管方は古びた石段に腰かけ、肩で大きく息を整えていた。
夜の涼しさが汗ばんだ身体を冷やし、パーカーの袖で額の汗を拭う。石段のすぐ近くを流れる川のせせらぎが静かに響き、月光が水面に反射して控えめに輝いている。
川岸の草が風にそよぎ、遠くでカエルの合唱が夜の静寂に溶け込んでいた。
街灯の淡い白色の光が石段の端をかろうじて照らし、暗闇が周囲を濃く包み込む。
「また会うとはね。まさか君も怪異ハンターなのかい?」
「……もしそうなら、昼のことも自分で解決してますよ」
その石段の上で、猫飼零が優雅に立っていた。
彼女の白銀の髪が街灯に照らされ、淡く輝き、琥珀色の瞳がサングラス越しに管方を静かに見下ろしている。
墨色のドレスが夜の闇に溶け込むように揺れ、ドレスの襟に施された金色の草花模様がほのかに光を反射していた。
夜の田舎町の静けさの中で、彼女の存在だけが異質な美しさを放っている。
猫飼の唇には涼しげな微笑が浮かび、どこか楽しげな視線が管方を捉えていた。川のせせらぎと虫の音が二人の間を流れ、夜の時間がゆっくりと過ぎていく。
「後ろから追いかけてきたのって、やっぱり……」
「怪異だね。」
猫飼が管方の言葉を奪うように、さらりと言い切った。彼女の声は軽やかだが、どこか確信に満ちた響きを持ち、夜の静寂に溶け込むように響く。
管方はその言葉に一瞬言葉を失い、疲れた顔に緊張がよぎった。
「猫飼さんが、追っ払ってくれたんですか……?」
川のせせらぎが彼の耳に届き、街灯が石段の端をほのかに照らしている。
「そうとも言えるし、そうとも言いきれない。」
「どっちなんですか」
管方は眉を寄せ、疲れた声で問い返した。
夜の涼しさが彼の火照った頬を冷やし、川の水面が月光に輝く中、猫飼の曖昧な答えに安堵と不安が混じる。
「ご存知の通り、私は怪異にとって猛毒な存在なんだ。そして、そんな怪異にとって危険な存在があろう事か怪異ハンターなんてものをしている。」
猫飼はしゃがみ込み、膝を曲げて楽な体勢を取った。
彼女の膝の上に顎を乗せるようにして、まるでリラックスする猫のような仕草で管方を見下げる。
墨色のドレスの裾が石段に軽く触れ、彼女の華奢な身体が夜の闇に溶け込むようだった。
「私の悪名は怪異の中によく広がっていてね。大抵の怪異は私の気配を感じると逃げてしまうんだ」
管方は振り返り、階段上の猫飼を見た。
彼女の膝に顎を乗せた姿は、どこか無防備で、怪異ハンターとは思えないほどリラックスしている。
月光が彼女の白銀の髪を淡く照らし、川のせせらぎが静かに響く中、管方の疲れた顔に徐々に余裕が戻ってきていた。
「それって、怪異ハンター的には、いいんですか?」
「いや、ダメだね。非常に不便だ。おかげで怪異探しに苦労していてね」
猫飼は膝に顎を乗せたまま、振り返った管方と視線を合わせた。
サングラス越しの琥珀色の瞳がキラリと輝き、涼しげな微笑が唇に浮かんでいる。
「えぇ……」
困惑する管方をよそに、猫飼はゆっくりと立ち上がった。
「さて、君を家に送ろうか。」
夜の田舎町は静まり返り、街灯の淡い白色の光がアスファルトの道を控えめに照らしていた。
遠くの住宅街からは明かりがポツポツと漏れ、川岸の草が風にそよぐ音が聞こえる。
月が空高く昇り、川の水面にその姿を映し、夜の時間がゆっくりと流れていた。
「あの怪異はどうするんですか?」
「探して、どうにかするさ。それとも、また協力でもしてくれるのかな」
猫飼は軽やかに首を傾け、管方を振り返った。
サングラス越しの琥珀色の瞳が管方を写し、彼女の声には試すような響きが込められていた。
その言葉には、管方に対する期待がほのかに感じられた。
