目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第17話 そうしてそこには何もなく

「なんとも無くて良かった。

 あんな事態の直後だ、長尾が今度は貰ってしまったのかと思った」


 乾いた青空を眺めながら、籠澤は白い息を吐く。

 長尾が目を覚ましたのは病院のベッドの上だった。喫茶店で意識を失い、病院に運び込まれたが、外傷も無ければ異常も無い。そのうち目を覚ますだろうと簡易ベッドに移され、駆けつけた父と付き添っていた籠澤が見守る中、長尾は目を覚ましたのだ。

 身体上の異常はないが、長尾は籠澤に尋ねた。


「もう、黒い影はないのか」


 自分自身を指す長尾に、籠澤は笑って頷いた。


「大丈夫そうだ。昨日は服の上からでもぼやけてたくらいだった」

「そうなのか……」


 顔に現れた異常だけが見えているのかと思っていた。何も見ず、何も分からない籠澤をして見えた黒い影。

 そしてその籠澤が、あのとき写真に何を見たのかを尋ねたのだが、彼は視線を逸らして笑った。


「聞かない方がいい…… というよりも、俺が口に出したくない」


 まさかそんな拒絶の仕方をされるとは思わなかったので、長尾もそれ以上を追求することができなかった。それ以前に、籠澤のその表現だけで、あの写真がどんなものだったのかを容易に推し量ることができてしまったのだ。

 そんなものをずっと持っていた芦倉は……


「結局、『芦倉』ではなかったんだな」

「ああ」


 警察署に連行された『芦倉』は、所持品から

 警察から連絡が来て、再度長尾と籠澤に事情を聴きたいということで、先ほど二人で警察署を訪れてきたところだった。

 長尾や籠澤と全く関係のない、あの写真とも関連の無い…… 何者でもない人間。


「やっぱり彼もまた、写真の呪いの被害者だったってことだ」

「これで、さっぱり呪いの大元への手がかりが無くなったな。

 影も無くなったし、追いかける気もさらさら無いけど」


 『芦倉』だった男は今しばらく落ち着く様子が無いらしく、面会はできなかった。おそらくこのまま顔を見ることなく帰されるか、別の場所へと移送されるだろうと籠澤と話していた。

 今回の始まりとなった写真も手元にない。

 これで全部、自分たちが手を出せる要素も必要も無くなった。

 何も無くなったのだ。

 だが、長尾は一つ、元凶の目測が付いていた。意識を失っている間に見た光景が、ただの夢で終わらせるにはあまりにリアルであった。


「長尾は」


 長尾が見つめた先で、籠澤は尋ねた。


「なんであんなに、他人のために動くんだ。

 今回の長尾の行動は、人が好いなんて言葉で括れないくらいだった。

 何度止めようと思った…… というか、実際止めたけど聞きやしないし」


 と、長尾を振り返る籠澤の顔はやや怒っているようにも見えた。

 確かに、再度『芦倉』に会おうとしたときに止められたような気がする。長尾は籠澤の質問に、ジャケットのポケットへ手を入れながら返した。


「俺の家が父子家庭だってのは、知ってるよな」


 籠澤は頷く。高校の時に、薄っすらとその話は籠澤にも届いていた。

 高校に上がる直前、長尾は母親を亡くしていた。その影響もあり、長尾は学校が終わるとすぐに帰宅していたのだった。

 彼の家庭がどんなもので、どうやって乗り越えてきたのかは分からないのだが、駆けつけた長尾の父の様子を見る限りでは、自分の父親と変わりない絆を持っているように籠澤には感じられた。


「母さんが生きている間に、あれをすれば良かったとか、これをすれば良かったとか、後から後から出てくるんだ。

 もっとできることがあった、とか……

 よく考えれば、ガキの自分にはできないことの方が多いんだけどな。でも考えてしまう。

 それが結構きつい」


 淡々と長尾は語る。その淡白さが、かえって籠澤には真実味があった。


「そんなだから、あんまり『できなかったこと』で思いつめたくないんだ。母さんのことくらいで十分だ。

 だから、今回も自分のできる範囲いっぱいは、やり切った。やり切ったつもりだ。

 『芦倉』は、…… 助けられなかったけど」

「あの人は、最初から手遅れだったんだよ」


 どこか無機質に、籠澤が落とすように呟いた。

 長尾が彼を振り返ると、籠澤は少し不思議な笑い方をした。苦笑だったのかもしれない。


「長尾が気にすることじゃない。十分、長尾は彼のために動いたよ。

 そうか。長尾にはそういう理由があったんだな」


 そうして、籠澤は続けて言うのだ。


「長尾、あまり、これからは俺の近くに居ない方がいいかもしれない。

 おかしなことに巻き込んでしまうかもしれない、から」


 突然の忠告に、長尾は怪訝な表情を浮かべ─── 目を、開いた。


 なぜ、籠澤が普段は近寄りもしないオカルト話に積極的に関わったのか。

 なぜ、『穂月』の怪異を呪いであると断定したのか。

 なぜ、その呪いの絶対的解決を、本家に求めようとしたのか。


 籠澤は、最初から関与している者の正体を勘付いていたのではないだろうか。

 籠澤に誰か…… あの黒い影たち……





「─── いや、何も無かった」


 返って来た長尾の答えに、今度は籠澤が驚く番だった。

 長尾が笑う。吹っ切れたような笑顔で。


「今回の件が、『認識』することで起きていることなら、とするのが一番の対処方法だろ。

 何もなかったよ。いつも通りに学校に行って、ちょっとさぼった授業もあったくらいだ。

 だから、俺が籠澤と距離を置く理由もない」


 『穂月』も『芦倉』も、結局誰もいなかったのだ。

 自分や籠澤を含めて幾人もの人間が、何か特異なことに遭遇していたが、その真ん中にはただ真っ黒な空洞があるだけだった。

 その空洞を見つめるから、闇が存在してしまうならば。

 …… 何もなかったのだ。


 籠澤は少しの間、考えを巡らせるように視線を色々投げやったが。

 やがて、思わず吹き出してしまった。

 なるほど、と。蒼天に笑う。


「何もなかったことにするには……、ちょっと大きすぎやしないか」

「大きすぎるも何も、何もなかったんだってば」

「警察に行って来たのに」

「散歩だろ」


 長尾の言葉に、籠澤は今度こそ腹を抱えて笑った。

 上体を折って笑う籠澤の向こうに、長尾はセーラー服の影を見たが、…… そっと目を伏せて前を見た。

 その耳に、小さな声が届く。


「ありがとうな、長尾」





「本田から連絡来てるな。今日も授業来ないのかって」

「午後には間に合う。散歩してたって伝えてくれ」

「散歩な」


 スマートフォンを打ち込み、籠澤は歩き出した。その隣を長尾も同じ歩幅で歩いていく。

 青く青く晴れた空の下、引き千切れはしない影を連れて。




(そうしてそこには何もなく 了)

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?