「長尾!」
本日の講義がすべて終わり、キャンパスを出ようとしたところで長尾は横合いから声を掛けられた。
そちらを見ると、同じ学部の本田という男が忙しく白い息を吐きながら、長尾の方へと走ってくる。
急ぎの用らしい。長尾は足を止めて彼を待った。
「良かった、探してた」
「何か用か」
「ああ、お前にというか、ちょっとお前から紹介してほしいって感じなんだけど」
「紹介?」
肩で息を吐く本田が落ち着くのを待つ。
本田は咳ばらいを一つして、長尾へ続きを切り出した。
「籠澤と知り合いだったよな。
あいつ、家が神社だって聞いたんだが、お祓いとかしてくれないかな」
軽い笑みを口元に浮かべながら、本田は尋ねてきた。だが、すぐにその顔が強張る。
長尾が明らかに辟易した表情を浮かべたからだ。本人は純粋にその話題に対して呆れたのだが、本田にしてみれば自分へ真っすぐ敵意を見せられたように思えた。
籠澤の身内の話を、この男はどこから仕入れたのだろうかと思いながら、長尾は答えた。
「籠澤の家は普通の家だ。あいつの
親戚頼りに籠澤へ頼み込むのもやめとけよ、向こうにも事情がある」
長尾は先回りして本田を牽制した。まかり間違って本田が籠澤本人に話を持って行かないようにだ。
だが、本田は切羽詰まった様子で食い下がった。
「じゃ、じゃあ、籠澤自身はどうだ、神社の親戚なら祓えたりはしないか」
そうきたか、と長尾は、今度こそ本田本人に小さな嫌悪を抱いた。
だが、その理由を本田は知る由もない。長尾は自分の中の勝手な感情を見せないように、本田へ返した。
「籠澤自身も、そんな力はない。
ちゃんとお祓いをしたいなら、正式にどこかの神社へ申し込んだ方がいいし、その方が早いと思うぞ」
そう話しながら、長尾はいつか読んだwebの記事の内容を思い出していた。
人は遠くの専門家よりも、身近な友人の齧った話の方を信頼してしまう。傍から見れば明らかに専門家の方が正しいのに、よく見知った人間の口コミを信じてしまうのだ。
正体不明の籠澤の
だが、本田は絶望に叩き落されたような顔をするのだ。
この様子では、本当に籠澤へ突撃しかねないなと、長尾は感じた。
「お祓いって、何かあったのか」
複雑な事情を抱えている友人へ向かうならば、ここで自分が引き取った方が良い。
と言っても、いくら長尾が籠澤と仲が良くとも、神社の伝手を持っているわけではない。事情を聴いてそれに合いそうな神社をネットで探す程度しかできない。
本田はまさか長尾自身が事情を聞いてくるとは思わなかったようだ。躊躇するように声を詰まらせながら話し始めた。
「いや、俺じゃ…… ないんだけど……
明らかに本田本人の話である様子なのに、なぜわざわざ友人の体にして話すのだろうと長尾は思ったが、本人がそれで話しやすいのであればいいかと、そのまま聞き続けた。
それに……、と長尾は本田を見つめる。
彼の目が、先ほどの軽薄さなど嘘だったかのように見開いている。
指摘を入れようにも入れられない空気なのだ。
本田の目が泳ぐ。
「いや…… 後をつけられるんじゃなくて、こう……
いるんだ、視界の端に、気づくと、黒い」
男の口が、どこか機械的にそう象った。
長尾はその一瞬、世界から音が無くなったような気がした。
はた、と気づけば、本田がじっとこちらを見ていた。その目は、長尾が知っている本田の目ではない…… ように見えた。
「本田」
長尾の呼びかけに、本田はハッと我に返った。
「大丈夫か」
「すまん、大丈夫だ。
…… 友人の話を聞いてたら俺まで怖くなって」
あくまで彼は友人の話としたいらしい。長尾は心中で了解し、スマートフォンを取り出した。
「その友人はお前を頼って来たんだろ、しっかりしろよ。
俺も神社を探すから。
