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第16話

 芦倉の番号は長尾のスマートフォンの中に残っていた。

 そもそも、最後の手段を取ろうにも芦倉と連絡が取れなければ実行できない。祈る気持ちで長尾は芦倉の番号をタップした。

 やがて、コール音が途切れる。


『……』

「芦倉か。出てくれてありがとう」

『何か用?』


 返って来た芦倉の声は酷く冷たいが、返って来たこと自体が成果だ。

 長尾は確かな繋がりの手ごたえを感じ、話を続けた。


「これから会って話ができないか。もう一度芦倉に確認したいことがある」

『もう俺は、長尾に会う理由が無い。

 確認ならこの通話でできないのか』

「できれば顔を見て話したい。

 芦倉のことが心配だ」

『……』


 自分を異様な事態に巻き込んだ相手に対して、それは過保護が過ぎるのではないかと籠澤は思っていた。

 なぜ彼は、ここまで誰かのために動くことができるのだろう。自分の身を省みることもせず……

 通話をしている長尾が幾度か頷き、─── 「じゃあ、待ってる」と告げるとスマートフォンを下ろした。


「呼べたのか」

「ああ」


 事も無げに長尾は頷くのだが、昨日見た芦倉の様子から再び呼び出すことができるのは相当なことではないだろうかと、籠澤は驚いていた。

 その驚きを分かったのか、長尾は籠澤を振り向く。口元は真っ黒く塗り潰されたように見えないが、長尾の目元が緩んだのが分かった。笑ったのだ。


「もしかしたら、芦倉も無意識下では、危機を察知しているのかもな。

 頼ってきてくれているのならば、ありがたい。話ができるかもしれない」


 長尾はそう言うのだが、籠澤はどうしようもなくなったら彼の手を掴んで逃げる算段をつけていた。




 果たして、芦倉は喫茶店にやってきた。

 数時間前に『穂月』の影を見たいつもの喫茶店だ。あんなことが起こった直後に同じ店を…… と籠澤は思ったが、芦倉に新しい店を連絡するタイミングが無かったらしい。

 長尾のスマートフォンには芦倉の番号はあるが、メールアドレスは無かった。

 詳細な場所を伝えるには、少し時間が足りなかったのだ。


 二つのテーブルをくっつけた四人掛けの席。前回と同様、長尾と籠澤が並び、芦倉は対面の形で座っている。

 できるだけ周囲に人が居ない席を取った。時間帯もランチが終わり午後の一服にはまだ早い。

 長尾はそっと周囲を窺った。がどこかに見えないかと確認したのだ。

 今はまだ、理不尽な恐怖も無い。


「確認をしたいことって、何」


 昨日と同じ冷えた眼差しで、芦倉は切り出す。

 態度こそ剣呑としているが、この場に来てくれたことの方を信じたい長尾である。


「『穂月』のことを聞きたい」


 長尾の言葉に、芦倉は驚きと怪訝が入り混じった顔を見せた。

 構わず長尾は続ける。


「『穂月』に兄弟や姉妹はいたか? 両親や祖父母は? 彼女の実家は?」

「…… 何を」


 長尾の質問に、芦倉は鼻で嗤いかけ─── 眼鏡の奥の双眸が見開いた。

 回答が、無い。

 芦倉の沈黙に、長尾は確信した。

 。芦倉は、『穂月』の素性を。

 そもそも、


「なあ、芦倉。

 お前は『穂月』の写真を

「誰からも何も、俺が穂月の写真を撮ったんだ」

「どこで?」

「……」

「芦倉、あの写真は誰かからお前に渡されたんだ。それを芦倉は忘れてしまっているんだよ。

 あの写真は、誰かが何かの目的で呪いを込めて、芦倉に渡されたんだ。お前も俺たちと同じ『穂月』の呪いに掛かっているんだよ。俺たちよりも、もっと長い時間、ずっと傍で。

 だから、お前はその最初を忘れてしまったんだ」


 というのが、長尾と籠澤が芦倉の事実であった。

 長尾がありもしない記憶で『穂月』を構築してしまったように、男子校であった本来の事実を捻じ曲げてでも別の記憶を差し込まれたように。

 芦倉もまったく別の記憶を、本人の疑義を挟むことも許されず重ねられている可能性だってあるだろう、と。

 根拠も何もない推測だけの物語だが、全く可能性が無いなんてこともない。

 芦倉は笑った。口端をひきつらせて。


「俺が、長尾の言うことを信じると思うのか」

「さっきの俺の質問に一つでも答えられるのか。

 『穂月』とはいつ知り合ったんだ。高校からか」


 それはいつか芦倉に聞いた質問だった。

 あのとき、彼は硬直したように目を見開き、この質問に答えなかった。

 そうだ。あのときの異変は、芦倉の中に高校以前の『穂月』の情報が無かったから固まってしまったのではないか。

 芦倉の中には、『高校の時に付き合っていた穂月』の認識しかない。

 歯を食いしばるように長尾を睨む芦倉を見て、長尾は確信した。

 芦倉は巻き込まれた一人だ。

 



「長尾くん」



 ふ、と。

 耳元で囁かれた吐息が。鼓膜を浸して脳へ浸食するような。

 首から下へ一気に鳥肌が立った。

 

