13/
土曜で学校が休みだけど、俺はいつもより一時間ほど早く起きた。歯磨きや洗顔、寝癖を先に軽く直してリビングに顔を出す。
「おはよう、ひーちゃん。うふふ、気合いが入っているのね」
「そりゃあ、恋人同士ではないけど初めて女の子と二人で映画を観に行くわけだし……」
「大丈夫、鴻さんもひーちゃんのことを好きになってくれるわよ。だって私と心次郎さんの子供なんだから。自慢の息子よ」
「う、うん……」
なんだか朝っぱらから背中がむず痒くなるようなことを母さんに言われた。照れ臭い俺はとりあえず椅子に座ってテレビを観る。画面の上に表示されている天気予報を見る限り、やはり午後から雨らしい。やはり、昨日決めた予定通りにお昼を食べて帰るのが良さそうだ。
ニュースでは殺人事件の特集をやっていた。この辺り二府一県で同じような手口で次々と人が殺されているらしく、同一犯による連続殺人事件か、と視聴者の関心を煽るような番組構成が組まれている。
しかし、俺の関心は今日のデートをどう成功させるか、しかない。映画は喜んでくれるだろうけど、昼食に行こうと思っている店は喜んでくれるだろうか……、と不安になっている。
母さんは朝食の準備をしてくれている。俺は自室に戻り、今日の服装に悩む。炭櫃さんみたいにお洒落ができれば良いけど、あのレベルになるにはまだまだ経験も年齢も足りない。……それに顔のレベルもある。
無難な服装にしておこう。しかし、二度だけだが伊那さんに俺の私服姿を見られている。その時とは違う服を選ばなければ。
そうやって三十分ほど悩んでから何度も姿鏡の前でチェックする。洗面所に行って髪型も整えていく。もう俺自身の素材でやれることはやった。
再びリビングに行くと、母さんがとてもカッコいいと褒めてくれる。親バカな母さんの意見なので当てにし過ぎるのは良くないけど、幾分かは気持ちが楽になった。
それから朝食を食べてもう一度歯を磨き、最終チェックを終えて意気揚々と家を出る。絶好のデート日和という天気ではないが、俺の気持ちは晴れやかだ。
♢
約束通り、いつも伊那さんが使っている駅のホームで待っていると、薄い化粧をして淡い色のブラウスとロングスカートと言う素敵な格好で彼女は来てくれた。もう六月の中旬なので昼になると三十度近くになるからそれに合わせたのだろう。これがもっと暑くなれば彼女の服装はどう変わるのだろうか。すごく興味がある。
「おーい、おはようって言っているでしょ」
「あっ、すみません! おはようございます」
ちゃんと時間通りに来てくれた安心感と未来への期待感に夢心地になっていたらしい。気を引き締めて、ホームに入ってきた電車に二人して乗車する。
電車の中は平日と違って座るスペースがあった。この間の公園でも隣り合ってベンチに座ったけど、日常使っている電車で非日常体験をすると気持ちの昂りがすごいことになってしまう。
「今日の映画は何時から?」
「えっと、十時過ぎからなので全然余裕は持たせてあります。席も良い所取れましたので」
「禍津君って、意外とデート慣れしているのかしら? プランもちゃんと立ててくれているし、やけにお洒落してるし」
「い、いや、そんなことないですね……。情けない話ですけど、こうやって遊びに行くのもそんなにないほどで……」
「学校の友達と遊んだりしないの?」
「うっ……!」
美人女子高生の何気ない一言がぼっち予備軍の男子高校生のハートを打ち砕く。
そんな俺の反応で察してくれたのか、伊那さんは軽く笑ってくれた。
「あまり友達いないんだねー。やっぱり『例の人に関わる者』として普通の子たちとは距離を置いちゃうのかな?」
電車の中なので言葉を濁してくれたが、つまりは『不死殺しの使い』であることを俺が気にしていると思ってくれたのだろう。そして、『不死殺し本人』とだけ訂正すればそれは正解なのかもしれない。
「そんな感じですかね……。堂々としていても何の問題もないんですけど、クラスメイトたちと違う境遇にいると思うと何となく……」
「それは、私もわかるなあ」
素直に吐露すると、伊那さんもやや寂しそうに共感してくれた。
