一番早く来たのが長尾で良かったと籠澤は思っていた。
自分の動揺を、本田と八千代に勘付かれる可能性があったからだ。それくらい動揺を顔に出してしまった。当然、長尾自身には悟られていた。
神社での祈祷後、籠澤の紹介で親切な禰宜に話を聞いてもらうことができ、本田と八千代はかなり安心していた様子だった。専門家に頼ることができるのは、相当なメンタルのフォローになるだろう。
昨日の芦倉の話が事実であるならば、『穂月』の認識が薄まれば、彼らがこの先『穂月』に遭遇する可能性は低くなる。
八千代が一度は見えなくなったものの、長倉たちの質問で再び『穂月』を見てしまったのは、彼女がもう一度『穂月』を認識したからだ。
晴れやかな顔の本田と八千代の二人と別れた後、長尾と籠澤の足は大学ではなくいつもの喫茶店に向かっていた。
席に通された後も黙ったままの籠澤に代わり、長尾はホットコーヒーを二つ注文した。
怪異が起きている自分以上に、籠澤はショックを受けているように見えた。彼の様子を見る限り、おそらく自分の状況は祈祷の前から変わってはいないのだろう。
籠澤は長尾の状況を禰宜に相談することはなかった。長尾が本田と八千代が来る前に「自分の状態を悟られないように」と言い含めたこともあるだろう。
だが、これまでなら「そんなことを言ってる場合か」と食い下がっただろう籠澤は、沈痛な面持ちで頷いただけだった。
目の前に問題を抱えている人間がいると、不思議と自分自身がしっかりしなければと思ってしまう長尾だ。
籠澤が口を開くことができるまで、彼に付き合おうと長尾は決めた。
ほどなくして注文したコーヒーがテーブルに並べられ、いつも通りの香りが二人の間を漂う。
その香りに緩んだか、籠澤が切り出した。
「長尾」
「長尾くん」
ゾッ、と。背筋が泡立った。
籠澤の声に被って『穂月』の声が聞こえた
長尾は、自分を呼んだ籠澤の目をじっと見つめた。それ以外に視線を動かすのが怖かったのだ。
あのセーラー服の襟が、視界の端にちらついているようで……
だが、同時に目の前の籠澤の不安げな表情に、自制心が猛稼働する。彼の話を聞かねばならない。
長尾は努めて平静を装い、籠澤の続きを待った。
「本家に行こう。彼らなら、長尾を助けてくれるはずだ」
「本家、に……?」
唐突な籠澤の提案に、長尾は戸惑った。あれだけ本家を忌避していた籠澤の言葉とは思えない。
現に、提案している本人が苦渋を煮詰めたような顔をしている。
「彼らは呪いの専門家と言っていい。解決する方法を持っている可能性が高い」
「
籠澤がそこまで把握していることに長尾は驚いたが、籠澤からの反応が鈍い。
彼も確信を持って言っているわけでは無さそうだ。だが、それでも一体何を根拠に言い出したのだろう。
「写真というアイテムが起因しているように思える。
写真と、名前。なにか…… 機械的に感じるんだ。起動条件があって、フラグを立てると発動するような。
だって、もし本当に『多くの人に認識されたい』のが目的であれば、写真を見たことを忘れるような状態にさせるものか。
あれはおそらく、不適合だったんだ。フラグが立たなかった。だから中途半端な認識しか残らなかった。
人の感情が原因なら、もっと理不尽な動きをするよ」
ぽつりと最後に零れた籠澤の言葉が妙な重さを持っていた。
人の感情ならば、もっと理不尽……
無差別に写真を見せていった芦倉の行動を考えると、被害を受けた身としては理不尽を感じる。
だが、籠澤の言うことも尤もらしい。自分と本田や八千代の差分となっている理由が、芦倉の言う『人の認識を集める』目的にはそぐわないのだ。
機械的にしか発動できない、あるいは…… 選別をしている。
長尾は前髪を払いながら考える。
「芦倉が誰かを呪いたかったってことか。
でも、あいつはそんなことは言ってなかった。ただ、
「芦倉もまた呪われた一人だとしたら」
まさか。
長尾は籠澤を凝視した。申し訳なさそうな、苦し気な目で、籠澤は長尾を見つめ返していた。
「籠澤…… 芦倉は、
尋ねながら、長尾は思い出していた。
芦倉と籠澤が初めて顔を合わせた時、籠澤の反応が遅れていた。普段の彼ならば、初対面の相手と顔を合わせたら、相手より先に挨拶をするはずだ。
「…… 芦倉の存在に気づくのに、時間が掛かった。
声を掛けられて初めて彼がいることに気づくほどだ。
その後も、彼の姿をはっきり捉えられない。見つめようとすると視線を強制的に外されるような……」
籠澤に祈祷や除霊の能力はない。
彼はただ、
籠澤の話の意味を、長尾は理解した。芦倉という存在の一局面を理解したのだ。
長尾は額を払うように前髪を除ける。籠澤がそっと彼を呼んだ。
「長尾」
「うん?」
「一度、店を出よう。
再び、長尾は肌を泡立てた。籠澤がじっと自分の目を見つめている。
長尾はその場で立ち上がるのが躊躇われ、ボックス席を横に移動し席を立つ。
籠澤が伝票を掴み立ち上がると、長尾の背を押してレジへ向かった。
「長尾の頭上が見えなかったんだ」
店を出たところで、籠澤は絞り出すように言った。
長尾は額を撫でた。短い上にワックスで起ち上げている自分の前髪が、額に触れることなどないはずだ。
だが、籠澤の話を聞いているときに額にサラサラと掛かった感触は、間違いなく髪の感触だった。細く、柔らかな髪だった。
自分の頭上から、覗き込むように黒く長い髪が垂れ下がるイメージが離れない。
「本家に連絡を入れてみる。きっと、すぐに返答があるはずだから」
「待ってくれ、籠澤」
スマホを取り出そうとした籠澤の腕を、長尾はぐっと掴んで止めた。
この期に及んで何を止める要素があるのかと、籠澤は助けたい相手を半ば睨むように見た。
「もう一つだけ、試してみたい。
本家を頼るのは、それでもダメだったら── に、しないか」
籠澤の話を聞き、長尾には今、三つの理由が彼の中にあった。
一つ、自分たちがこの事態に対して取り得る方法がまだあること。
一つ、もしも芦倉が自分たちと同じ状況の内の一人であるならば、このまま放っておくことはできないこと。
そしてもう一つ。
籠澤は、本家のことをここまで伏せてきていた。
彼にとって『確実な手段』であるならば、神社への祈祷や相談よりも先に出てきていたはずだ。籠澤が本家を忌避しているのも、伏せてきた理由に大きくあるだろう。
しかし、何かそれ以上に、触れたくない理由があるように見えるのだ。
それはまるで
そうして、そこまで避けたかったことを、今、自分のために触れようとする友人。
まだ自力で打破できる可能性があるならば、できるところまで抗ってみようじゃないか。
籠澤は長尾を見つめ、やがてゆっくりと頷いた。