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第3話 『異変を見つけたら引き返さない場合もある。』

「うわ、本当だ、小屋の中だ……どうなってんだコレ」


 管方が部屋から一歩外へ出ると、そこは先程まで彷徨っていた坂道の脇に立つ小さな小屋の前だった。

 扉を開けた途端に蝉の声がけたたましく響き合い、外からは真夏の猛暑が押し寄せる。

 目の前には見覚えのある錆びたガードレールと、陽炎が揺らめくアスファルトが広がっていた。


 扉を振り返ると、小屋の粗末なトタンの壁と錆びた蝶番が目に入り、その外装と内装のギャップはまるで別次元に繋がっているかのようだった。

 その不思議な感覚に、管方は深く息を吸った。


「気にするな、それに尽きる」


 猫飼も小屋の外へ足を踏み出しながら、軽やかな仕草で扉を閉めた。彼女の白銀の髪が夏の陽光に照らされ、墨色のドレスが暑さの中で不思議と涼しげに見えた。


 扉が閉まる音がカチリと響き、まるで現実と非現実の境界がそこで断ち切られたかのように感じられた。


 だが、管方はどうしても気になってしまい、小屋の扉を再び開けて中を覗き込んだ。すると、先程の書斎の面影はどこにもなく、薄暗い小屋の中にはゴミや古びた伐採道具が無造作に置かれ、埃が舞うばかりだった。


 管方は思わず首をかしげ、困惑の表情を浮かべたが、すぐに首を振り猫飼の後を追いかけた。


「さて、管方君。こういった類の怪異への対処法は知っているかな?」


 猫飼は坂道をゆっくりと歩きながら、振り返ることなく管方に問いかけた。彼女の声は軽やかで、どこか楽しげな響きを帯びていた。

 歩くたびに、彼女のドレスの裾がふわりと揺れる。


「えっと、異変があったら引き返す、とか?」


「ほう、君に怪異への知見があるとは意外だね」


 猫飼は立ち止まり、琥珀色の瞳をサングラス越しに管方へ向ける。

 その表情には感心したような驚きが浮かんでいて、彼女の唇が小さく弧を描き、どこか純粋な喜びが垣間見えた。


「あ、いや、ゲームの知識というか冗談というか、怪異とかまったく分かりません、すいません」


 管方は慌てて手を振って、即座に否定した。

 その様子を猫飼は、楽しげな微笑みで見つめる。


「ふふ、そうかい。いやはや、しかし、異変があったら引き返すというのは、怪異への対処法を持たない一般人が生き残ることを指標とした行動としては、最も適切なものだと言える」


 猫飼は小さく笑いながら、再び歩き出した。彼女の背中からは、どこか余裕が感じられた。

 二人は坂道を歩き続ける。蝉の声が辺りに響き、木の裏でジリジリとセミたちが鳴く。


「はあ、そうなんですか」


「なんだね、興味が無いかな?」


 猫飼は歩きながら首を軽く傾けて管方に目をやり、興味深そうな視線が彼を捉える。


「いや、そんなことは……ただまだ現実味がなくて」


 管方は誤魔化すように視線を逸らし、汗で湿ったアロハシャツの襟を軽く引っ張った。

 猛暑の中を歩き続けた疲労と、怪異という非現実的な体験が混ざり合い、どこか夢の中にいるような感覚が抜け切らない様子だ。


「まあいい、異変を見つけたら引き返す。これは良い選択だ。しかしそれは、怪異への対処法がない場合に限る。今ここにいるのは名高い怪異ハンターの私だ。故に、引き返す必要は無い」


「じゃあ、異変を見つけたら、猫飼さんがどうにかしてくれるってことですか?」


 猫飼は小さく頷いた。彼女の白銀の髪が風にそよぎ、静かな自信がその仕草から伝わってくる。


「ああ、その認識で間違いはない。異変とは、怪異が再現において自我を出してしまった、もしくは再現しきれなかった綻びだ。その綻びをつついてやれば、簡単に外に出られるわけさ」


 猫飼は数歩先に進み、くるりと振り返る。

 彼女の端麗な容姿に見合った可愛らしさがようやく垣間見え、サングラス越しに見えるその眼差しは、どこか子供のような無邪気さと、怪異ハンターとしての鋭さを併せ持っていた。