「私も仲良くしていた子とかでも、『普通の人とは違う』って気づいてからは何だか距離を空けちゃって。変わらず学校ではお喋りはしているけど、心の中では『この子たちを傷つけないか』って心配してるの」
つまり、自分が『不死者』と知ったことによって『正気を失うのが怖い』伊那さんは、実際はどうあれ俺と同じように心の中では壁ができてしまっているのだろう。
『不死殺し』と『不死者』。
その立場は違うけど普通の人たちと違うという点では一緒だ。むしろ、不死者である彼女の方が肩身が狭い思いをしているだろう。不死殺しは隠し通さないといけないという後ろめたさだけだが、不死者は忌み嫌われている。その差は大きい。
炭櫃さんの言っていた、『不死者には不死者の感覚があるからそれを汲み取ってあげることが大事』というのはそういうことなのだろう。
「……心配しなくても大丈夫、とは言い切れませんが、安心してください。そのために俺がいるんですから」
「うん? まあ、そうね。今日も頼りにしているわ」
少々カッコつけた言葉になったけど、変な風には捉えられなかったようだ。
昨日、伊那さんも映画に行けると喜んでくれていたし、特に深い考えはなく〝頼りにしている〟と言ってくれたのだろう。でも、俺はその一言でさらに彼女を守りたいと思った。
♢
開店したばかりのショッピングセンターの五階。
街の映画館特有の小綺麗なホールが俺たちを迎えてくれた。
「よし、真っ先にパンフレットを購入しましょう」
「は、はい」
大好きなアニメの映画ということもあり、伊那さんの本気度が窺える。俺もこのアニメが好きなので楽しみなのは本当だ。一緒に同じパンフレットを二つ購入する。
その際、俺が支払いをしようとしたけど伊那さんに止められた。
「年下はおとなしく奢られてなさい」
そんなお姉さまのようなセリフを言われ、俺は「うっす……」としか言えなかった。
高校生割引を使ったチケットだけは互いの分ずつ支払ったが、他のドリンクなどは伊那さんにお金を出してもらった。男として俺が前に出るべきなのだろうけど、今日の彼女はいつも以上に迫力があり、とてもじゃないけど異議を唱えれる隙がない。それほど昨日の今日だけど映画を楽しみにしていてくれたのだろう。誘った甲斐があったというものだ。
♢
それから開場と同時にスクリーンに入る。
二ヶ月前に封切りされた映画なので空席の方が多い。
それからCMや映画の予告などの後に、映画の本編が始まった。
約二時間ほど。
上質なシートで最上級の映画を堪能し、上映終了を知らせる灯りが点くと、
「うぐっ、うぐぐぐ……、ううっ……」
隣にはその美しい顔を滂沱した涙で濡らしている伊那さんが呻いていた。
「エミリアちゃんが……、エミリアちゃんが……、『私は、葵を救う……、そして、世界も救う……。両方救うんだ!』って……、ううっ……」
映画の一番の名シーンを呟きながら彼女はひたすら泣いている。
エミリアと言うのが主人公の女の子。葵と言うのがヒロインの女の子だ。
エミリアが攫われた葵か世界を選べ、と敵のボスに迫られて言ったセリフである。もちろん俺も感動したけど、隣でこんなに語彙力を失くしてしまうほど泣かれると冷静になると言うものだ。
でも、それだけ楽しんでくれたと言うことでもある。勇気を出して誘って良かったと心から思うし、こんな素敵な映画を製作してくれた方々に感謝したい。
「でも、敵は敵であんな……、あんなのないよお……。つらいよお……」
どちらにも正義はあった。そんなストーリーであり、この作品はたくさんの派生作品があるけどどれも大人気だ。観た人たちの情緒を破壊するほどで、丁度今の伊那さんのように。
周囲の席でも何とも言い表せれない感情に襲われ立てない人がたくさん居る。
俺も感想を共有するために話をした。あのシーンが良かった、と言ったら「わがるよぉ~」とさらに泣かれてしまう。このまま伊那さんの情緒が回復するまで待ちたかったが、スタッフの人たちが清掃に入って来たので、泣きじゃくる彼女をなんとか立たせてスクリーンを後にした。
それからホール内に設置されたソファーに並んで座って感想を言い合う。最初は語彙力が皆無になっていた伊那さんであったが、徐々に回復してきたらしく、お手洗いで化粧を直してくると行ってしまった。
