「えーっと、なんだっけ、風間の名字」
ハラミを取りながら蓮が尋ねた。
「エワタリだ」
「そうそう。どこのなんだ?」
「昔からこの町で暮らしている。異能者の一族だ。俺の
そこから先を、彼は聞いていなかった。
「自分から振ったんですからぁ、ちゃんと最後まで聞きましょうよぉ」
めかぶに窘められて、少し居心地の悪くなった彼は、
「……わりぃ」
と言った。
「んで、ソーメンの異能って何?」
「お前なあ……」
◆
たらふく食べて、自室。蓮はベッドの上に転がっていた。
(俺、やれっかな)
今更になって湧いてくる不安。どうにもならねえよ、と自答して目を閉じる。
『よお、ガキ』
どこかわからない暗い街で、蓮は黒い炎を前にしていた。声はその炎の中から聞こえてくる。とても冷たく、聞くだけで鼓膜が凍り付きそうだった。
『オレだよオレ、スサノヲだ』
「……夜海原に封印されてるって話じゃねえのかよ」
『簡単さ。お前に乗り移っただけだ……頑丈そうなんでな。ま、ここにいるのはほんの滓みたいなもんさ』
金縛りにあったように、蓮は動けない。足も、腕も。ただ、口だけが回る。
『人間ってのは汚いものに塗れてやがる。嫉妬、憎悪、恥辱……そういう負の感情の塊だ。オレはそういうものから生まれた』
炎が揺らめく。
『まあ、いい。オレに体を寄越せ』
「ハア?」
『あの日妖魔を連れていたのは慧渡のガキだろう? アイツを殺せれば、暫くは大人しくしてやる』
蓮に、肚の底からの嫌悪が湧いてきた。先程まで一緒に飯を食っていた相手なのだ。
「嫌に決まってんだろ」
『ケケケッ! そうだよなあ、オマエら人間はそういう遊びが好きだものなあ。友情、友愛、慈悲! 何年生きても理解ができん。反吐が出る』
知らず知らず、彼の顔は険しくなっていた。金縛りも解け始めている。
「とっとと消えろ。イライラすんだよ」
炎の勢いは弱くなり、少しずつ姿を消していく。
『覚えておけ、オレはいつだってオマエの肉体を狙っている。精々、隙を見せないようにするんだな……』
ハッ、と彼は目を覚ます。
「随分と寝言が五月蠅いのですね」
椅子に腰掛けて本を読んでいる、雪音の姿がある。
「……お前、どこで寝んだよ」
「哀しいことにベッドは一つしかありませんから。添い寝してあげますよ」
「全くいくつだよ……」
「十五ですが。世間で言えば高校一年生ですね」
寝台から降りた彼は、鞄から着替えをひょいと取り出し、部屋を出んとする。
「どこへ?」
「風呂だよ。お前も入れよ」
共用部の浴室は、小さな銭湯のそれに似ていた。タオル類は自前、洗面桶は黄色でプラスチックのものが用意されている。
壁に沿って置かれた椅子に座ると、目の前にシャンプーとボディーソープが。
「スカルプ、ねえ。薬用シャンプーの匂い苦手なんだよなあ」
適量手に取って頭を洗い始めると、次の客がやってきた。が、蓮は目を開けて髪を洗えない。
「それ、俺のだぞ」
「風間か? 別にいいだろ」
「仮に、自動販売機で百六十円の飲み物を毎日買ったとする」
「あ?」
「一か月で四千八百円。かなり大きな損失だ」
真意を掴みかねて──そしてそれはどうでもいいとして、彼はシャワーを浴びる。
「そういう小さな浪費の積み重ねが貧乏を生む。シャンプーとて同じことだ」
「……俺、風間とダチになれねえかも」
「売店に色々ある。明日にでも見ておけ」
「へいへい。じゃ、こっちも借りるぜ」
片側の口端だけを下げた奇妙な表情で、風間は新たな級友の入浴を見ることになった。
◆
深夜の街並みを見下ろす、レストランの一角。個室になっているそこは、上質な静けさに満ちていた。
