クレオパトラは激怒した。必ず、あの忌々しい男に復讐しなければと決意した。
現代日本に生まれ変わっても、クレオパトラはやっぱり絶世の美女である。そして波瀾万丈すぎる前世ではできなかった、ゆるゆる高等庶民ライフを謳歌している。すなわち丸の内OLである。都内の名門私大を出て、都内の大企業でほどほどに働いて、夜は存分にはっちゃける。
ファラオの重責とか政治のイザコザとか、そういう面倒なものから解放されたクレオパトラは、商社マン達との合コンで無双し、男と遊んで暮らしてきた。
けれども前世の自身が叩かれることに関しては、人一倍に敏感であった。
今日は大学生との合コンだった。クレオパトラこと
「晴奈さんめちゃくちゃ美人ですよね。こんな美女と出会えて俺、感激です」
「ありがとう。君みたいな賢い男の子に褒めてもらえて嬉しいよ」
「君たち、晴奈の美貌に惑わされちゃだめよ。この人、気に入った男はすーぐお持ち帰りしちゃうんだから」
「え!いいな!俺もお持ち帰りされたいです!」
「よっ!晴奈さん!現代のクレオパトラ!」
よくわかってるじゃない。
晴奈はとっても上機嫌だった。現れた4人の男子大学生達は晴奈の予想を遥かに上回るイイ男だったし、流石に賢いだけあって年上の女達をうまく持ち上げてくれる。
晴奈は浮かれていた。彼がその発言をするまでは。
「でもクレオパトラって、カエサルの食べ残しだからなぁ」
今まであまり発言しなかったその男。男性側席端にゆったりと座る一際端正な顔立ちの男は、梅酒ソーダ割りをカランコロンと混ぜながら、そんなことを言いだした。
「食べ残し?」
晴奈が目をキョトンとさせて、口に出す。
「はい。シェイクスピアの『アントニーとクレオパトラ』の中にそういう一文があるんですよ。
ローマと手を組もうと将軍カエサルを誘惑したクレオパトラが、カエサルが死んじゃったから仕方なく、今度はカエサルの部下のアントニウスを誘惑するんですよね。そのクレオパトラをアントニウス側から見ると、『カエサルの食べ残し』。なかなか強烈な表現ですよね」
「お。さすが歴史や文学大好き篠田くん。やっとまともに発言したな。コイツ、自分で小説とか書いてて。シェイクスピアのこともすげー詳しいんですよ」
「えー?シェイクスピア? なあにそれ、楽しいの?」
キャッキャと馬鹿みたいに盛り上がる男女を眺めながら、晴奈ことクレオパトラは自問自答していた。
私が?
カエサルの?
食べ残し?
誰だそんなこと言ったやつ。
シェイクスピア?――知ってる。イギリスの有名すぎる劇作家だ。アイツが私とアントニウスのことを書いているのは知っていた。だが読んだことはなかった。だから自身がそんな風に書かれているなんて、ちっとも知らなかった。
私が、カエサルの、食べ残し…
確かに、
カエサルは私を置いて行ってしまったが……
それでも……
食べ残し?