戻ってきた伊那さんの顔は涙の跡こそ消えていたものの、まだ目は赤く腫れている。
もう少しだけゆっくりと休み、いつもの伊那さんらしさが戻ってきたところで今度こそ映画館を後にした。
♢
ショッピングセンターを出てからニ十分ほど歩く。
伊那さんはどこに行くのか、とかも一切俺に訊ねることなく、先ほど観た映画の漫画版について熱く語っていた。やはりキャラが動いて声優さんの声が付くと素晴らしいものになるが、漫画は漫画で角度の描写やコミカルな場面でのキャラたちの可愛さが良いなどなど言葉が湯水の如く出てくる。そこから派生作品の話に差し掛かり彼女のギアがさらに上がりそうになったところで目的地に到着する。
「お昼はここで食べる予定ですけど、良いですか?」
「私としてはやっぱり子供の頃の――、えっ、ここどこ?」
「駅の高架下にあるラーメン屋の前です」
「ほう、ラーメン」
「はい、ラーメンです」
ネットで調べた男女のデート先の定番として、女性が男でも連れていないと入りにくい場所に行くのが良いと書かれていた。そこで、俺はこの辺で一番美味しいと思っているラーメン屋まで案内したのだ。しかし、超絶お金持ちらしい伊那さんにそのネット情報が通じるかは不安であった。だが――、
「もちろん良いわよ! 私、所謂日本のラーメンを食べたことないの。中華料理で似たようなものならあるけど、一般的なものを食べれるなんてとても楽しみ!」
「あー、本当ですか。それなら良かったです」
どうやらネットの情報は正しかったらしい。何でも鵜呑みにしてはならないのがネットの世界だけど、今回は大変役立ってくれた。
早速、店の扉を開ける。
伊那さんの情緒が回復するまで映画館でゆっくりしていたこともあり、もうお昼時を過ぎているのですぐに入れそうである。
「伊那さん、テーブル席の方が良いですよね?」
「んー、いや、せっかくだからカウンターで食べたいかな。アニメだとみんなカウンターで食べているじゃない?」
「まあ、そういう描写の方が多いかもですが」
彼女にとってここはアニメなどの創作世界のような場所らしい。俺はたまにぼっち飯でこういう場所に来ているから何も感じないが、逆におそらく伊那さんが行くような高級レストランのような場所に通されたら俺も同じような気分になるんだろうな。
そして、伊那さんの希望通り店奥の端にあるカウンター席が空いていたので、俺は彼女に壁側の席を譲った。
「どれを注文したら良いかしら?」
「このラーメンにしましょう。一番人気のやつです。あとは炒飯とかもありますけど食べますか?」
「うーん、食欲はある方だから食べたい気持ちもあるけど、苦しくて動けなくなっても嫌だからラーメンだけで良いわ」
「わかりました」
そして、ラーメンをふたつ注文して待つこと十分足らず。伊那さんが興味深そうに店内を見回している間に注文の品が目の前に提供される。
「わっ、美味しそう。これは醤油ラーメンかしら?」
「そうですね、この辺の地域は醤油ラーメンが主流ですから」
「地域って、北海道とか九州とか行くとまた違うの?」
「北海道なら味噌で、九州なら豚骨が主流になるんじゃないんですかね? 実際に行ったことないのでわからないですけど、そう聞きます」
「中華で言うところの北京料理や広東料理の違いみたいなものね、たぶん。じゃ、いただきまーす」
伊那さんは具材をかき混ぜることなく、麺だけを箸で掴んで一口目を食べた。どういう反応をするか固唾を呑んで見守っていたら、
「おいしー! 醤油であっさりかと思ったら意外とこってりもしているのね!」
「チャーシュー麺なので油が出てるんでしょう。具材を混ぜてから食べると良いですよ」
「了解ー。――あっ、ほんとだ。ネギにかかっている胡椒でピリリとしていて他の料理では味わえない感覚だ!」
お口に合ったらしく俺は一安心する。実は、平日にしている朝の会話の中で彼女はジャンクフード好きという情報を手にしていた。だからラーメンも気に入ってくれるはず、と言う目論見がハマったようだ。