「準備は出来ているんだね?」
黒いスーツに赤いネクタイを合わせた中年間近の男は、向かいに座っている女性にそう尋ねた。
「ええ。使い魔の内数体を、件の洋館に送り込ませました。ふぐりがいいように料理するでしょう」
青いドレスを着た女は、一口ワインを飲んだ。
「我々の理想を成し遂げるためには、夜海原を手にしなくてはならない。そうだろう? 慧渡
「コードネームで呼んでください」
「すまないね、オータム。つい楽しくなってしまった……」
男の腰にはポーチがある。時折、内側で何かが蠢いているように見える。
「君のおかげで、人を妖魔にできるようになった。堕落させた人間は、好きに操れるのだね?」
「ええ。通常の調伏と同じ手順で使い魔にできます。制御の放棄も、問題なく」
「雪音を取り逃がしたんだ、ここで取り戻しておくれよ」
男はポークソテーを切って、口に運んだ。
「
そう呼ばれた彼は、上目遣いで秋野を見る。
「なぜ、この町なのです」
「後輩がいるんだ。同じ特科で学んだ仲でね……そろそろ、縁を切りたい」
「殺す、と」
「さて、どうかな。あいつは強い。一生戦えないようにしたいね」
空になった白い皿。
「予定通りだ。君は夜海原と雪音を確保。特科に入ってしまった以上そう容易くはないが、やってくれるね?」
「ふぐりに特上級妖魔を数体用意してもらっています。勝ちますよ。──それで、夜海原は多少壊しても構いませんね?」
「腕輪が手に入れば、そこから解析ができる。八鷹……蓮だったか。彼自身はどうでもいい」
秋野は深く頭を下げる。
「行こうか。時間を無駄にしたくはない」
◆
山から山へ、バンが走る。遠くには積乱雲が見えて、この先の夕立を蓮に思わせた。
「今回の任務は、単純です」
運転手をしている教員、
「放棄された洋館に、妖魔が住み着いたようなのです。それを消し去ってください」
「洋館への被害は、どれほど許容されますか」
風間が問う。
「更地にしても構いません。まあ、偵察部隊の情報では、住み着いたのはせいぜい中級、どんなに強くても上級だということですから、そこまでの被害は出ないでしょう」
「はいはい、質問!」
蓮が手を挙げる。
「上級ってどれくらいつえーの?」
「霊力反応と呼ばれる、霊力を数値化したものを参考に決められるのが妖魔の等級。しかし、上級と特上級は、固有の異能を持っているかどうかで判断されるほか、数値は低くとも狡猾である場合にもカテゴライズされます」
「えっと……」
「単純に強いか、手に負えないほど賢いか、ということですよ」
「ははーん、んじゃ、今から行くところはチンパンジーの檻みたいなんだな」
イマイチピンと来ない喩えは相手にもされずに受け流された。
「油断はしないでくださいね。中級であっても、莫大な霊力を有しているケースは何度か観測されていますから」
「余裕だって! めかぶつえーもん!」
「風間くんも強いですよ」
「えぇ~?」
怪訝そうな顔を浮かべる彼の頭を、隣の風間が抑えつけた。
「風間くんは一年生で唯一単独任務が許可されています。名門、慧渡家の跡継ぎですから」
「名門、ねえ」
顔を上げた蓮は、顎を撫でながらそう言った。金を持っていそうだな、くらいの感想しか抱かない。
「慧渡家は平安の時代から続く家系ですよ。
「なーんか信じきれねえなあ」
「勝手に言ってろ」
「じゃ、今回の主役は風間でいこうぜ。そしたらホントにつえーかわかるだろ」
風間は黙ってそっぽを向いた。
遠足気分でいた蓮だったが、彼は、現実を見ることになる。己の矮小さと、高すぎる壁。この事件は、一人の命を奪うことになるのだった。誰も望まない形で。