管方が目覚めると、そこには知らない天井が広がっていた。くせ毛の黒い髪が額に張り付き、汗で湿ったアロハシャツが肌にまとわりつく不快感に顔をしかめる。
どうやら革張りのソファーに寝かされていたらしく、彼は上半身を起こして当たりを見渡す。
その書斎は、まるで時が止まったような幻想的な空間だった。高い天井からは、幾つもの古風なランプが鎖で吊り下げられ、仄かなオレンジ色の光を放ちながら、部屋全体を暖かくも神秘的な雰囲気に染め上げていた。
「おや、目が覚めたかい。水しかないが、飲むといい」
奥からの声にふと横を見ると、ソファーのすぐ側の机の上に氷と水が注がれた透明なコップが置かれている。
机の上には他に開かれたままの古い地図が広げられ、その上には真鍮のコンパスや、羽根ペンとインク壺が散らばっていた。
「えっと、ありがとうございます……ところで、ここは?」
ランプの光の下、壁一面には古びた本棚が並び、革装丁の書物や羊皮紙の巻物がぎっしりと詰め込まれている。
本棚の隙間には、地球儀や天体の動きを模したアストロラーベが無造作に置かれていた。そして管方が寝かされていたソファーは濃いワインレッドの革がところどころ擦り切れ、長年愛用されてきたことが伺える。
「ここはセーフティーハウス、いわゆる隠れ家さ、私のね」
「セーフティーハウス……?えっと、僕は確か……」
「君は怪異に遭遇した。そして気を失った君を、私がここに一時的に避難させたのさ」
部屋の奥、窓の近くには重厚な書斎机が置かれている。マホガニー材でできたその机は、彫刻が施された脚部が特徴的だった。
そして、その書斎机を挟んだ向こう側の背もたれの高い椅子に例の少女が座っていた。
彼女の白銀の髪がランプの光を受けて淡く輝いている。
「怪異……そうだ、たしか何故か同じ道から抜け出せなくて……疲れきったところを襲われて気絶したってことか……」
「いや、君が気を失ったのは熱中症だね。怪異自体はただその場に存在していただけだ。抜け出せない道としてね」
管方はコップの水を飲みながら自分が寝ていたソファーを観察した。ソファーの背もたれには、刺繍の入ったクッションが無造作に置かれ、その上には古い毛布が畳まれて乗せられている。
ソファーの足元には、幾何学模様が刻まれた古いラグが敷かれており、その色は長い年月で褪せ、ほのかにどこか懐かしい匂いを漂わせていた。
管方はラグの模様をぼんやりと眺めながら、猛暑の中で歩き続けた疲労がまだ身体に重くのしかかっているのを感じていた。
「僕がここにいるってことは、助かったってことでいいのかな?」
「いいや、言っただろう?ここはセーフティーハウス、この空間は蓋、もしくは扉、とにかく開閉できる場所なら繋げることが出来る特別な空間」
彼女は琥珀色の瞳をサングラス越しにこちらへ向け、静かに見据えた。その眼差しは鋭く、まるで魂の奥底まで見透かすようで、冷たい微笑が唇に浮かぶ。
背筋が凍るような不気味な気配が漂い、管方は思わず固唾を飲み、その緊張が部屋を支配した。
「私たちは実際にはまだ、怪異の渦中にいる」
部屋に、しばしの沈黙が訪れた。
彼女がいる書斎机の上は雑多で、積み上げられた本の山や、ガラス瓶に入った乾燥したハーブ、さらには小さな砂時計が無秩序に並んでいる。
机の端には、インクが乾いたままの羽根ペンが転がり、その横には蝋燭が溶けた跡が残る燭台が寂しげに立っていた。
その雰囲気が、やはりまだ現状の現実味を遠ざけている。
「まあ、任せなさい。君には協力をしてもらうが、しかしこの怪異から抜け出す方法を私は知っている。私は怪異ハンターだからね」
「怪異ハンター……か、ところで、そういえばあなたの名前は?」
問いかけながら管方はチラリと辺りを見渡す。壁には色あせた肖像画や風景画が無造作に掛けられ、額縁の金箔が剥げ落ちているものもあった。
絵画の間には、古い時計や歯車がむき出しになった機械仕掛けのオブジェが飾られ、時折カチカチと小さな音を立てている。
その音が、管方の耳に不思議と心地よく響き、まるで時間がゆっくりと流れているような錯覚を与えた。
「自己紹介が遅れたね、失敬。私は怪異ハンターの
「僕は、コンビニ帰りの
「ああ、よろしく頼むとも」
管方はソファーに腰かけたまま、未だ現実感が掴めずにいた。目の前の光景──古びた書斎、仄かなランプの光、壁に掛けられた色褪せた絵画やカチカチと音を立てる機械仕掛けのオブジェ──すべてが夢の中の出来事のようにぼんやりと霞んで見えた。
コップの水を飲み干しても、喉の渇きは消えず、まるで自分がまだあの暑苦しい坂道を彷徨っているかのような感覚が頭の片隅にこびりついている。
一方、書斎机の向こうに座る猫飼零は、楽しそうに微笑んでいた。琥珀色の瞳がサングラス越しにキラリと光り、彼女の唇に浮かぶ笑みはどこか不気味な雰囲気を漂わせていた。
白銀の髪がランプの光を受けてほのかに輝き、彼女の存在自体がこの幻想的な空間の中でさらに異質なものに感じられる。
管方夕と猫飼零はこうして、出会ったのだった。