茹だるような暑さの、夏だった。どこまでも青い空から降り注ぐ陽光が陽炎を生み、一人の少年がその中をアイスバー片手に歩いていた。
凡庸そのものな黒い短髪は風に揺れ、その持ち主は長いようで短い夏休みの行く末を思っていた。
彼の左ポケットで、スマートフォンが鳴る。祖父から
『課題は終わったか』
と来る。
『やるってば』
と左手だけで返す。その後、携帯を上に放り投げれば、それはすっぽりとポケットに収まった。
アイスは冷たいが、溶け始めている。急いで口に運んでいくと、予想通りに頭がキーンとする。そうやって目を閉じた彼に、近づく人影。
「そこの!」
若い声が、彼を呼ぶ。その主は、百九十センチほどの長身を誇る少年だった。ワイシャツに灰色のスラックスという格好である。傍らには三匹の犬。だが、そのどれも輪郭が炎のように揺らめいていて、アスファルトよりも黒かった。
「この子供を見なかったか」
一葉の写真を、白いシャツの胸ポケットから取り出して突きつける。雪のような白い肌を持った少女の、証明写真然としたものだ。黒髪黒目、日本人形みたいだ、と蓮は感想を抱いた。
「知らねえな。ここらへんじゃ見たこともない」
「チッ!」
感謝どころか舌打ちを送って長身の彼は走り出した。犬たちは従順に飼い主を追っている。
「んだよ……」
残った棒をレジ袋に突っ込み、特に目的のない移動を再開する。
(そういや『赤の記憶』にアプデ来てたな)
去年にはテレビアニメも放映された人気ソーシャルゲームだ。公園に入り、ベンチに腰掛ける。スマホを横に持って起動を待つ。
知る人が言えば、赤の記憶の雰囲気はかつてのアダルトゲームに近いらしい。だが、そんなものの知識を断片すら持たない蓮は、ただ質の高いストーリーを楽しんでいるばかりだ。
新しいボスを倒すため、リトライを繰り返す。キャラクターを変え、武器を変え、時にはスマホの持ち方を変えた。三十分の格闘の末、ようやくクリア。
「よっしゃー!」
その叫びと共にスマホを高く掲げる──と、爆発。飛んできたコンクリート片が携帯を弾き飛ばした。
「ギャーッ!」
飛んでいったそれを拾おうとした彼の背後から、尻が降ってくる。白いワンピースの美少女が、彼に直撃したのだった。
「逃げてください」
か細いが強さを秘めた声が、そう告げる。
「まず謝れよ、オイ」
上から彼女が退いた後、蓮は立ち上がる。
「そんな時間はありません。早く、この場を去るべきです」
「ハァ?」
そう生意気に問うた蓮は、すぐに彼女の言い分が正しいことを理解することになった。爆発したビルの中から、七本の脚を忙しなく動かす、紫の怪物が現れたのだ。
「妖魔です」
「知ってらあ」
人の負の感情が、魂のエネルギーたる霊力を以て実体化したもの。それが妖魔。不倶戴天の敵。
それを前に、蓮はファイティングポーズをとった。
「何をしているんですか! あれの狙いは私です!」
「なら、俺が引き付けてその間にあんたが逃げればいい。そうだろ?」
「馬鹿なんですか⁉」
白い肌、人形のような顔つき。振り向いた蓮は、彼女が先ほど見た写真の少女であることに気づく。
「あんたを探してる人がいた。犬を三匹連れてんだ、すぐわかる。ここは俺に任せろって──」
恰好をつけて微笑んだ彼は、妖魔の体当たりで弾き飛ばされた。公衆トイレの壁にぶつかる直前に体勢を立て直し、着地。道具の使い方はよくわかっている。肉体という、喧嘩の道具なら。
そのまま地面を蹴り、這いずるような動きを見せる妖魔を一発殴る。ゲルに手を突っ込んだような不思議な手応えだった。そう、意味がない。
「あなたでは無理です!」
「逃げろって言ってんだろ!」
腕が抜けないまま声を上げた彼は、高く、高く上空へ突き飛ばされた。十メートルはあろうか、という高度だ。
「やっべ……」
脳裏を過る、死の一文字。喧嘩ならそれなりにしてきた。だが、地獄に行くとは思っていない。いつだって戦いは守るためにやってきたつもりだ。爆弾で吹き飛ばされた母や妹のような人が出ないように。家族をほっぽりだしてどこかに行った父のようにならないために。
