そうか、と市ヶ谷もゆっくりと頷き、ゆっくりと立ち上がり、ゆっくりと小さなキッチンから三徳包丁を抜いてきた。
「あーーーー待ってください、待ってください、ちょっと展開が読めなかった」
「100人読んだら100人が思うくらい簡単な展開だわ、許すまじ」
「初手から包丁持ち出します?! 狂気感じますよ!」
「作家という生き物を侮るなかれ、狂気が無ければ物語など書かない」
「あ、この人純粋にやべえタイプだ!」
切っ先を突き出そうとする市ヶ谷の手を、男は必死に掴んで止める。軟弱そうに見えて意外に力があるようだ。
いや、ロクに身体を鍛えもしないぷよぷよな腹筋を持つ市ヶ谷が相手だったからかもしれないが。
男は青ざめた顔で、眼前の切っ先から市ヶ谷へ視線を動かした。
「あ、あなたの物語は……っ とても美味しかったんです!!」
それは、意味の分からない感想であったが、市ヶ谷は包丁を突き出そうとする力を止めた。
作家という生き物は、読者の感想にめっぽう弱いのだ。
男は市ヶ谷の手を掴んだまま語った。
「俺、実はなんでも食えるんですけど、その中で文字が一等好きなんです。
これまでたくさん作家さんの原稿を食ってきたけど……
最近は手書きの原稿も少ないし、めったに美味しい原稿にありつけなかったんですが……」
中国かどこかの神さまに、なんでも食ってしまうやつがいたような気がしたが───
なんと、この男の話を信じれば、どうやらこの悲劇の被害者は自分だけではなかったようだった。
市ヶ谷は痛んだ胸と共に、目の前の人畜無害な顔をした男に貪られた原稿たちとその作家へ黙とうを捧げる。
市ヶ谷の静かな様子に、男は自分の話しを聞いてもらえていると思ったのか、にこりと笑った。
「あなたの手書きの原稿は、これまで食べてきたものの中で群を抜いて美味しかったんです。
だから、もう一度起こしましょう! きっと、面白い作品だったんです。食っちゃった俺がいうのもあれですけど、たくさんの人に読んでもらいたいです。
俺、手伝いますから!」
ぐっと、自衛のために掴んでいた手は、訴えかけるための力に変わっているようだった。
信じて疑わない、といったような男の眼差しが眩しい。こんな表情で自分の作品へエールを送られては、どうしてこれ以上、この男を責められようか。
市ヶ谷は、自分の中で段々と怒気が薄れていくのを感じていた。
そうして次に、この現実離れした状況に及んでまで現実的な可能性を持ち出す脳みそが思い浮かべたのは。
「…… いや、それって単にお前の好みに合致したってことでは?」
「……」
「おい、違うだろ、その展開じゃないだろ、ここは熱く反論をオイ目ぇ逸らすな!」