞥した後、バルデとルビアに向けられた。

 口元には軽い笑みが浮かんでいたが、その奥には何か企むような、好奇心に満ちた光が垣間見えた。


「なぁにが、厄介だって?」


 彼女の声は低く、どこか挑発的な響きを帯びていた。

 女性はアリエラと呼ばれたその船員で、片手を腰に当て、首を軽く傾けながらバルデを見据えた。


「ほら、あとは私が引き継ぐから、あなたは船長と話でもしてきなさい」


 アリエラの言葉は軽やかだったが、その口調には有無を言わさぬ力強さが滲んでいた。彼女は片手を振ってバルデを促し、少女の方に一瞬視線を投げる。

 少女はまだ甲板の喧騒に慣れず、両手を胸の前で重ねながら、目の前の赤銅色の髪の女性を見つめていた。

 船内の蒸気弁から漏れるシュッという音が、彼女の耳に小さく響き、甲板の木板が船の揺れに合わせて微かに軋む。


「……そうだな、あとは任せる」とバルデが低く答えると、少女に穏やかな視線を向けた後、結局何も言わず、甲板の階段を登って船の奥へと向かった。

 革ブーツが木板を叩く音が、船員たちの活気ある声や機械のうなり声に混じって遠ざかる。


「はいはい。そういう訳だから、お嬢さん。私についてきて」


 アリエラは軽く首を振って笑みを浮かべ、少女に手招きした。


「は、はい」


 少女は小さく答えると、緊張した面持ちでアリエラの後ろに続いた。彼女の白い髪が、船内の薄暗い光に揺れ、鈍色の瞳は周囲の未知の光景に忙しく動く。


「わっ」と少女が小さく声を上げ、前のめりに倒れそうになった瞬間、アリエラが素早く振り返って彼女の腕を掴んだ。


「おっと、足元に気をつけて。」


 少女は顔を赤らめ、「ご、ごめんなさい」と呟きながら立ち直った。通路の床には、船の揺れでずれた荷物の紐や小さな工具が散らばっており、彼女の不慣れな足取りをさらに不安定にしていた。


 アリエラは少女を促して再び歩き出し、狭い通路に入り、そこを進んだ。少女は慎重に足を踏み出し、アリエラの背中に視線を固定しながらついていった。

 通路の途中、作業中の船員とすれ違うたびに、アリエラは軽く会釈を返したりしていた。


 少女はそんなやり取りを横目に見ながら、船員たちの活気と仲間意識に圧倒されつつ、どこか安心感を覚えていた。

 通路の突き当たりに、重い木製の扉が現れた。扉には錆びた鉄の取っ手が嵌め込まれ、表面には無数の傷や煤の跡が刻まれていた。


 アリエラが扉を押し開けると、少女を振り返って「どうぞ」と柔らかく言った。少女は一瞬躊躇したが、深呼吸して扉をくぐった。


「えっと、私何を話せば……」


「まあ落ち着いて、あなたが休めるように部屋は用意してあるし、すぐに追い出すなんてこともないよ。ただ先に、色々知っておかないといけないんだ。君をおうちに届ける為にもね」


 アリエラは少女の緊張に気づき、彼女はゆったりとした口調で言った。

 片手をテーブルの端に置き、少女に安心感を与えるように視線を合わせた。


「さあ、座って」

「はい……」


 アリエラがテーブルの向かいにある木製の椅子を指すと、少女はぎこちなく椅子に腰を下ろした。

 椅子の硬い感触が彼女の背を緊張させ、両手を膝の上で重ねて落ち着こうと試みた。


 議事室は狭く、重厚な雰囲気に満ちていた。中央の木製テーブルには地図や書類の擦り傷が刻まれ、隅にはインク瓶と羽ペンが無造作に置かれている。


 壁の棚には羊皮紙や古い地図が雑然と積まれ、埃っぽい空気が漂っていた。油ランプの揺れる光が、部屋の隅に長い影を投げかける。

 少女は部屋の閉鎖的な雰囲気に圧され、肩を少し縮こまらせた。

「改めまして。私はアリエラ、この船で情報士の役割を担っている……まあ、色んな情報をまとめて整理したりするお仕事をしている人だよ。あなたは、名前も、思い出せないのかな?」