「……よければ、手伝いますよ。大変なんでしょう?その、怪異を探すの」
管方は石段から立ち上がり、アイスの袋を手に持ったまま、疲れた顔に決意の色を浮かべた。
パーカーの裾を軽く整え、夜の涼しさに肩をすくめる。昼間の恐怖はまだ心に残るが、猫飼の存在に安心感を覚え、どこか怖いもの見たさというものも混じっていた。
「ああ、だが、いいのかい?当たり前だが、危険だ」
猫飼は、管方をじっと見つめた。
「そこは……上手いこと助けてください」
管方は苦笑を浮かべるが、その疲れた顔に微かな覚悟が垣間見えた。
猫飼は一瞬呆気にとられたように目を丸くしたが、すぐに楽しげに笑い出した。
彼女の笑い声は鈴のように繊細で、夜の静寂に響き渡る。
「……やれやれ、世話が焼けるね。しかし、いいだろう。また手伝ってもらおうか。管方君。」
猫飼は微笑を浮かべ、首を振る。
彼女の声には怪しげな響きがあり、しかし管方への信頼と期待が感じられた。
「ひとまず、君が怪異に出会った場所へ向かおう。」
二人は夜の街を歩き始めた。管方が先に立ち、猫飼がその後ろを軽やかに歩く。
夜の住宅街は静まり返り、相変わらず街灯の淡い白色の光がアスファルトの道を照らしている。
細い路地が住宅街の間に伸び、路地の先には田んぼや畑が広がる。
昼のセミにとって変わるようにカエルがうるさく鳴き、同時に川岸の草が風にそよぐ音が聞こえる。
住宅街の明かりがポツポツと消え始め、細い路地や畑には暗闇が濃く広がる。
電柱の影がアスファルトに長く伸び、時折風が吹き抜けるたびに木々の葉がざわざわと音を立てる。
川が静かに流れ、銀色の帯のように街を横切り、管方と猫飼の小さな姿が夜の道を歩いていくのが見えた。
「あの、ここから降りて行った方が近いですよ」
管方は古びた石段を数歩降り始めたが、猫飼が降りてこないことに気づき、振り返った。
「ん、そうか」
猫飼は石段の上に立ち尽くし、動く気配がない。
彼女の顔には、どこか考え込むような表情が浮かんでいた。
「……どうかしました?」
管方は石段の数段下から猫飼を見上げ、眉を寄せた。
石段の周囲は濃い闇が広がり、遠くの田んぼから虫の声が聞こえている。
二人の姿が夜の風景に溶け込むように、静かな夜が続いている。
「
猫飼が静かに呟いた。
しかし、何も起こらない。
「ねこ?」
管方は不思議そうに首をかしげ、猫飼を見上げた。アイスの袋を持つ手が止まり、困惑の色が浮かぶ。
「あれ、おかしいな。猫。おーい、猫。」
猫飼が再び呟いたが、やはり何も起こらない。
住宅街は既に静寂に包まれ、夜の帳が深く降りている。
夜の田舎町はまるで時間が止まったかのように息を潜め、夜の静けさがまるで生き物のように辺りを包み込んでいた。
「えっと、猫飼さん……?」
管方は猫飼を見上げ、戸惑いの声を上げた。
夜の静寂にその声が小さく響き、まるで闇に吸い込まれるように消えていく。
「ダメだ。いや、すまないね。こうすると私の友人がいつも駆けつけてくるんだが……どうやら今は入浴中か、用を足しているか、もしくはそれ以上にプライベートな事をしているか、来ることが出来ないらしい。」
猫飼は小さく首を振って苦笑した。
サングラス越しの琥珀色の瞳が、少しだけ曇る。
彼女の石段の上に佇む姿が、どこか寂しげに見えた。
「……えっと?」
管方はその奇妙な行動の意図を確かめるように、ためらいがちに声をかけようとした。
首をかしげ、静かに猫飼の次の言葉を待った。
「すまないね。私は階段を下ることが出来ないんだ。これは、私の戒めだ。」
猫飼は、静かに言った。
彼女の声は落ち着いており、夜の闇に重く響く。
