死者の話を聞いている上に、昼間に季節外れの怪談話を聞いてしまったからだ。だから、暗がりに勝手に恐怖を投影してしまった。
先ほど見た影を、長尾はそう片付けた。
芦倉から聞く穂月の話は全く怖くも悲しくもないのに、あんな幻を見てしまったのだ。分かっていることとは言え、すでにいない人の話を聞くのは知らずストレスになってしまうものなのかもしれないと、重ねて長尾は自分に言い聞かせる。
その理由は、長尾にとって十分に納得できるものだった。
理解できてしまえば、長尾という男はひとまず先に進めるタイプだ。
「長尾」
ふと芦倉が呼ぶ。予定通り授業終わりに芦倉と会い、穂月の話を聞いていた。穂月の話を聞くために、長尾は急いで自分の落としどころを作ったと言っても良いだろう。
心配そうな顔をした芦倉が、銀フレームの奥からじっと長尾を見ていた。
「大丈夫か。疲れているように見えたが」
「ああ、大丈夫。今日は一限目から講義がフルに入ってたんだ」
芦倉に心配させてはならない。彼には自分のことに集中してほしかった。
そう返しながら、しかし長尾の脳裏から消えない映像が繰り返しちらついている。
顔の見えない
芦倉に言うべきだろうか。穂月の幻を見た、と……?
こちらを見つめる芦倉の目を見つめ返してしまった。黒フレームの向こうにある双眸は、何かを案じているように見えた。
長尾は心中で首を振った。
何を考えているのだ、自分は。さっき錯覚だと自分に納得させたではないか。
穂月のことで心を痛めている人に、根拠もないよく分からない現象を話して負担にさせるわけにいかない。
長尾はなんでもないと笑いかけようとして、
「見たのか」
芦倉の静かな質問に、ぎゅうと心臓を絞られた。
芦倉の目が長尾の動揺を探っているように見えた。彼は何かを知っているのか? 数十分前に自分が見た、何かを。
喉元まで出かかったものを、長尾はギリギリで飲み込んで、笑った。
「なんのことだ」
すると、芦倉もまた言いかけるように開いた口を微苦笑へ曲げた。
「いや、すまん。なんでもない」
と、芦倉は手を振る。
それからまた穂月の話を始め、長尾もいつものように耳を傾けた。
「高校を卒業してから二人で海に行ったんだ。熱海の方なんだけど、始発の電車で出発して日の出に間に合うようにって」
影のことを避けた明確な理由を、長尾は持っていない。
ただ、言葉にしてはいけない気がしたのだ。それは情緒の落ち着かない芦倉への配慮以上に、強く長尾の自制心へ働きかけていた。
言葉にしたら……
幸せそうに語る芦倉を前に、長尾は自分の背後にじわじわと黒い影が拡がっている気配を感じていた。
その気配を振り払うことができないまま、長尾は芦倉と別れ帰路に着いた。
すでに日が暮れてしまい、長尾を包む暗闇はいつもより重く質量を持っているようだ。
最寄り駅を少し離れると灯りは街灯しかない。街灯と街灯の間は、家から溢れる明かりだけだ。
いつもなら、ほのかなその明かりに羨ましさと懐かしさを感じていたのだが……
今はただ心許ない明かりである。
長尾は、ともすると叫び出しそうな恐怖心を治めたかった。
自分の中に恐怖があると分かると、その恐怖をまた怖く感じてしまい、無意味に恐怖が膨らんでいくような感覚があった。
己が発した恐怖に潰されるのだ。普段なら、籠澤相手にそんな議論を吹っかけてしょうもないオチを付けるのに。
長尾はポケットの中のスマートフォンを握りしめた。
籠澤に電話をしようと何度も思い浮かんではいた。この恐怖を直接伝えずとも、彼と世間話をして気を紛らわせるだけでも心持ちがまったく違うだろう。
だが、何かが長尾の指を止めていた。
籠澤に繋げば、彼は長尾の状況を察してしまう。
それは長尾にとっては避けなければならない事態だった。
住宅街ではあるので、声を出せばなんとかなると長尾は自分を奮い立たせた。
部屋の近くまで来ると自分が心底安堵しているのが分かった。T字路を曲がりポケットの中にある鍵を掴んで取り出そうと、して。
「長尾くん」
突然聞こえた声に、長尾は鍵を取り落とした。
がちゃん、と鈍い音を立ててキーホルダーの付いた鍵がアスファルトへ落ちる。その音が、異様に大きく響いたような気がして、長尾は慌てて聞こえた背後を振り返った。
街灯が丸く落ちる暗い道が伸びている。
ただ静寂だけがそこにあるように見えた。
誰もいない───?