「そこで君の出番だ」


 彼女は管方をじっと見据えた。鋭い視線には、期待と試すような雰囲気が漂っている。


「僕の?」


 管方は不思議そうに首を傾げ、くせ毛の黒い髪を汗で濡らしたまま、猫飼の言葉を反芻するように問いかけた。

 暑さで赤くなった顔に、困惑の色が浮かんでいる。


「ああ、真夏にろくな水分も持たず、その軽装、ましてや徒歩。自宅が近いと伺える。この当たりの住人だろう?」


 猫飼は推理するように言葉を紡ぎながら、再びくるっと前を向いて歩き始めた。

 彼女のドレスの裾が軽やかに揺れ、白銀の髪が陽光に照らされて輝く。管方はその背中を追うように、少し早足で追いかけた。


「まあ、そうですね。あんまりこの格好で遠出はしたくないですね、年頃なので……なので今若干恥ずかしいですよ」


「はは、まあ涼しそうな格好だとは思うよ」


 管方は恥ずかしそうにアロハシャツの裾を引っ張りながら視線を落とした。

 サンダル履きの足元がアスファルトの熱でじりじりと焼ける感覚に、気まずさがさらに増す。


 一方、猫飼は全く気にしていない様子で、軽やかな足取りで歩き続ける。彼女の髪が風にそよぎ、暑さの中でも涼しげな雰囲気を漂わせていた。


「それで、僕は何をすれば?」


「簡単なことさ、異変を見つけてくれ。この道はよく通る道かい?」


 猫飼の問いかけに、管方は小さく頷いたが、自信なさげな表情が浮かんでいる。

 アロハシャツの袖で額の汗を拭いながら、辺りをぼんやりと見回した。


「ま、まあ、それなりには……でも、そんな普段から景色を気にして通ってる訳でもないならな……」


 管方は不安げな声で答え、アスファルトの熱さに耐えながら歩き続ける。


 だが、猫飼はそんな彼に軽く手を振って先に進むよう促した。

 彼女の仕草には、どこか安心させるような優しさと、怪異ハンターとしての頼もしさが同居している。


「さあ、このまま歩き続けよう。当たりをよく見渡してね」


「とにかく、頑張ります」


 二人は坂道を歩き続けた。夏の猛暑が容赦なく照りつけ、アスファルトから立ち上る熱波が陽炎となってゆらゆらと揺れる。


 蝉の声がけたたましく響き合い、雑木林の緑が陽光に照らされて鮮やかに映える。

 道の脇には錆びたガードレールが続き、時折見える小さな小屋や木々の影が、ループする道の単調な風景を彩っている。

 猫飼と管方は異変を探しながら、時に軽い雑談を交わして歩き続けた。


「なるほど、そう聞くと怪異ハンターも楽しそうですね」


「そうだろう?なかなか良い物さ。そして君は夏休みか、楽しんでいるかい?夏休みはすぐに過ぎ去るぞ」


 猫飼と管方は少しずつ打ち解けていた。彼女の声には親しみが滲み、管方も緊張がほぐれた様子で笑顔を見せる。


「いやぁ、それが、暇してますね」


「なんだ、友達とでも遊ばないのかい?」


 猫飼が首をかしげ、どこか芝居がかった仕草で不思議そうに尋ねる。

 陽光に照らされた白銀の髪がさらりと揺れ、サングラス越しに見える琥珀色の瞳が、子供のような純粋な好奇心を帯びて管方をじっと見つめた。


「それが、僕友達いないんですよね、おかしな事に」

「ほう、それはまたどうして」


 猫飼は歩きながら何気なく問いかけた。彼女の声には好奇心が滲むものの、どこか軽い調子で、深い詮索をする気はないようだった。


「なんででしょうねぇ、話し相手が居ない訳では無いんですけどね、積極的に話しかけるタイプでもないし、遊びに誘う仲にもなれずに……って感じですかね、浅く広い交友関係ってやつです」


