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「『ふっふっふ、無敵のヒーローもここまでのようだな』

 『暗闇から忍び寄るような声があたりにこだました』

 『くそっ……、だれだ、姿を見せろ!』

 『誰もいるはずのない空間へ一太いちたは声を』───


 あ、先生、手が止まってますよ! ほら、早く書きとってください、もう一度繰り返しますから」


 わくわくとした男の声が、市ヶ谷を天真爛漫に叩きのめす。

 できることなら握りしめている鉛筆を放り投げ、両手で耳を押さえて塞ぎたい。


「うそだろおおお…… こんな、こんな羞恥プレイ……」


 きっと市ヶ谷は泣いていい。

 男が提示した案とは、『読み上げの書き取り』だった。

 食べた文字列を、男は一字一句正確に語ることができるのだという。それを書き起こしてもらえば、まったく同じ原稿ができるし、なにより語っている間は男は文字を食べることはできない。


 なんてすばらしいアイディア! 「羞恥が殺しに来てる!」


 いや、冷静になって考えてみれば、プロ作家の方でも自分の文章を読み上げて相手に聞かせ、文字の流れが滞ってないかなどをチェックしている…… という話を聞いた。

 この手法はれっきとした実績のある方法で……


「『やめろ! 桃花ももかに手を出すな!』

 『きゃーっ たすけて、一太!』」

「やめろください、死んでしまいます!」


 ドン、と壁が鳴るので、ああ(社会的に)死んだのだ、と市ヶ谷は静かに目を閉じた。

 そして、そんな状況とは対極に仁王立ちしている男が、キラキラと輝く笑顔で市ヶ谷を振り返る。


「先生、進捗どうですか、そろそろ俺が一番好きなシーンですよ!」

「くそおお絶対嬉しい言葉なのに複雑な気持ちにさせやがってええええ……!!」


 なぜ純粋に諸手を上げて喜ばせてはくれないのか。

 涙で滲むのを堪えながら見上げた男の顔が、ただひたすらに嬉しくてたまらないという色に溢れていたのが、せめてもの救いだろうか。




 真っ白だった原稿を完全復旧させた市ヶ谷は、この4時間ほどで体重が4キロほど減ったのではないかと思われた。

 幸いだったのだ…… と自分に言い聞かせる。

 もう二度と同じものを作れないと思っていたものを完全に復活させ、更に(更にだ)、読み上げられて気になった点を随時修正していくことができた。


 こればかりは、たしかに、あの男がいなければできなかった(しなかった)ことだ。

 市ヶ谷が「ありがとう」と男に言うと、彼は、とても驚いていた。驚いて… それから嬉しそうに笑ったのだ。


 もう一度封筒に原稿を収め、市ヶ谷は男に食べられる前にポストに投函しようと部屋を出た。

 あえて聞きはしなかったが、─── 部屋に戻ったとき、男はまだそこにいるだろうか。


 大型郵便の口へ投げ入れる手が、一度止まる。

 はあ、と市ヶ谷は白い息を吐いて、突っかかっていた封筒を押し込んだ。


 物の怪か神さまか、どちらでも構わないが、朝からあれだけうるさかった奴が忽然と消えているのも少し寂しいものかもしれない。

 市ヶ谷は冷たい空気の中で、少し感傷的になっている自分に気付いていた。

 自転車に跨り、そうして、─── こういう描写、しっかりとフラグになっているんだよな、と物書きの脳みそが笑う。




 玄関を開けると、男が土下座をしている。

 瞬間、市ヶ谷は次の公募作品が仕上がり掛けていたのを思い出した。


「すいませんっでしたあああ!!!!!」

「やめろっ、死んでしまうからっ!!」




 新たな戦いのゴングのごとく、壁がドンと鳴った。



(やめてください、死んでしまいます 了)


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