良いところがあったら連絡する。番号は?」
長尾が自分のスマートフォンを指しながら尋ねると、本田は驚いて目を見開いた。
先ほどまでのじっとりと冷たい空気ではなく、その驚きはからりと明るい。
「本田、番号」
「ああ、ええと……」
芦倉のときの反省を生かし、長尾は本田に番号を口頭で伝えてもらい、電話帳へ登録した。
自分の方からも一度コールをし、本田にも登録をさせる。
登録を終え顔を上げた本田は、いつもの軽快な笑いを見せた。
「急に押しかけたところで、ありがとうな。
お前のこと怖ぇ奴だとばかり思ってたけど、イメージ変わったわ」
「そりゃどうだろうな。
俺が引き受けたんだから、籠澤の方には行くなよ。この手の話は好きじゃないようだから」
「ああ、なるほど。分かった」
釘を刺す長尾に、本田は彼の意図するところを察して頷いた。
それから、やはり笑って本田は言うのだ。
「お前らほんとに仲がいいんだなあ」
「宗教勧誘?」
籠澤からカフェの噂を聞いた翌日の授業終わり。
事前に授業終わりの時間を連絡していたためか、芦倉は長尾より先にカフェに来て待っていた。
鞄を下ろし向かい合わせのソファに腰かけながら、長尾が先日の話を芦倉に切り出したのだ。
「そう。俺の大学の近くの喫茶店で活動してるらしい。
この店でも、そういうことがあったのかは分からないけど。
もし今日みたいに芦倉の方が早く着いて、そこに変な人間が来たら、俺の待ち合わせはいいから逃げてくれ。店を出るとか」
自分が先に到着していればいいが、芦倉が一人でいる間に声を掛けられでもしたら一大事だと、長尾は懸念した。
真面目に話す長尾へ、芦倉は笑いかけた。
「長尾は本当に面倒見がいいんだな。
面倒見というか、人が好いというか。
長尾こそ、変な奴に声を掛けられても話を聞いてしまいそうだ」
「見ず知らずの人間のおかしな話を聞いてやるようないい人じゃない」
「そうかなあ」
何が面白いのか、芦倉はやけにそのことに食いついた。
長尾は不思議に思ったが、芦倉へ忠告ができたのでひとまずよしとした。
「芦倉と穂月はいつから知り合ったんだ。高校から?」
自分の話題を切る意味も含め、長尾は芦倉に尋ねた。そのままテーブルの端に立て掛けてあるメニューを手に取る。
長尾の注文はいつもアイスコーヒーなのだが、芦倉がまだオーダーをしていないようだった。
芦倉の方へメニューを差し出したところで、長尾は気づいた。
メニューの先、芦倉が固まっている。
長尾は背筋が泡立つのを感じた。芦倉が硬直したことにでは、ない。
彼の
本田と同じ目で、見開いた目でじっと長尾を見つめていた。
「芦倉」
本田と同じように名前を呼ぶと、芦倉はぱたぱた、と瞬きをする。しかし、本田とは違い何事も無かったかのように「ああ、ありがとう」と差し出されたメニューを受け取った。
見間違いだっただろうかと、長尾の方が考え込んでしまうほどに、固まる直前からの続きのように…… 自然な不自然さで。
芦倉もアイスコーヒーで良いようなので、長尾は店員を呼んで注文を通した。
芦倉はそれを見届けると、
長尾の質問など知らないように。無かったかのように。
彼の心の傷に抵触しかねる質問だったのかもしれないと、芦倉の話を聞きながら長尾は考えた。
危険を察して、無意識に質問を回避した。そういうこともあるだろう。
精神面のことは専攻ではない自分が理解できるはずもない。
長尾は静かに芦倉の話を聞き続けた。穂月の話しをする芦倉は、幸せに満たされた顔をしている。
このまま自分へ話すことで、芦倉の中にある優しい記憶で芦倉自身を癒せたら良いと、長尾は考えていた。
だが、芦倉と別れた後も、しばらく彼の見開いた目が、長尾の記憶の端にこびりついていた。