それからは女の子とは言え、成長期の高校生。チャーシューの美味しさなどに舌鼓を打ちながらあっという間にスープまで完飲してしまう。食欲がある方という言葉に嘘はなかったらしい。
「あー、満足ー! 雨乃(あめの)がいたら絶対ここまで食べさせてもらえないわ」
「雨乃?」
「ん、私の一人暮らしのお目付け役をしている執事の名前よ。言ってなかったかしら? 実家では割と窮屈だったから、理由は理由だけどせっかく一人暮らしを始めたんだし好きなように食事をしようと思っていたら、『そんな栄養が偏ったものばかり食べてはいけません。そのようなものは週に一回だけと決めましょう』なんて言うのよ。おかげ様で体型とか変わってないけど、実家より緩いとは言え我慢させられるのって辛いのよねー」
伊那さんの執事さんと思われるモノマネに、そんなイケメンな声も出せるのか、と彼女の特技に驚きつつも、お金持ちにはお金持ちで大変なんだなあと思う。そこだけを考えると禍津家は自由だからありがたい話だ。子供が男か女の差もあるかもだけど。
「他にも色々な味があるんでしょう? とても食べてみたいわね」
「そうですね、ご当地ラーメンって言って各地の特色が出たものがありますね。東京だと相当店舗数も多いらしいですけど」
「へえー、そうなんだー。東京はたまに行くけど、そんなこと初めて知ったわ。色んなお店を巡ってみても楽しそうね」
「そうですね。そうやって楽しんでいる人も多いと思います」
「そっかー」
すっかりラーメンの虜になってしまったご様子の伊那さんは関心を示された。これは機会があればまた食べるつもりなのだろう。
そうして、食後の話もそこそこに店を出る。
空を見るとどんよりとした雲が広がっており、今にも雨粒が落ちてきそうだ。
「じゃあ、帰りましょうか」
「うん、楽しかった!」
その一言で俺は全てが報われた気持ちになった。普段から死にたい死にたい、と言っている彼女とは程遠い感情を抱いてくれたようで。ラーメン一杯だけで腹半分という感じだった俺の体が、満杯まで満たされた気分だ。
♢
電車に揺られていると、窓に水滴が付く。我慢できなくなった雲が雨を降らし始めたらしい。
ふと、隣に座る伊那さんに疑問を投げかけてみた。
「伊那さんてどうして電車通学しているんですか? 一人暮らしをするにしても、普通は学校の近くにするんじゃないんですか?」
「ん、だって学園物のアニメのキャラたちは電車を使っているでしょ。高校最後の一年ぐらい体験したいなって思ったから」
「はあ、なるほど」
伊那さんはアニメのキャラのような普通の生活に憧れていたということだろうか。キャラと同じ物を使いたい、と言う感覚と一緒なのかもしれない。
そして、俺はあることに気づく。
「せっかく楽しい思いをした後で申し訳ないのですが……。もしかして、あの時に夜一人で歩いていたと言う話って……」
「あの時の夜? ……ああ、あれ。あれもアニメキャラたちは普通にしていることでしょ。家の人たちの目を盗んで散歩していたの」
「……なんだか納得しました」
不死殺しとは言え、庶民の生活をしている俺からすれば、夜に女の子が一人で歩くなんて……、となってしまうが、彼女からすれば憧れを叶えただけだったのだろう。それが不運にも不死者に襲われてしまうなんてことが起こってしまった。俺から彼女に注意するのは躊躇ってしまう。
それから晴天時に比べ暗い海の景色が流れて行った頃、窓に付く雨粒が増えて来た。あまりひどくなるようなら地元の駅に着いたら母さんに車で迎えに来てもらおうかな、と考えていると、まだ駅に着いていないというのに電車が止まってしまった。
「何かあったのかしら?」
「なんでしょうね」
乗り合わせた他の乗客たちも何があったのだろうとキョロキョロしている。その答えが車掌さんからアナウンスされる。
どうやら、人身事故が起こったらしい。そのためこの電車は次の駅で停まるとのことだ。
次の駅は伊那さんが利用している駅だ。俺は足止めを食らってしまうが、伊那さんは帰れるのでそこは運が良かったと思おう。
「さっき人身事故が起きたなら復旧に時間かかりそうね。禍津君、帰るの遅くなっちゃわない?」