「え、普段どうやって過ごしてるんですかそれ」
「私の友人に運んでもらっている。」
一瞬の間が流れた。
管方の顔に驚きが広がる。
「今みたいに、来れない時は?」
「彼女が来るまで待つ。」
再び一瞬の間が流れた。
夜の田舎町の静けさが二人の間を包み、時間が止まったように感じられた
「不便ですね……」
「ああ、だがしかし、この戒めを破ることは出来ない。」
彼女の声には確固たる意志が込められており、揺らぐことのない決意を映していた。
「よかったら背負いましょうか?」
管方の提案に猫飼は少し考える素振りを見せ、すぐに彼女の唇に微かな微笑が浮かび、しばらく黙り込んだ後、ゆっくりと頷いた。
「ふむ、構わない、頼もう。」
管方は石段の数段下でしゃがみ込み、背中を猫飼に向けた。
猫飼はゆったりと近づき、華奢な腕を管方の肩に回した。
彼女のドレスが微かに擦れ、白銀の髪が管方の首筋に触れる。猫飼の軽い体重が背中に感じられ、彼女の不思議な香りがほのかに漂った。
管方はゆっくりと立ち上がり、猫飼を背負って石段を降り始めた。石段の古びた表面がサンダル越しに感じられ、川の水音が小さく響く中、慎重に一歩ずつ降りていく。
「君、やけに手馴れているね」
猫飼は管方の背中にしがみつきながら、囁くように言った。
猫飼の吐息が耳元にそっと当たり、囁くような声が夜の静寂に溶け込む。
彼女の華奢な腕が管方の肩にしっかりと回され、墨色のドレスの裾が彼の腰のあたりで軽く揺れている。
「妹がいるので……というかなんか嫌ですね、その言い方。」
石段を降りる管方の足音が小さく響き、彼女の身体が一歩ごとに軽く揺れる。
管方は猫飼を背負ったまま石段を降り終え、ゆっくりとしゃがみ込み、猫飼を下ろす。
管方は立ち上がり、パーカーの裾を整え、疲れた身体を軽く伸ばした。
「感謝する。」
「大丈夫ですよ、すごく軽かったので」
二人は再び夜の街を歩き始めた。
時間が経つにつれ、住宅街の明かりがさらに減り、夜が深まっていく。やがて街灯の淡いオレンジ色の光が、再びアスファルトの道を控えめに照らし始めた。
「管方君。無我夢中で走っている時、君は何を考えて走っていたかな」
猫飼は隣を歩きながら、何気なく問いかけてきた。
サングラス越しの琥珀色の瞳が、管方をちらりと見やる。彼女の声は静かだが、どこか含みを持たせた響きがあった。
「え?えっと、いや、夢中では知ってたので何も……というか無我夢中って字がそもそも、無我で夢中な訳ですし?」
管方は猫飼の問いかけに戸惑いながらも、特に深くは考えず言葉を続けた。
その答えに、猫飼は頷く。
「ああ、そうだね。人は必死に走っている時、他のことを考える余裕はない。それは逃げている側も追っている側も同じだ。」
管方は彼女の方をちらりと見たが、彼女は前を見据えたまま表情も変えずに話している。
管方には、彼女の声にどこか含みがあるように感じられた。
「怪異も、同じさ」
猫飼の言葉が夜の静寂に響き、管方の背筋に微かな寒気が走った。
その夜はさらに静まり返り、周りの住宅街の明かりはほとんど消えていた。
二人は歩き続け、さっきの場所へと戻ってきた。
電柱が月光に照らされ、さっきの怪異の気配を感じた場所が目の前に広がる。
「そうだ、ここら辺でさっき……」
管方が言いながら振り返ると、猫飼の姿が見当たらなかった。
彼女がいたはずの場所には誰もおらず、夜の闇だけが広がっている。
「あれ?猫飼さん?」
昼の暑さが残る空気に、生ぬるい風が吹き抜け、木々の葉擦れがざわざわと不気味に響いた。
住宅街の明かりも消え、さらに孤独感が強まる。
静寂の中で管方は、ひとり夜に取り残されていた。