現代日本、東京の郊外にある山奥。
そこに、突如として遊郭──駆天郷が誕生した。
念の為、大都市東京にも山に囲まれた田舎は数カ所ある。
その内の山ひとつが、遊郭へと作り変えられたのだ。
それも、日本の八百万の神によってである。
日本といえば八百万の神が住まう国だ。土地にも物にも、何にでも神が宿る。
しかしその神々が奮い立って遊郭を作るとは、まさか誰が考えるだろう?
それだけではない。──駆天郷を作った神々は、遊郭として機能させる為に、あらゆる日本人達の夢枕に立った。
そうして、駆天郷の存在を告げて移り住むように「お告げ」して回った。
神々はこんな事を申したらしい。
「お前さんには見世を切り盛りする遣り手の才能がある。ぜひ駆天郷に見世を作って活躍してもらいたいんだが、どうだね?一世一代の勝負に出ないかの?」
「貴女は田舎の飲み屋で埋もれるには惜しい逸材。一念発起して駆天郷で遊技となり、神々の恩恵を受けながら存分に魅力を発揮して欲しいと、そう思うのよ。いかが?」
「そこの少年、私は八百万の神の内の一柱。君には親御さんを説得して、駆天郷の一員となって欲しい。君は未来を担う遊技見習い、これは男童と言うんだが、それになって先輩から手練手管を教わるんだ。つまりだ、いずれは大人気の売れっ子となるべき身だと思ってくれていい。少年よ大志を抱け」
「お嬢さん、進路に悩んでいるようですね?そんな時こそ駆天郷。神々から日本人が賜りし楽園。ここでならば、各々が個人の潜在能力を活かし、技も身につけて輝ける。お嬢さんも一度きりの人生、悔いなく花を咲かせたいですよね?さあ行くのです」
「いやね、駆天郷で見世をやるとなるとね、どこも遊技を支えて守る腕っぷしの良い男衆が必要になるんだけど人手不足でねえ。君、その厳つい顔つきと体格良いねえ、まさに男衆のお手本みたいだよ。どうかな、ちょうど会社辞めたんだよね?ね?」
……何とも酔狂だ。しかしそれを真に受ける人も、なぜか少なからず出た。
言われた通りに東京の田舎へ赴き、駆天郷を目の当たりにして、これは商機と思い立った人により、ぽつぽつと見世が置かれだした。
何しろ神々公認の遊び場である。
神々は神社で祀られているものとばかり思っていた政府の要人達は、それはもう度肝を抜かれて騒ぎ立てたが、しかし駆天郷は既に作られており、神々の加護により消しようもなく存在している。
政府も世論も大いに沸いたし、批判的な意見も大量に出たものの、駆天郷で仕事を始めた人達は皆が勢いづいている。そして八百万の神を信じていた。
そうした人はとにかく、発言力の意味で声が大きいし、何をやらせてもアクティブだ。
──結局、駆天郷は日本の神様公認の遊郭だと認められるに至った。
何ならご利益がありそうだと人気も得られるようになって、ツアーまで毎日どこかしらの旅行代理店により組まれるありさま。
そのニーズに応じて見世も増えた。神のお告げによるものだと、見世の格付けも生まれた。
最高級の見世を院、その次が富裕層向けの楼、庶民的な見世を屋、はした金で誰でも遊べる見世を切屋として、ここまで決められるともう駆天郷は大規模で世界的にも有名な遊郭となっていた。
遊び方に基本的なルールはあるが、これはマナーに近い。
訪れる客は見世を見て回って楽しみ、遊技に相手をしてもらい楽しみ、神様ありがたやと喜んだ。
──だがしかし遊郭は苦界。そのうち、見世に買われて働く人々も増えてきた。愉悦と幸せだけでは世の中回らない。
駆天郷の中でも異色を放つ見世である「永華院」にも、売られて男童や男妓となった青少年達が在籍している。
彼らは楽しいばかりではない遊郭の現実と向き合いながら、客をとって働いていた。
ちなみに、駆天郷で女童や男童と呼ばれる少女と少年はまだ遊技見習いだが、接客はする。
現代に残る舞妓に例えるならば、まだ駆け出しの半だらりといったところか。
いずれは水揚げされ、一人前の遊技になるのだが、そのタイミングは個人差があった。
駆天郷でもトップクラスとされる一流の見世、永華院に男童として在籍する綺凛もまた男童だ。
長く伸ばした黒髪は艶やかに背中や肩へ流れ、猫のような印象の澄んだ黒い目は、どこかあどけなさを感じさせる。
白皙の美貌に口紅を滲ませれば、駆天郷の院ならではの和装を元にした正装も相まって、これは完璧だと太鼓判を押される程美しい。