「そうですね、さっさとバスにでも乗って帰った方が早いかもしれませんね。伊那さんと一緒に降りてバス停に行きます」
「雨もこれ以上強くならないと良いのにねー」
「どうでしょうね。天気予報では結構降るようなこと言ってましたけど」
そして、ゆっくりと電車が動き出す。駅までそこまで距離がなかったので、すぐにホームに入った。
扉が開き、そのまま席に座り続ける人と、俺と同じようにさっさと別の手段で移動しようと降車する人で分かれた。
伊那さんと一緒にエスカレーターで降りて改札を出る。
そこに、
「お帰りなさいませ、お嬢様」
キッチリとセットされた黒髪でカジュアルな服装をした長身男性が、伊那さんに礼をするとともに挨拶をした。三十代ぐらいで母さんと同じ歳ぐらいだろうか。
「ちょ、ちょっと雨乃! なんでこんな所に居るのよ⁉」
「人身事故があったということで心配になりまして。それに、雨も降っていますのでお迎えにあがりました」
「事故のこと知るの早過ぎるでしょ。じゃなくて、いつも言っているよね。迎えなんていらないって」
「ところで、そちらの方は」
伊那さんの怒りをスルーし、雨乃と呼ばれた男性が俺を見る。メガネの奥にある瞳は完全に品定めをするようなものであった。
「あっ、と、禍津聖です。伊那さんとは……、仲良くさせてもらってます」
「……なるほど」
その短い納得したような言葉の中でどういう評価が下されたのだろうか。
「私は鴻家の執事。今はお嬢様のお目付け役も兼任しております、雨乃勝家(あめのかついえ)と申します」
見た目は完全にイケメン大人メガネ男子だけど、やはりこの人が伊那さんが言っていた執事らしい。大事なお嬢様に悪い虫でも付いたかのように思われては大変だ。
「禍津様のご自宅はどちらに?」
「えっ、ここからだと……」
そうして家の場所を教えると、雨乃さんはメガネを指でクイッと上げてからとんでもないことを口にする。
「わかりました。私が車で送迎致しましょう。バスも混んでいる様子なのでそちらの方が早いです」
「い、いえ、それは申し訳ないので……。バスが無理なら親に迎えに来てもらっても良いですし……」
恐縮しながらそれとなく断ったのだが、
「それは良い案ね。禍津君、遠慮せずにうちの執事を使って頂戴。今日楽しませてくれたお礼よ」
「そ、それは……」
まさかの伊那さんからも雨乃さんの提案を勧められてしまう。
一応、念のために俺は訊ねる。
「ちなみに、伊那さんはもうご自宅に帰られるんでしょうか……?」
「ん? そうね、今日観た映画の漫画を読み返したくなっちゃったし。それに思っていた以上にはしゃいじゃって疲れたから寝ようかなって思ってるけど。どうかしたの?」
「あ、いえ、こちらこそ楽しかったですという挨拶をと……」
ということは、俺はお嬢様を守る執事と四十分ほど車という密室で二人っきりになるらしい。雨乃さんは見た目としては悪い人ではなさそうだけど、とても生真面目な雰囲気を纏っている。緊張してしかるべきだろう。
「うん、ありがとうね。それと『例の結果』なんだけど、明日私のマンションまで来てもらっても良いかしら?」
「えっ⁉」
『例の結果』とは『不死者か判断した結果』のことだろう。しかし、その話をするために一人暮らしをしている女の子の家に呼ばれるなんてどうすれば……。
ああ、雨乃さんも不審そうに目を細めている。不死者であることは雨乃さんにも黙っているという話だったので、自然な回答しないといけない。
「ああ、あれですね。それでは今日中に資料をまとめて明日のお昼過ぎにでもお伺いします」
「うん、お願い。私、今日はもうずっと寝てそうだから」
夜にこちらからメッセージを送っても反応できないかもしれないから、今約束を取り付けたということだろう。
「では禍津様、参りましょうか。お嬢様、お一人で帰宅できますか?」
「いつもしてるでしょ! ほら、傘だけ寄越しなさい」
「承知致しました」
雨乃さんが腕に掛けていた二本のうちの一本の黒い傘を伊那さんが受け取ると、彼女はにこやかな笑顔で言う。
「それじゃ、雨乃が何か失礼なことしたら私に言ってね。明日の朝にでも叱っておくから。今日は楽しかったわ。また明日ね」
