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第14話

 本田と八千代を図書館に残し、長尾と籠澤はいつもの喫茶店に来ていた。

 芦倉と会うためだ。すでに長尾から芦倉に電話を入れており、留守電に店で待っていることを告げていた。


「本田はともかく、八千代さんは大丈夫なのか」


 目の前に置かれたホットコーヒーから、ゆらゆらと白い蒸気が上る。ボックス席に男子学生が並んで座っている画は、事態の最中にあって少し滑稽だ。

 長尾の質問に、籠澤は笑いかけた。


「その本田が今日は一番効果的だからな。

 長尾も、本田の近くに居た時はおかしなことは起きなかったろ」


 言われて思い出すと、八千代が声を掛けてきたときに一瞬だけ『穂月』の影を見た気がしたが、あのときは確かに身動きが出来なくなるような恐怖ではなかった。

 あれは八千代の方に憑いてきた影なのかもしれない。


「それに、八千代さんには魔除けの御守りも渡してきたし」


 籠澤が授かって来た御守りは、図書館を出るときに八千代に預けていた。

 八千代は初め、これから元凶かもしれない人物に会いに行く二人こそ持つべきだと主張したが、もう一度影を見始めていることをやんわりと籠澤が指摘し、持っていてもらうことをお願いしたのだ。

 これで、長尾達の方が完全な丸腰となるのだが……


「俺が『何も見えない』のは、逆にの加護が強いからなんだそうだ」


 喫茶店の雑音に紛れるように、籠澤は話した。


「危険なものと関わらないようにと、守ってくれているらしい。

 そんなの別に信じちゃいなかったけど…… 俺以外の人間が信じてるものを、俺だけが信じてないのは、おかしいのかもしれない。

 だったら、今信じずに、いつ信じると……」


 どこか自分に言い聞かせている籠澤の声だった。

 長尾はじっと彼の横顔を見つめる。

 籠澤は現実主義寄りの人間だ。その男が、ここまで不可思議な現象に真摯に向き合ってくれるのは、決して容易なことではないだろう。

 あまつさえ、籠澤は怪異に遭遇してもいない。

 長尾が相談してから、ずっと突き放さずに隣にいてくれているのだ。


「俺は、…… 籠澤に何か力があってもなくても、一緒に来てくれただけで助かってるよ。

 その上で、籠澤が何かに守られてるなら、より安心だ」


 静かに返す長尾の言葉に、籠澤は小さく笑った。

 そうして、今度は力強く頷くのだ。


「俺一人を守る程度の加護なら、本家はここまでしつこくないだろう。

 やばくなったらまず逃げよう」

「いのちだいじに」


 ふふ、と二人で笑い合うと、束の間、張り付いていた恐怖が薄れるようだった。

 どんな力や効果があろうと、畢竟自分たちの取れる手段は相も変わらず一択なのだ。

 ふと、長尾が顔を上げると入口に見覚えのある人物が立ち店内を見まわしていた。


「芦倉」


 長尾が手を挙げながら呼ぶと、男はパッと顔を綻ばせ─── 隣にいる籠澤に戸惑ったようだった。

 席の間を抜けて長尾達のテーブルに辿り着いた芦倉は、まず籠澤の方へ会釈をする。


「はじめまして。長尾の友だち?」

「そう。ちょっと事情があって同席してもらってる」

「はじめまして。籠澤です」


 遅れて、籠澤も会釈を返した。

 長尾はわざと籠澤の名前を出さなかったのだが、当の本人が名乗ってしまった。上の名前だけ知れたとて、そう影響はないかと思うが、相手は現時点で目的不明の男になっている。