だが、ある程度育った青年なので、体格は程よく筋肉が付いていて、ひょろひょろの優男ではない。
顔立ちと体格のギャップ、いかにも男童らしい擦れていない接客態度と話し方、これらが綺凛の人気を高める理由だった。
男妓として一人前になれば、綺凛の時代が来る。
永華院を知る者は口を揃えて言う。
綺凛本人は、それを自覚しているのかいないのか、という態度でマイペースに振る舞って見せてはいるが、駆天郷の見世に売られた身でありながら、己の将来について何も考えないでいられる日などない。
特に、最近の内で一番の太客になった男性との事には複雑な思いを抱えていた。
「……今日は来ないと良いけど……」
院ともなれば完全予約制なので、来なければドタキャンされた事になる。遊技としては面目を潰される行ないになるが、綺凛はそれでも構わなかった。
つ、と窓際に指を滑らせる。三階から見下ろす花街は夕明かりが灯り始めて、行き交う声さえ色めいている。
「──綺凛兄さん、豪道様がお見えになりました」
傍付きの後輩男童である結希乃が、襖の向こうから声をかけてきた。
「……分かった。支度が残ってるから少しお待ち頂いて」
「あい、かしこまりました」
綺凛が客を待たせるのは誰に対しても同じなので、まだ十二歳の結希乃も慣れて、困惑する事なく落ち着いている。
──部屋の掃除と身支度など、昼下がりの頃合いに済ませてある。残るは心構えのみだ。
「……まだ十八歳じゃお酒も呑めない……」
これは綺凛の年齢だ。若々しさが眩しい、きらめく年頃といえる。
──落ち着け。穏やかに笑え、相手はお客。
自分自身に言い聞かせる。こんな事をさせる客なんて、豪道以外にはいない。
目を閉じ、何度か深呼吸をして、綺凛はきりっと顔を上げた。
「──結希乃、豪道様をお通しして」
「あい。──豪道様、お待たせ致しました」
「ああ、いつもありがとう。……綺凛、来るのが早すぎたか?」
「……いえ、そのような事はございませんよ」
ほのかに微笑む。窓から見える夕暮れを背景にして、その自分がいかに美しく映えるか理解している。
「そうか、良かった。──また綺麗になった。綺凛はどこまで美しさを磨いていくんだ?」
「私はありのまま、ここにおりますよ。……私に変化があると思われるのでしょうか……そんな私に、ついて行きかねますか?」
──ついて来られないなら無理はせずとも、今ならまだ離れれば。
「いや、どこまでも見ていたい」
「左様でございますか。……今宵はいかようにお過ごし遊ばされますか?」
挨拶を打ち切り、接客に入る。男童ごときに許される接客ではないが、綺凛には許させるだけの器量があった。
「そうだな、……膝枕を頼む。あと……頭を撫でていて欲しいんだ」
「かしこまりました。──本日はお疲れでございますか?」
「そうだな、家業を継ぐのも楽には出来ない」
豪道翔二──大手不動産会社の跡取り息子である彼には、常に重責と周囲の目が背中にある。
親同士の決めた許嫁もいる身だ。本来、駆天郷にある見世の太客として遊んでいい立場ではない。
だが、ここ永華院は遊郭本来の遊び方をしない、特殊な見世だ。だから彼も遊びに通えている。
──普通、見世といえば芸や体を売って商売をする。しかし、ここ永華院はそれらを一切売らない。
売り物にするのは、甘いひと時──癒しと安らぎのひと時、心ときめく、束の間の憧れやほのかな恋に似たやり取り。
客の求める理想通りの心を作り上げて、まやかしの心を、捧げるように売っている。
「ここでは楽にして下さいね。──さ、翔二さん、こちらにいらっしゃい。ゆっくり休めるように、話し聞かせもして差し上げましょう」
ぽんと腿を示す。豪道──翔二が照れくさそうに顔を綻ばせた。上着を脱いで結希乃に預け、いそいそと横たわって綺凛の膝枕に身を委ねる。
──相手はお客。まやかしの心だけを求めるお客。これは遊びなんだ。俺にとっても接客仕事なんだから。
「……いずれの御時にか、女御更衣あまたさぶらいたまいけるに、いとやんごとなききわにはあらねど、優れてときめきたもうありけり……」
語り始めながら、手入れされた髪を指で梳き、頭を優しく撫でる。翔二は心地良さそうに身を任せている。
──越えるな。このひと時から越えるな。
綺凛は繰り返し、心で声を上げていた。
自分は売りものとして、金で売り買いする時間を重ねているだけなのだからと。