 アリエラは自己紹介しながら軽く肩をすくめた。

 彼女は椅子の背もたれにゆったりと寄りかかり、少女に親しみやすい笑みを向けた。

 尋ねる彼女の声は穏やかだったが、緑色の瞳には鋭い観察力が宿っていた。


「……ごめんなさい。本当に、何も覚えてなくて」


 彼女は消え入りそうな声で答えた。

 鈍色の瞳には深い悲しみが滲み、まるで自分の存在が空白であることを痛感しているようだった。


「そっか、なにか覚えてることはある?どんな些細なことでもいいの、細かい記憶じゃなくても、なにかぼんやりとした感覚とかでも」


 アリエラは優しく問いかけた。彼女は身を少し前に傾け、少女にプレッシャーを与えないよう声のトーンを柔らかく保った。


 部屋の油ランプの光が二人の顔を照らし、テーブルの傷だらけの表面に揺れる影を落とした。

 部屋の隅では、棚の古い地図が船の振動でわずかに揺れる。


「……えっと」


 少女が口を開きかけたが、言葉は続かず、部屋に一瞬の静寂が訪れた。

 油ランプの炎が小さく揺れ、壁のパイプから漏れる蒸気の音だけが低く響いた。


 アリエラの緑色の瞳は少女をじっと見つめ、彼女の戸惑いをそっと待つように動かなかった。少女の白い髪が額に落ち、彼女の指が膝の上で震えるのが、静寂の中でひときわ目立った。