 籠澤とは逆側のすぐ真横から声が聞こえたのだが、長尾は芦倉をじっと見据えていた。

 芦倉の背後に、重なるようにいつの間にかセーラー服の肩が見えているのだ。長い黒髪が芦倉の後ろに流れている。

 に遭遇すると、常に過剰な恐怖心が湧き上がる。芦倉の言う通り、彼女はただ佇むだけ、声を掛けるだけ、姿がはっきりと見えないだけ…… これだけのことなのに、異様な恐怖を突き付けられる。

 得体の知れないものは怖いものだ。それは理解しているが、自分がこれまでに感じた恐怖はその程度ではない。

 これが呪いだと言うならば、ものなのではないか。

 小さく抱いてしまった恐怖心を鷲掴みにして、倍々ゲームのように増殖させる。

 ただただ性質タチの悪い呪いだ。

 だが、そういうものだと認識すれば。彼女はただの影だ。

 記憶も感情も、すべて自分の認識から発露するものならば。


「長尾くん。ねえ、覚えてる?穂月よ。

 高校の休み時間にいつも遊びに行ったね」

「芦倉、誰から写真を受け取ったんだ。誰かいたはずだ」

「お弁当は冷凍食品を詰めたものだけど、美味しかったよね」

「やめろ、そんなはずはない、俺が撮った写真だ。俺が、が」

「海に行ったよね。始発の電車に乗って、日の出に間に合うように。

 お弁当は冷凍食品を詰めて、美味しかったね」

「忘れているんだ、芦倉。いつから写真を持っているんだ」

「ねえ、覚えてる?」


 自分と芦倉の会話の間に彼女の声が入り込んでくる。楽しそうに、同じ言葉を繰り返す。

 芦倉の呼吸が浅くなっていた。全速力で走って来たように息が跳ねている。

 ここで、彼に写真を渡した誰かを聞き出すのは難しいかもしれないと、長尾は察した。ならば───


「芦倉」

「長尾くん」


 不意に、長尾は気づいた。

 気づきながら、言葉を続けた。


「写真を見せてくれないか」

「私の名前を呼んで」


 『穂月』は、芦倉の名前を呼ばない。

 それは、の名前を呼んでいるからだろうか。

 プログラムされたシステムだ。もはや彼女が、かつて同じ人間だったなんて想像ができない。 


 芦倉は返す言葉もなく、震える指でジャケットの内側から写真を取り出した。

 そっとテーブルに置かれるセーラー服の女の子の写真。

 傍らで、息を呑む気配がした。


「籠澤?!」


 突然、それまで黙って座っていた籠澤が手を伸ばし、写真を握るように奪った。


「何をする!」


 テーブルのグラスを倒しながら、芦倉が必死の形相で籠澤の手を追ったが、籠澤は難く目を瞑りながらも、写真を真っ二つに破いた。

 更に千切り、また千切り。

 唖然と籠澤を見つめた長尾は、向かいから聞こえた絶叫に我に返った。

 芦倉が猛然と、テーブルを越えて籠澤に襲い掛かった。


「芦倉っ」


 テーブルを倒しながら、籠澤に掴み掛る芦倉の身体を後ろから羽交い絞めにする。籠澤から引き離そうとするのだが、言葉ともつかない怒号を上げる芦倉はあまりに力強い。

 さすがに事態に気づいた店員が、慌てて走ってくるのが見えた。

 応援が来ることに油断したか、拘束が緩み暴れていた芦倉の腕が長尾の顔を掠った。反射的に避けようとして芦倉の拘束を解いてしまった。

 再び籠澤に掴み掛るが、すでに籠澤は応戦の体勢を取り、受け止めた。

 駆けつけた店員とともに芦倉を床に押さえつける。大の大人三人がかりでだ。


 別の店員が警察を呼んだらしい。

 芦倉はやってきた警官に押さえられてもなお、長尾と籠澤に向かって喚いていたが、すでにそれは意味のある言葉にすらなっていなかった。

 別の警官に芦倉との関係性や所属などを長尾は確認されたが、その間も芦倉の叫びは収まらず、彼は店から引きずり出されて行った。


 彼の何かを、籠澤が壊してしまった。


 

 あの写真が、この呪いの起動装置であり元凶であると考えた。あれを破壊すれば、少なくともこれ以上呪いが拡がることもないはずだ…… と、二人は考えたのだ。

 籠澤は写真の様子を教えてくれるだけで良かったのに。

 写真を奪った時の籠澤の顔は、長尾にとって生まれて初めて見た『人が本能から恐怖に直面した時の顔』だった。

 危険なものは見えないはずの籠澤をもってして、その姿を視認させたものとは何だったのだろう。


 籠澤は大丈夫だろうか。自分は疲労とショックで座り込んでしまっている状況だ。

 あの写真を破った親友は……

 そう思案した長尾の隣で、しゃがみ込む気配がした。

 籠澤だと思い振り返り、



「長尾くん」



 真っ黒な。

 学校の廊下でも、カーブミラーでも、頭が塗りつぶされたように影になっているように見えた。

 違うのだ。

 目の前にあるセーラー服の女の子の頭は。

 真っ黒な空洞だった。

 そこには何も無かったのだ。




 長尾の意識は、そこで途切れた。 


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