枕元に人が立つ、という話はありがちな話ではある。
だが、土下座されたというのはあまり聞かないな。と、目覚まし代わりにしているスマートフォン端末を手に取り、作家志望の男──
現在、朝の7時である。
遮光カーテンから差し込む朝陽が爽やかだ。
土下座しているのはどうやら男で、ふかっとしたフードの付いているパーカを着ており、髪は短髪黒髪。顔は見えない。
土下座しているので推測ではあるが、たぶん中肉中背といったところだろう。
市ヶ谷はとりあえず起き上がり、布団の上に胡坐を組んで男と向かい合った。
じつはスマートフォンには110の番号を打ち込んではいるのだが、すでに不審者は部屋の中にいる。この状況をどう考えるべきだろう。
とりあえず、なにかコミュニケーションを取れるのか確認しよう、と市ヶ谷は内心で頷いた。
「あの」「すいませんっでしたあああ!!!!!」「うわ…」
早くも後悔がこんにちわしている。とりあえず日本語が通じることは分かった。
だが、男は頭を上げないし、ついでに音量据え置きで続けるのだ。
「申し訳ございませんでしたあ! あなた様の小説を、
「…… え?」
何を言っているんだコイツは。
市ヶ谷は寝起きの脳みそで一瞬ぽかんとした。が。
「─── ぉいおいおい……?!!」
急速に首筋の血液が湧き立ち、寝ぼけた脳みそを高速回転させる。
思い当たることが一つあった。
果たしてこの土下座マンが何をしたのかは分からないが、市ヶ谷は飛びはねるように立ち上がり、ワンルームの簡素な部屋に据えられたデスクへ駆け寄る。
起きたらポストへ投函しようとしていた封筒が開けられている。
その上に丁寧に重ねられた原稿用紙を見て、一瞬、裏を上にされているのかと市ヶ谷は思った。思いたかった。
骨が軋んだ音を立てて、市ヶ谷は土下座している男を振り返る。
数時間前にようやく書き上げた400字詰め444枚の原稿用紙。
が。
目が覚めたら、────
ようやく顔を上げた男は、どこにでもいる平凡な顔立ちだった。多少垂れ眼のようにも見えたが、顔の全面に「申し訳ない」と押し出ていたのでそう見えたのかもしれない。
「俺の原稿どこやった……?!」
だが、市ヶ谷はそれどころではない。手にした原稿の束を持って男の前に行くと、その顔に用紙を押し付けるようにして叫んだ。
「やめてください、いまお腹いっぱいなんで!」
「幸せか! それはどういうことだって聞いてんだよ!」
「そのまんまですって!」
押し付けられる原稿用紙を両手で押し返しながら、男は答えた。
「この原稿はあなたが小説を書いていた原稿で、俺は、その文字を全部食べてしまったんです!」
そんな馬鹿な……
市ヶ谷には到底受け入れられない発言であったが、手にしている原稿は真っ白なのだ。
葛藤する市ヶ谷に、男はどうしたものかと困った顔をする。だが、すぐに壁に掛かっているカレンダーを見つけると、男は立ち上がってそれに指先を添わせる。
「こういうことです」
5×7のマス目に並べられた中の4の数字の上を、彼の指先が摘まみ取るように動いた。
というか、
「え」
するりとカレンダーから抜き取った4を、男はぱくりと口に入れてしまう。
残ったのは、4を欠いたカレンダー。
最初からそこは空いていたのだと錯覚しそうなほど、違和感がない。
「不味いすわ」
「あ、はい」
もぐもぐとしていた男のぞんざいな感想に、反応のしようがない。
市ヶ谷はもう一度、自分が手にした原稿を見下ろした。
「いやいや、違うでしょ?! そういう反応じゃないでしょ!」
「え、なに、急にどうした」
突然ガッシと男に肩を掴まれ、思わず身を引いてしまう。相手の距離感が掴めないのは一人の人間として純粋に怖い。
だが、男はお構いが無かった。
「物語の人たちはこういう状況になったら、何者だ?!て聞くじゃないですか」
「お前は最初から不審者一択だろ」
「広いですよ括り方が!」
言われましても……
男の反応に市ヶ谷は困ってしまったのだが、突然、壁から鈍い音が聞こえた。いわゆる壁ドンではあるが、この種類はトキメキなど皆無である。
市ヶ谷は慌てて原稿で男の口を押さえた。現在、朝の7時14分。まさか15分程度でこんな無駄に濃い現実に遭遇するとは。
「とりあえず静かにしてくれ。お前がどこからどう侵入したのか知らんが、アパートなんだよここは」
「す、すみません……」
とりあえず、アパートがどんなものかという知識はあるらしい。しゅん……、と大人しくなった男に、市ヶ谷は「とりあえず座れ」と促すと、目の前に正座された。
距離感…… 思ったものの自分で一歩下がり適切な距離を取って座る、基本的に他人へは消極的な市ヶ谷である。
「ひとまず、手品ではないことは分かった」
「はい」
「お前の話しを信じたいと思う」
「ありがとうございます……!」
「念のためにもう一度確認したいんだが、この白紙の原稿は、お前の仕業だってことなんだな?」
「はい!!」
自分の話を存外素直に信じてくれた市ヶ谷に、男は輝く笑顔で頷いた。