そっと目を閉じる。覚悟は──あるはずもない。
「死にたくねえよ~~~!」
間抜けな絶叫が響いた、その時。巨大な鳥に乗った一人の少年が、彼を受け止めた。
「何やってんだ、お前」
先ほど尋ねてきた少年だった。
「妖魔は霊力でしか消し去れない。ただ殴っても無意味だぞ」
少年は蓮を安全に降ろすのに次いで地面に立った。
「こいつは俺がやる。お前はそのガキ連れてどっか行け」
高圧的で、冷たい声。その足元の影から、あまりに醜い黒い虎が現れた。と、同時に、彼はスマートフォンを取り出して蓮の端末に地図の情報を飛ばした。
「ここに行け。そうすれば助けてくれるはずだ」
「……わあったよ!」
蓮は少女の手を引いて、駆け出した。いけ好かない野郎だが、正論は正論だ。それくらいの頭はあった。
「あんた、名前は?」
地図を片手に走る中、彼は問うた。行先は霊災対策云々。漢字が五文字並ぶと読みたくなくなるのが蓮だ。
「……
「かわいいじゃん。俺は八鷹蓮。よろしくな」
返事はない。特に気取ったつもりもなく、彼はそれ以上のことを求めないまま、少し寂しい地方都市を駆け抜けていた。
「あの野郎、名前は……けい、わた……」
慧渡風間。共有元の名前を表示する機能で漢字だけはわかった。
「カザマ、か。なんかカッコつけた名前だな」
雪音の右手には、紅い腕輪がある。単なる装飾品にしては無骨で、まるで鎧の一部分だけを着けているようだった。
それはそれとして、蓮は赤信号に脚を止められる。少し逡巡してから、断りもなしに彼女を抱き上げた。
「え、何を⁉」
「突っ切るんだよ!」
クラクションを鳴らされながら横断歩道を走り切った頃、彼はようやく行先のことを理解する。霊災対策一課第二小隊本部。妖魔を倒すための機関だ。襲われた時に逃げ込めば保護してくれる。授業でそんなことを言っていた。
「なら、近道はこっちだ!」
ノースリーブの白ワンピ少女を抱えている、というのは、一見すれば誘拐にさえ思える。だが、それは今の彼にとって些事だった。周りも碌に見ないで狭い道に入る。その判断が、間違いだった。
道を塞ぐように、甲虫型の妖魔。引き返そうとすると、今度は蜘蛛型の妖魔が影から生成された。
「……詰み?」
蓮が呟く。雪音に促され、下ろす。
「一つ、手があります」
と彼女は言う。
「しかし、あなたの一生を縛ることになります。それでもやりますか」
「死ぬよかマシだろ。どうすりゃいい」
そう問う少年の声には、年齢に似合わぬ覚悟が滲んでいた。
「
説明しながら雪音は腕輪を外す。
「試作型万能転送式装甲戦闘服……平たく言えば、着ればスーパーヒーローになれる兵器です。しかし、一つリスクが──」
その途中で、馬鹿で無鉄砲で短気でおまけにガサツと来た少年は、紅いブレスレットを奪い取った。
「これでも勘はいいんだ。どんな家電だって説明書読まずに使えるんだぜ、俺」
直感的な声に従って、蓮はそれを右腕に着ける。細い肢体にピッタリ嵌っていたはずのそれは、今度は年頃らしい太さの腕にフィットする。
「その前に、私の血を飲んでもらいます」
「は?」
返答を待たず、雪音はスカートの中から取り出したナイフで、指先に切り傷を付けた。
「口を開けてください。これが、起動のキーです」
不味そうだしなあ、と迷う彼だが、選択肢はない。何より、この腕輪を使うにはそうするしかないことを自然と理解していた。
故に、彼は跪いて血の一滴を飲み込んだ。途端に襲ってくる、体の内がザワザワとする感覚。
「霊力回路を作り替えています。後は掌を──」
またもや説明を遮って、蓮は合掌する。腕輪が、輝き出した。
「霊力回路パターン──認証。他者防衛感情──認証。夜海原、転送開始」
彼の周囲を闇が覆う。十分の一秒もすればそれは晴れて、現れたのは黒いインナーに銀色の装甲を纏った、白虎を思わせる仮面の戦士。
「かかってこいやー!」
こうして、八鷹蓮は自身の運命を動かし始めた。何が待っているかも知らずに。