 猫飼は一応納得したような素振りを見せ、小さく頷いた。管方とは対照的に彼女は暑さの中でも涼しげな雰囲気を保ちながら歩き続ける。


「浅く、広くか……まあ、君の交友関係に口出しをする気は無いがね、暇なら怪異探しでもするといい」


「そんなカブトムシを探しに行くノリで言われましても」


 二人は歩き続ける。変わらない景色に管方はいい加減、真剣に異変を探し始めた。

 管方はシャツの胸元を軽く引っ張り、首元から空気を送り込んだ。汗でべたついた肌に、ほんの少しの涼しさが広がるが、猛暑の熱気は容赦なく彼を苛む。


 管方は辺りを注意深く見回す。猫飼はそんな彼の隣を歩き、時折視線を遠くの木々や道の先に投げながら、怪異の気配を探っているようだった。


「……それで、異変は見つからないのかね」


「うーん、特に普段と変わらないような……」


 管方は立ち止まり、改めて辺りを見回した。


 雑木林の緑が陽光に照らされ、蝉の声がけたたましく響く。道の脇には錆びたガードレールが続き、遠くには陽炎がゆらめくアスファルトが果てしなく伸びている。

 木々の間から漏れる木漏れ日が、まだらな影を地面に落とし、カーブミラーが管方と猫飼を映している。

 そんな単調な風景が、いつまでも続いている。


「ゲームの知識はなにか役に立たないのかい?」


 猫飼は何気なく問いかけた。彼女の声には、どこか試すような響きが含まれている。


「ゲームの知識ですか……まあ、よくあるパターンだと木に顔とか、貼り紙が怖い画像になってるとか、鏡に何か映ってるとか……」


 管方は言いながら、ふと視線を動かし、道の脇に立つカーブミラーを見つめた。


 そこには相変わらず自分と猫飼の姿が映っていて、陽光がミラーの表面で反射し、眩しさが目を刺した。


 セミの鳴き声が、ひどくうるさく感じられる。


「……こんな所に、カーブミラーあったっけ?」


 管方がその言葉を口にした途端、カーブミラーに映っていた自分や景色が変わった。

 ミラーの中の管方の姿がゆらりと歪み、顔が異様に伸びて口元が裂けたような笑みを浮かべる。

 背景の景色もねじれ、木々が赤黒く染まり、蝉の声がやけに響き不気味な音に変わっていく。


「……あ」


 鏡の中の自分が近づいてきて、ガラス越しにゆっくりと手を伸ばしてきた。

 黒く変色した指先がミラーの表面を叩き、ガラスがひび割れるような音が響く。


 管方の背筋に冷たいものが走り、思わず後ずさった。


「よくやった。管方君。」


 猫飼はそう言いながら、カーブミラーの支柱にそっと触れた。

 彼女の指先が触れた瞬間、空間が苦しそうに歪み、まるで空気がうめき声を上げるような異様な音が響く。


 蝉の鳴き声も不気味なほどに大きくうるさくなり、耳を劈くようなけたたましい音が辺りを支配した。


「管方くん、私は特別でね。怪異にとって、私という存在は猛毒なのだよ」


 猫飼の声が響いた瞬間、眩しい光に包まれた。管方は思わず目を閉じ、耳を塞いだ。


 光が収まると、目を開けた管方の前に広がるのは、先程と変わらない景色だった。

 雑木林の緑、錆びたガードレール、アスファルトの道。しかし、そこにカーブミラーはなく、時刻は夕方に変わっていた。空が茜色に染まり、残る昼間の空気に涼しい風がそよそよと吹き抜ける。


「……夕方だ」


 道路を車が通り過ぎ、その音が静かな夕暮れに響いた。


「車が通って安心するの初めての感覚だ……」


 管方は慌てて猫飼を探した。辺りを見回すと、後ろから声が聞こえてくる。


「よし、管方君。よくやった。」


 振り返ると、そこには猫飼が立っていた。

 彼女の白銀の髪が夕陽に照らされ、ほのかに赤く染まる。琥珀色の瞳がサングラス越しに優しく輝き、管方は安堵の息を吐きながら答えた。


「いえ、こちらの方こそ、ありがとうございました」


 猫飼は穏やかに微笑んだ。彼女の唇に浮かぶ笑みは、先程の不気味さとは異なり、どこか温かみのあるものに感じられた。


「夏は怪異が多い。気をつけて帰るように」


 夕方の景色が広がっていた。空は茜色から次第に藍色へと変わり、遠くの木々がシルエットとなって浮かび上がる。

 蝉の声は遠ざかり、代わりに虫の音が静かに響き始める。


 道路を走る車のライトが、薄暗い道を照らし、涼しい風が管方の汗ばんだ肌を優しく撫でた。


「はい、気をつけます……気をつけてどうにかなるものなんですかね?」


「いいや、どうにもならないね、祈るしかない」


 二人は顔を見合わせて小さく笑い、そして互いに向き直った。


「では、私はこれで」

「あ、はい。さようなら。ありがとうございました」


 そう言って、管方は家へと向かい足を進めた。

 夕陽が沈む中、涼しい風がアロハシャツを軽く揺らし、管方はようやく現実に戻ってきた安堵感に肩の力を抜いた。


 猫飼は小さく手を振りながら、静かに呟いた。


「さようなら、管方君」


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