何を言っている。
シェイクスピアとやら、私の何を知っているというのか。
フツフツと何かが煮えたぎり、吹きこぼれた。
晴奈はガタンと席を立ち、例の男を睨みつけた。男はなんだなんだ?と、立ち上がった晴奈を見る。
「ごめん。私、帰るね」
お札を5枚、バシッとテーブルに置いて、晴奈はスタスタと席を離れた。
「え?晴奈?どうしたの?」
「……おい篠田、謝ってこいよ」
「え?!俺のせい?」
後ろから何やら聞こえるが、晴奈はとにかく、前に進んだ。そして店の入っていたビルを出て、ヒールを夜道に響かせて、明るい方へと歩き出す。
「……晴奈さん!晴奈さん」
後ろから呼び声が聞こえて、振り向いた瞬間、肩を優しく叩かれた。さっきの男だった。
篠田とかいう男だったか。捨てられた子犬のように、しゅんとした顔をしている。
「……なあに坊や」
「いや、あの……晴奈さん、俺の発言がなにか、気に障ってしまったんですよね?すみません……」
「……」
「駅まで送らせてもらっても……いいですか?」
「本屋に寄るから」
「本屋?」
「……さっきの『アントニーとクレオパトラ』、読んでみなくちゃ」
「そうですか!お供します!」
篠田は一転して顔を輝かせ、晴奈の隣を元気に歩き出した。
「さっきの一文は過激でしたけど、シェイクスピアはどの時代にも共通する人間性を克明に描き出していて、彼の生きた時代から遠く離れた現代の日本人が読んでも面白い作品が多いんです!」
「……」
篠田は晴奈が単純にシェイクスピアに興味を持ったと思っているらしい。アホだなこの男、と晴奈は思った。勉強ができて、顔がいいだけのアホな男。前世にもたくさんいた。
駅前のそれなりに大きい本屋につく。海外文学コーナー。サ行。さ……し……シェイクスピア……
「晴奈さん!ありました!これです。『アントニーとクレオパトラ』!」
ブーメランを咥えて戻ってきた犬のように、篠田は晴奈にその本を手渡す。晴奈はそれを無言で受け取り、ページをペラペラとめくった。
「さっきの食べ残し発言は、アントニウスとクレオパトラが喧嘩するシーンに出てきます」
聞いてもいないのに篠田は喋り出す。
「あ!ここです!『初めて会ったとき、あなたは死んだカエサルの皿で冷たくなった食い残しだった。いやポンペイウスの食べこぼしだった。』
……うーん、やっぱりひどい。いくらなんでも、こんなこと女性に対して言っちゃダメですよねぇ。でもこういうシェイクスピアの過激なセリフが、現代にまで伝わるクレオパトラのイメージを作り上げた要因の一つなんでしょうね。クレオパトラは美女だけど悪女で、男をたぶらかして最後は自業自得で死んでしまう。ある意味哀れな女、っていうイメージ」
篠田が何気なくそんなことを言うと、晴奈はバタンと本を閉じ、目も閉じた。篠田は一瞬ピクリとしてから、おそるおそる晴奈の顔を覗き込む。
「……晴奈さん?」
そして、大きな二つの目が、カッ!と開いた。
「許せん」
「え?」
「許せん。シェイクスピアのやつめ。クレオパトラは気高き古代エジプト最後の女王!決して哀れな女ではない!」
こうして、クレオパトラは激怒した。
クレオパトラは、シェイクスピアへの復讐を誓った。
といってもシェイクスピアはもうこの世にはいない。
もしかしたら、自分のように生まれ変わって、どこかで暮らしているかもしれないが……
「篠田!」
「はいッ!」
突然の女王からの呼び声に、篠田は背筋をピンと伸ばす。
「シェイクスピアが一番嫌がることはなんだと思う?」
「え?シェイクスピアが嫌がること?そ、そりゃあ劇作家だから、自分の作品が忘れ去られたり、けなされることが一番嫌なんじゃないでしょうか」
「なるほど。なら、とことんけなして忘れさせてやろう。シェイクスピアをこの世から抹殺してやる」
「……と、言いますと?」
「シェイクスピアを超える劇作家を生み出せばよい」
「……」
そう凄む女王の禍々しいオーラに、篠田はただ目をパチクリさせていた。
「篠田ァ!」
「はいッ!」
「そなたの文才、私のために思う存分発揮するがいい」
「そなた」
「私のためにヤツを超える作品を書け」
「シェイクスピアを?超えるんですか?」
「そうだ」
「無理じゃないかなぁ……」
「無理じゃない!私を誰だと思ってる」
「倉井晴奈さん……?」
「違ァァう!」
「はいッ!」
「私はクレオパトラ、クレオパトラ7世フィロパトル」
「ふぃろぱとる」
「私と共にシェイクスピアへ復讐する名誉を、そなたに与えてやる」
「めいよ」
クレオパトラは篠田の襟元を掴み、ずいっと自身の顔に寄せた。篠田は思わず唾を飲む。
「そなた、ひとまず私の家に来い。執筆活動を支援してやる。共に暮らすぞ」
「ともにくらす」
篠田は、ひどく赤面した。