どれくらいの時間が経ったのだろうか……数分か、数時間か。それとも、それ以上……。
とても不思議な感覚。いまだに体がフワフワと宙に浮いている気がする。
ふと、風が肌をなで、土と草木の匂いが鼻をかすめた。
そっと目を開けると、見知らぬ草原が一面に広がっていた。
「ここが……異世界」
目の前の景色は、意外なほど現世と変わらない。ただ、空だけがはっきりと違っていた。
太陽のような光源の隣に、それよりひと回り小さい、月のような天体が浮かんでいる。
(あんなもの見たことがない。やっぱり、ここは……異世界なのか)
そう考えた瞬間、ふと気になることが頭をよぎった。
(転生したってことは、俺の見た目も変わってたり……しちゃう?)
服装は鬼に食われる直前のままだ。装飾品も同じ。唯一、母にもらったお守りだけが見覚えのない首飾りに変わっていた。
(これが……イーリス様が言っていた、アイテムボックスだな)
顔の変化も確かめようとしたが、鏡なんて都合よく持っていない。代わりになるものがないか……と辺りを探し、ふと名案が浮かんだ。
(お、そうだ、こいつがあった)
金光を鞘から抜き、刃の腹に顔を映す。……思わずため息が漏れた。
「はぁ〜。ちったぁ~男前に変更してくれても構わなかったんですよ、イーリス様……」
そんなことをぼやいていると、近くの木の上で小鳥たちが楽しそうにさえずる声が聞こえてきた。
『虫がたくさん採れたよ!』
『僕はきれいな小石を拾ったんだー』
(……? あぁ、イーリス様の加護で動物たちの言葉が理解できるようになったのか! すげぇ!)
『ザザ! バサバサバサッ』
突然、小鳥たちが一斉に飛び立つ。
ざわ、と草むらが揺れた。何かがこちらに近づいてくる。
(なんだ……。何か来る⁉)
俺は金光を構えた。
草むらから現れたのは、見たことのない、狼のような獣だった。
(もしかしてこれが……魔物⁉)
全身が粟立ち、足がすくむ。鬼に襲われた時ほどではないが、恐怖が全身を支配した。
『ガルルルル〜(久々の人間だぜ〜)』
(あぁ、こいつ、俺を喰う気満々だ……)
やらなきゃやられる——そう頭では理解しているのに、体が動かない。
魔物が飛びかかってきた。避けようとしたが、情けないことに、またもや腰が抜け、尻餅をつく。
(くそ……これじゃあの時と同じじゃないか)
覚悟を決め、目を閉じ、その時を待つ。
(俺なんか食べても美味くないぞ〜。でもまぁ、仕方ないか。弱肉強食ってやつだな……)
『ガルルルルー、グァッ!(いっただきまーす、グァッ!)』
——なぜだか痛みを全く感じない。
不思議に思い、そーっと目を開けると、魔物の姿が——ない⁉
「……あれ? 助かった……のか?」
ふと、手にした金光の刃に、黒々とした血がべったりと付着していることに気づいた。
「うわっ、ま、まさか……」
ゆっくりと振り向くと、そこには真っ二つになった魔物の死骸が転がっていた。
「これ……俺がやったのか?」
信じがたい。でも、どう考えても自分の仕業だ。
「イーリス様の加護……何でも切れるって、本当だったんだ! 助かりました、イーリス様!」
思わず天に向かって叫んだ瞬間、体がふわりと金色に輝いた。
まるで、その声が天に届いたかのようだった。
魔物の死骸に目をやると、心臓付近に青く光る石が埋まっていた。
恐る恐る近づき、それを拾い上げた瞬間——死骸が灰になって風に舞った。
「うわっ、どうなってんだ? 跡形もなく消えちゃったよ……。なんかキメェェ」
とりあえず、初の魔物討伐の記念品として、その石を首飾りへとしまったその時——。
『シュッ』
「あっ、スられた!」
気づいた時にはもう、盗人はかなり遠くへ逃げていた。
だが——。
「う、うわぁぁぁぁー!」
盗人が、俺の方へズルズルと引き寄せられてくる。
そう、この首飾りには“一定距離以上離れると持ち主の元へ戻ってくる”という加護がついているのだ。
尻を地面に擦られながら戻ってきた盗人は、俺の足元でうずくまり、苦悶の表情を浮かべている。
「おい、盗人……って、子どもじゃないか⁉」
うずくまっていたのは、痩せこけた少女だった。
「ほら、さっさとそれを返すんだ。さもなくば……(あれ? さもなくば……どうするの? 殺す? いやいや、殺生はいかんよ殺生は……。あ、でもさっき魔物を……いや、あれは正当防衛だしな……)」
モゴモゴしている俺の前で、少女は突如土下座し始めた。
「ごめんなさい、ごめんなさい! お返ししますから、命だけはお助けください、ごめんなさいですー!」
きっと、魔物を倒したのを見てたんだろう。俺が強いと思い込んでるに違いない。
……実際はビビって腰抜かしてただけなんだが。
「素直に謝るのはいいことだ。でも、盗みを見逃すわけにはいかないな。どうしてこんなことしたんだ?」
「……お腹が空いていて……魔含を売ればお金になるから、つい……」
(この子、腹が減ってるのか。でも、食べ物なんて……あ、そうだ!)
腰につけた小袋を探す——が、ない。
「えっ、あれ? あれれ?」
慌てて身体中をまさぐるも、きびだんご入りの袋が見当たらない。
少女が不思議そうに俺を見つめていた。
「あっ、もしかして……この中か!」
そう言って、少女から返却されたアイテムボックスに手を突っ込む。
「おぉ、あったあった! イーリス様が気を利かせてここに入れておいてくれたんだな。そういえば、この中に入れた物は腐らないって言ってたっけか」
袋からきびだんごを一つ取り出し、少女に差し出す。
「これでも食え。うめぇぞ! 食ったらちゃんと改心して、真っ当に生きるんだぞ」
そう言って立ち去ろうとしたその時——。
(……待てよ。きびだんごの効果って異世界でも有効なんじゃ……? だったら食べさせない方が——)
「うんまぁ〜い!」
一足遅かった。団子はすでに少女の胃袋の中だった。
「お、おうよ! 俺の親特製のきびだんごだからな」
その味が異世界でも通用するとわかって、ちょっと嬉しくなる。
「盗みをしたのに許してくれて、お腹空いてたところに団子までくれて……ララ、このご恩、一生かけて返しますです!」
「い、一生だなんて大袈裟な(これは……きびだんごの効果なのか?)」
「いえ、ララの一生を、あなた様に捧げますです!」
「あー、わかったわかった。お願いだから頭を上げてくれ。ララと言ったかな。俺は桃太郎だ、よろしくな」
「桃太郎様……。変な名前」
(ズコッ! し、失敬な。俺は忠誠を誓った主君的な存在じゃないのか? いやまぁ、この世界では珍しい名なんだろうけどさ)
「ああ、ちょっと遠いところから来たものでな。ララはこの辺りの出身か?」
「はい、ララはこの先の“テソーロ”という街のスラムに住んでいます」
(街か……異世界の街! 行ってみたいな!)
「ララ、そこまで道案内してくれないか?」
「はいっ、喜んで!」
こうして俺は、異世界で初めての仲間——なのか? ララと共に、最初の一歩を踏み出した。