「……何も思いつかない?」

「……はい」


 彼女の声はほとんど囁きに近く、部屋の壁に吸い込まれるように消えた。

 アリエラは一瞬目を閉じ、ゆっくりと頷いた。彼女の赤銅色の髪がランプの光に揺れ、思案するような表情が顔を過ったが、すぐに穏やかな笑みに戻った。


「そっか、ならあなたが目を覚ました時のことを教えて。周りには何があったとか、何かを持っていたりしなかった?」


 アリエラは新たな質問を投げかけた。彼女は羊皮紙を手に取り、羽ペンをインクに浸す準備をしながら、少女に視線を合わせる。


「目を、覚ました時は、私、何も持ってなくて、服とかも、着てなくて」と、少女は少しずつ言葉を紡ぎ始めた。


「ただ、崩れた建物から、空が見えてて……それで、そこから、なんとなく歩いて……」


 彼女の声は途切れがちだったが、アリエラは辛抱強く聞き、羊皮紙に短いメモを走らせた。


「崩れた建物っていうのは、あの、1番大きな城の廃墟であってる?」


 アリエラの確認に、少女は小さく頷いた。「はい、そうです、その地下に……」と、彼女は遠くを見るような目で答えた。


「地下があったの?」


 アリエラの緑色の瞳が一瞬鋭く光ったが、すぐにその興味を隠すように視線を羊皮紙に落とした 。


「は、はい、そうです。地下で目が覚めて」


 彼女は平静を装いながら尋ねた。彼女の指が羽ペンを軽く握り、メモを取る手が一瞬止まるのが、彼女の好奇心をわずかに示していた。


「地下で目が覚めたのに、空が見えたの?」

「天井が崩れて、穴が空いていて……」


 彼女は記憶をたどるようにゆっくり答えた。彼女の指が膝の上で落ち着かなく動き、廃墟での孤独な目覚めを思い出しているようだった。

 アリエラは羊皮紙に短い記述を加え、少女の言葉を丁寧に記録した。


「なるほど、体調に異変はない?どこか痛むとか、気分が悪いとかはないかな?」


アリエラは少女の健康を気遣うように尋ねた。彼女の声は優しく、情報士としての冷静さと、少女への配慮が混在していた。


「少し、疲れていますが、たぶん、たくさん歩いたからです。」


「そっか。そうだね、一旦ここまでにしようか。さっきの女の子いたでしょう?あの、猫耳の子。あの子が部屋に案内してくれるから。その子について行ってね」


 アリエラは羊皮紙をまとめ、羽ペンをインク瓶に戻した。

 少女は緊張が少し解けたのか、肩の力がわずかに抜けた。議事室の油ランプの光が彼女の白い髪を柔らかく照らし、部屋の重厚な雰囲気が一瞬和らいだ。


「はい、わかりました」


 アリエラは椅子の背もたれに寄りかかり、彼女の緑色の瞳が少女をじっと見つめた。


「あ、そうだ。君からも何か聞きたいことは無い?あるなら、できる限り答えるよ」


 少女は一瞬戸惑い、膝の上で手を重ねながら考え込んだ。


「えっと、じゃあ……ここは、どこなんですか?」


 彼女は遠慮がちに尋ねた。その表情には、この未知の世界への不安と、わずかな好奇心が混ざっている。


「ここは議事室だよ。まあ、最近は私の休憩部屋かな。」


 アリエラは笑いながら答えた。彼女はテーブルの上の書類を軽く叩き、部屋の雑然とした雰囲気を愛おしむように見回した。


「あ、そうじゃなくて……」


「ああ、そうだね。ここは空谷の民が拠点とする飛空船。空谷の民っていうのは私たちのキャラバンの、通り名、かな?正式な名前は特になかったはず……」


 彼女は少し考え込むように首を傾けた。

 議事室の窓から見える灰色の空に、飛空船の煤けた帆が風に揺れる影が映った。

 船内の機械のうなり声が低く響き、甲板の喧騒が遠くから漏れ聞こえた。


「まあ、各地をめぐって、調査とかその土地や文化ついて記録したりとか、そういう事をしてる」


 彼女の声には、キャラバンの誇りと、旅のロマンが滲んでいた。


「あの、ごめんなさい。ここの、なんていうか、土地について、この、下の」


 少女は言葉を探しながら尋ねた。彼女の白い髪が額に落ち、鈍色の瞳は議事室の小さな窓に向けられた。


 窓の外には、荒涼とした大地が果てしなく広がり、遠くに崩れた遺構の影が見えた。アリエラは少女の言葉に一瞬目を丸くし、笑いながら手を叩いた。


「あ、ああ!ごめんごめん!そういう事ね。ここは禁足地って言って、あまり人が近づかない場所だよ。別に足を踏み入れてはいけない。みたいなルールはないんだけどね」


 彼女は椅子の背もたれに手をかけ、窓の外を一瞥した。

 地上の荒野は、ひび割れた土と枯れた枝が点在し、風に舞う砂塵が灰色の空に溶けている。

 遠くの遺構は、かつての栄華を物語る石造りの残骸が、沈黙の中で風に削られていた。


「昔は栄えた文明があったとされるけど、今は見る影もない。古代の技術が見つかったりしてるけど、変な生き物が多くて足を踏み入れるのはリスクの方が大きいって言われてるね」


「……変な生き物」と少女が呟くと、アリエラは軽く手を振って答えた。


「そう、まあ、見たことは無いけどね。だってここ、次の目的地に行くために偶然通り掛かっただけだもの」


 アリエラは椅子から立ち上がり、羊皮紙をまとめた。彼女は少女に穏やかな笑みを向け、議事室の重い扉へ歩く。


「さあ、また呼び出すこともあるかもしれないけど、今は休んできなさい。」


 部屋から出ると、ルビアが扉のすぐ横で壁に背を預け、片足を軽く曲げて立っていた。

 彼女の獣耳がぴくりと動き、甲板の喧騒に反応するように揺れる。

 ふたりが出てきたのを見ると、ルビアはパッと顔を上げ、元気よく手を振った。


「お、やっほ!アリエラちゃん、白髪ちゃん、遅いよォー。待ちくたびれちゃっーた」


 彼女はわざと大げさに肩を落として見せたが、すぐにニッと笑って少女に近づいた。


「あとは、ルビア。よろしくね」


 アリエラはルビアに軽く手を振って任せた。彼女は議事室の扉を閉め、羊皮紙を手に持ちながらその場を去った。


「あいあいさー!白髪ちゃん、こっちこっち」

「う、うん」


 少女はルビアの軽快な足取りに合わせて歩いた。

 彼女の明るい声が、船内の狭い通路に響いていた。

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