 籠澤が構わないのなら良いのだが、いつものうっかりではなかろうか。

 冒頭から少々懸念を生じた長尾だが、ひとまず話を進めることにした。


「急に呼び出して悪いな。

 どうしても確かめたいことがあったんだ」

「急なのは大丈夫だけど、何かあった?」


 そう尋ねながら芦倉が席に座るのを見届け、長尾は切り出した。


「芦倉、本当のことを教えて欲しい。

 『穂月』は誰なんだ」

「え……?」


 芦倉は眉を寄せた。確かにこれまで何の疑いもなく話を聞いてきた相手が、突然その対象人物を確認するのである。戸惑っても無理はない。

 だが、そもそもその対象人物の存在が怪しいのだ。

 芦倉は困ったような笑みを見せる。


「何を言ってるんだ、長尾。

 あれだけ『穂月』の話を聞いておいて、はないだろう」

「俺たちの高校は男子校だったろ、女の子が学校にいるはずがないんだ。

 芦倉の話は破綻している。なぜ……

 なぜ『穂月』の写真をいろんな人に見せているんだ。

 喫茶店に現れる宗教勧誘って、お前のことなのか」


 長尾の詰問は切迫しているように籠澤には聞こえていた。

 きっと、彼自身も信じたくない事実を並べているのだろう。芦倉に問いかける長尾の横顔は苦しげだ。

 しかし、問われている芦倉の顔からは、困惑が落ちた。

 するりと何かの膜が剥がれたように、銀フレームの奥、芦倉の眼差しが色を失くす。


「長尾は、


 低く、冷たい声が芦倉の口から零れた。

 ぞっとするような響きに、長尾と籠澤は背筋を凍らせた。


「芦倉……? どういうことだ、それは……」

「聞いたのはお前の方じゃないか、長尾。

 『穂月』が誰かを知りたいと言ったが、長尾に話したことが全部だ。


 長尾には、芦倉の話が理解できなかった。

 長尾が聞いてきたこれまでの話は、決して事実ではない。長尾は『穂月』を知らない。だが、芦倉はこれまでの話を事実だと言う。

 何かがずれている。

 だが、その『何か』が分からず、長尾が言葉を発せないでいると、籠澤が口を開いた。


「芦倉、くん」


 確かめるように籠澤が呼ぶと、芦倉は底冷えのする眼差しを籠澤へ向けた。


「君が『穂月』さんの写真を色んな人に見せたのは、確かなのか」

「ああ。長尾を含めて幾人かに見せて…… 『穂月』の名前を呼んだのは長尾一人だった」

「他の人は写真を見ただけか」

「見る奴もいれば、見ない奴もいる」


 なるほどと籠澤は納得した。これがなのだ。

 本田と八千代は写真を。長尾は更に


「『穂月』をどうするつもりなんだ」


 今度は長尾が尋ねた。

 芦倉は─── 小さく笑った。口角を僅かに動かしただけだが、それが『笑った』のだと二人は感じたのだ。


「人が『いる』というのは、どういうことだと思う。

 見たこともない宇宙の果てを知っているのは、なぜだと思う。

 

 穂月も同じだ。

 


 ゾッと…… 長尾と籠澤は背筋に冷たいものが走るのを感じた。

 芦倉の目的を、長尾は理解した。

 多くの人に『穂月』を認識させたいのだ。写真を見せ、少女が存在したことを人々の記憶の一部に植え付けた。


「一時的な認識では穂月の存在は途切れてしまう。

 継続して覚えている人間が必要だったんだ。俺だけでは足りない。

 それがお前になるはずだったんだよ、長尾」


 冷えた響きの中に落胆が混じる。芦倉は暗く濁った眼差しで長尾を見た。

 長尾は『穂月』を認識し、彼の記憶の中に顕現させた。それは芦倉の認識とは全く別の空間に発生したものだ。芦倉の妄想を突破した。

 …… はずだった。


「失敗だ。

 長尾は、もう穂月のことを信じてはくれないんだな」


 呟くように、芦倉は吐き出した。

 その姿が疲れ果てた旅人のように長尾には見えた。


「芦倉、お前のしていることの半分も理解できないが……

 それ以上『穂月』に関わるな。どう見てもお前は普通の状態じゃない」

「何かあったのか」


 長尾の説得を剃刀で切るように、芦倉は返した。

 その切れ味に長尾が次の句を繋げられないでいると、芦倉は更に重ねた。


 お前はここまで無事じゃないか。高校の話に矛盾があったとして、それがお前の何かを傷つけたか。

 なぜこのまま話を聞いてくれなかったんだ」


 芦倉は長尾に何があったのかを知っている。長尾や、本田、八千代、芦倉が『穂月』を語り聞かせた相手に『穂月』がを知っている。

 その上で、芦倉は「何かあったのか」と言い放ったのだ。

 無茶苦茶なことを言ってくる芦倉に、長尾は必死で言い返した。


「死んだ人間をもう一度作り出すなんて、無事のままでいられるはずがないだろう」


 長尾の声に、ボックス席の目隠しの奥から隣の客がこちらを窺う気配があったが、いちいち気にしている余裕もない。

 それくらい、この芦倉狂人の気配は濃く重かった。

 長尾の焦燥を見透かしたように、芦倉は凪いでいた。


「人はいつ死ぬんだ、長尾。忘れてしまったら、それは無いのと同じだ」


 芦倉はそう呟くと、席を立った。

 長尾が声を掛け追いかけようとすると、籠澤がその腕を掴んだ。─── 首を振る。


「彼が

 長尾、もうこれ以上関わっちゃだめだ」


 芦倉の中で、長尾は『終わった人間』になっていた。この先、彼からの接触は無いだろう。

 籠澤はそう言っていた。

 長尾はただ呆然と芦倉の背中を見送った。

 軽やかな音を立て、喫茶店のドアが開き、芦倉の背中が通っていく。その─── 背中の先。

 芦倉の肩口から、セーラー服の襟が見え…… 扉が閉まった。


 これで終わったのだ……

 長尾はそう自分に言い聞かせた。



 翌朝、四人でもう一度祈祷と相談に行こうと学校の門で待ち合わせた籠澤は、長尾の姿を見て絶句する。

 ─── 長尾の鼻から下が、真っ黒でのだ。


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