「長尾くん」
再び聞こえた声は、確かに視線の先の暗闇から聞こえる。彷徨った長尾の視線は、T字路の突き当りに立つカーブミラーに吸い寄せられた。
息を飲んだのか、止めたのか分からない。
そこに夏服のセーラー服の影が映っていた。
曲がり角の先、本当に曲がったすぐのところだ。だが、長尾の場所からでは、直接角の先は見えない。覗き込むような真似も、もはや今の長尾にはできない。
長尾の全身に、べったりと張り付く恐怖。
湾曲した鏡面に映る影は、頭部が暗く塗り潰されているように、見えない。
呼吸が荒く、取り落した鍵を拾い上げることさえできないほど、長尾は緊張に体を膠着させていた。
「長尾くん」
穂月はずっと名前を呼んでいる。まるで、
そもそも穂月がいるはずはないのだ。彼女は死んでいる。
だが、では今、長尾が目にしている鏡の中の彼女は何なのか。
長尾は抗う。彼が持ちうる全力の
なのに───
「…… 穂、月……?」
恐る恐ると、声を掛けるというよりは口の中で呟いた。長尾はその名前を呼んでしまった
。
なぜ自分でも呼んでしまったのか分からない。自分は避けていたはずだ、
しかし、長尾は勝てなかった。自分が発生させた自分の恐怖に飲まれ、その名前を呼んでしまったのだ。
鏡の影は。長尾の呼びかけに、カタ、と黒い頭を傾けた。そして逆に、その逆に、さらに逆に、逆に、逆に、逆に。
徐々にその速さは増して、まるで映像がぶれるような仕草で頭を振った。
そして、
「長尾くん長尾くん長尾くん穂月穂月よ長尾くんお弁当は冷凍食品を食品食詰め美味しかっ詰めた詰め長尾くんいつも一緒に休み時間はいつもいつも一緒に呼ぶ呼んで長尾くん穂月髟キ蟆セ縺上s髟キ蟆セ縺上s呼んで海に海へ行った髟キ蟆セ縺上s日の出を見て髟キ蟆セ縺上s長尾くん穂月なの髟キ蟆セ縺上s髟キ蟆セ縺上s呼んで呼んで呼んで呼んで呼んで呼んで呼んで」
人の話す抑揚ではない。
同じ調子の声を雑に繋げた音声を流しているようだった。それなのに、鏡の影は微動だにしない。
ただ黒い影の頭だけが激しく震えている。
長尾の恐怖は許容量を超え叫びとなり、転がるように鍵を拾い走り出した。
アパートの階段を駆け上り震えてもどかしい手でなんとか鍵を開け、ドアに足を引っ掛けながら部屋の中へ転がり扉を閉じる。
ドアノブを握りしめたまま、上と下と鍵を掛けた。
だが、─── 長尾はそこから動けなくなってしまった。
…… 誰かが外の階段を登ってくる音がする。
アパートの住人だと思った。思い込もうとした。
しかし、長尾の脳裏にはずっと、紺地のスカートから伸びた足が、ローファーが、階段を踏みしめるイメージが離れないのだ。
足音はゆっくりと階段を登りきり、廊下を部屋の方へ歩いてくる。扉の横にあるキッチンの窓、背の低い黒い影が足音とともに水平に移動するのが見えてしまった。
隣の住人だ、このまま通り過ぎるはずだ、そう願っていた。
足音は、ノブを握りしめた扉の前で止まる。
「長尾くん」
扉一枚を挟んだ向こうから、場違いに明るい声が長尾を呼ぶ。
奥歯が鳴るのを止められない。縋るようにドアノブを握っていた。
そうして─── ふと、耳元に吐息が掛かる。
「ねえ、覚えてる?」