ともあれ、男の言っていることはもっともだった。
勢い人を刺してはいけない。そんなことよりもまだやるべきことも、やれることもある。
明日の午後3時までに投函できていれば有効な消印は手に入る、はずだ。
「もうまったく同じものは書けないだろうが、思い出せるところから書き出していこう」
「すみません……」
「いや、もういい。なってしまったものは致し方ない」
「なにかお手伝いを」
おそるおそると尋ねる男に、なにか……と考えたが、とくに今、買い出しに行ってもらいたいなども無かったので、「静かにしててくれ」と答えた。
男は執筆用のデスクの前に静かにたたずむ。目の前に何某かの気配があると微妙に居心地が悪いのだが、気にせず市ヶ谷は鉛筆を手に書き出した。
ふと、目の前の空気が動き、男の指が視界に伸びた。
指先が原稿用紙の上に置かれ、ずるっと書き出した文字列を摘まんで引き出す。
摘まみ上げられて揺れる「す」の末端を目で追いかけると、あーん、とばかりに男は口の中へ文字列を放り込んだ。
市ヶ谷はおもむろに頷く。
「そうか、人外ならば刺してもワンチャン問題ないのでは」
「すいませんすいません、我慢できないんです、問題あります、しんじゃう、さすがに」
なんと、意外に脆い造りをしているのだ、と市ヶ谷は思った。
キッチンへと向かおうとする自分の腕を必死に掴む男は、「いい匂いがして我慢ならんのです~~」と情けない声で訴えた。
男にとって、市ヶ谷の文章は焼きたてのクッキーのようなものなのだ。
手書きはだめそうだ、と市ヶ谷はため息を吐いた。
およそ現代社会というものから大きく距離を置いていると、市ヶ谷は自負している。
「パソコンなんて開くの一年振りくらいだぞ」
「え、社会に出たことないタイプですか」
「何だそのタイプ、野生か」
どうも先ほどから、この男は自分を何かしらのカテゴリーに分けたいらしい。
総合すると、純粋にやばい社会に出たことないタイプになるが、それは真面目に深刻なタイプである。
久しぶりにパソコンを起動したことがある人間は察することができるが、真面目に深刻なタイプの市ヶ谷は、まさか起動から軽く一時間ほどシステムアップデートが走るとは思いもしなかった。
意識を失っていたらしい。
「先生!」「誰が先生だ」
男に肩を揺さぶられた市ヶ谷が意識を取り戻すと、パソコンは「なにかありました?」くらいの空気で「ようこそ」と爽やかに起動画面の文字を映し出していた。
やっとテキストファイルを開き、文字を打ち始めた市ヶ谷だったが、ブラインドタッチも覚束ない。
もしかしてスマートフォンで打ち込んだ方がまだ早いのではと思い始めたころだった。
再び男の腕が上がり、四角い指先が視界に降りてきたのが見え、いやな予感がした。画面には、やっとこさ3行ほどを打ち込んだテキストがある。
とはいえ、これは電子媒体だ。紙と同じようにはいくま─── 「いけるんかーい」
思わず平淡なテンションで市ヶ谷が突っ込む先で、男の指がカチカチと揺れる電子の文字列を摘まんでいた。
うむ、と食んだ男は頷く。
「これは新食感すわ。実はちょっと気になってました」
「こいつ策士か。刺してえ……」
「USBを? 確かにバックアップ保存しておいた方がいいですよ!」
にこ、と男は笑うので、話しの通じねえ相手にギリィ、と市ヶ谷は歯ぎしりをした。その上、こんな話も通じない男がなぜユニバーサル・シリアル・バスとその用途を知っているのか。自分より相手の方が社会適応しそうなことも含め納得がいかぬ。
だが、手伝いたいと言いながら悪意のないこの仕打ち、確かにこの男は人間ではないのだと市ヶ谷は痛感した。
パソコンとの悪戦苦闘、さらにつまみ食いを仕掛けてくる男との攻防に、市ヶ谷はほとほと疲れ果てていた。
3時間も耐えたのは讃えられて良いだろう。
市ヶ谷はついに、握りこぶしでデスクを叩いた。
「いい加減にしろ!」
怒鳴り散らすわけではないのに、低く静かに怒気を放つ市ヶ谷に、男はやっと相手がここまで耐えてきたものの重みを知った。
ぎゅっと気配に絞られるように、男は身を縮こませる。
「お前には数時間ちょっとで食べきられる程度のものかもしれないがな、こっちは遊びで作ってたわけじゃねえんだよっ」
「そ、それは……!」
違う、と男は言いたかった。たしかに時間換算してしまえば、自分が食べた時間と、相手がその物語に費やした時間など比べ物にならないが。
そうではないのだ。この作家の物語は、簡単に時間換算できるものではなくて……
だが、そんな自分の言葉を、市ヶ谷は望んじゃいないだろうと男には分かってもいた。
市ヶ谷はこれ以上の言葉を投げつけることは無かったが、言外に、明らかな退出命令を出している。
男はその気配に気圧されそうになるが、ぐっと両足を踏ん張った。
思わず外してしまった視線を、もう一度、市ヶ谷に向けて顔を上げる。
何かを決意したような男の表情に、市ヶ谷は眉を顰めた。
「じつは、俺に一つ、案があるんです」
「知らん、聞く気は無い」
「聞いてください、一字一句間違いなく、もう一度起こせる方法なんです」
「…… 嫌な予感しかないな」
そんな都合の良い話と、ばっさりと市ヶ谷が切り捨てると、男はグッと唇を引いた。
即座に反論してこなかったのが逆に気になり、市ヶ谷が男を見ると、─── 不意に背筋が泡立った。
それは静かな視線だった。
「たしかに…… この方法は、先生の苦痛を伴うかもしれません。
だから、ここまで言い出せなかったのですが」
「なんだよ、それ……」
そう警告しながらも、男はそれをきっと言うほど気にしてはいないのだ。先ほどの、文字をつまみ食いするのと同じように。市ヶ谷の状況など構わない。
男は、何かを決めてしまった目をしている。
そうして彼は口を開き、痛みと引き換えのその方法を告げた。