「は、はい、俺も楽しかったです。雨乃さんにそんなことされない、はず、ですし……」
そろりと、俺より頭二つ分ほど背の高い男性の顔を見上げる。表情が読めないけど、俺をどこかに埋めたりはしないだろう。そうであって欲しい。
♢
ウン千万としそうな黒塗りの高級車の後部座席に乗せられ、身体はとても快適であった。そう身体は。
精神的にはかなり辛い。車に乗せてもらうまで事務的な会話のみ。休日の夕方、さらに雨と言うことで混んでいる駅前を抜けるまでの十分間はずっと無言であった。
そして、世界的有名企業の工場前に差し掛かった頃、決して軽くはないけど敵意のない声が沈黙を破る。
「禍津様、今日のお嬢様のご様子はどうでしたか?」
「様子ですか……、えーと、とても楽しそうにされてましたけど……」
「なるほど」
極々微小だけど安心したような声色。
「ここ最近、休日にお嬢様はお一人でお出かけされていましたが、あれは禍津様とお会いするため、で正しいですか?」
「た、正しいです……」
伊那さんはどんな用事で出かけるか言ってなかったらしい。まあ、素直に言える用事ではないので仕方がない話ではある。しかし、雨乃さんは鴻家の執事兼お目付け役として気になっていたのだろう。
「私もご同行しようとしたのですが、『絶対に来るな!』と強く拒否されてしまい。お嬢様の身を案じるのは私の使命ですが、同時にお嬢様のプライバシーも守らなくてはいけない」
年頃の女性と言うこともありますので、と雨乃さんは続けた。
「しかし、お相手が男性である禍津様であったとは。どのような経緯でお嬢様とお知り合いになられたのですか?」
とっても返答に困る質問をされてしまう。素直に伊那さんが不死殺しの依頼をしてきたから、とは言えないので、少しだけ時系列をずらして嘘を吐く。
「通学の電車内でたまたま話す機会がありまして。そこでアニメの話などで意気投合したという……」
「あのお嬢様が見知らぬ方と電車内で? しかしまあ、アニメの話をされるキッカケがあれば夢中になられるのも理解できます」
不審に思われてしまったがすぐに納得してもらえた。雨乃さんも伊那さんがアニメに対するあの情熱を思い知らされているらしい。
「今日は友達と映画を観に行くと仰っておりましたが、昨日のあの胸を躍らせているご様子だとやはりアニメ映画をご鑑賞なさったのですね。その後は何を?」
「えーと、昼食にラーメン屋に」
「ほう、ラーメン屋」
身体こそ跳ねなかったものの心臓が飛び跳ねたような感覚がした。やはり良家のお嬢様に庶民のラーメンを食べさせたのは悪かったか――、
「それは貴重な体験をお与えくださりありがとうございます。お嬢様もお喜びでしたでしょう?」
「え、ええ、ラーメン自体もすごく気に入ってくれたらしく、もっとたくさん食べたいとも言われてましたね」
「なるほど。しかし、今週のジャンクフードはそれで満足してもらうしかないですね。お嬢様がジャンクフード好きと言うのはご存じですか?」
「それを聞いていたのでラーメンもいけるかなー……と」
「そこまでお話されている仲なのですね」
車は伊那さんと初めて話したショッピングセンターの近くを通り過ぎた。あと十五分ほどで俺の家だ。
「私はお嬢様を信頼しております。なので、お一人での行動も目を瞑っていたのですが」
伊那さんも雨乃さんを信頼していると言っていた。主従関係だけど互いを認め合っているということだ。
「急にご実家を出たいと言い出したかと思えば、学校に通われる以外はご自宅から出ようとされませんでした。自立心の芽生え、と言うことで私も一緒になって旦那様方を説得したのですが、お嬢様の本心はわかっておりません」
「…………」
口調は淡々としているが、彼女をとても心配している想いが伝わって来る。信頼し合っているはずなのに、『不死者』という大きな事柄を共有できていないので齟齬が生じているのだろう。
「ですが、今月に入ってすぐの頃でしょうか。幾分か元気を取り戻されたご様子でした。あれは禍津様のおかげだったのですね」
「そ、そうだと、良いのですが……」
不死殺しの使いと接触し、不死者である自分を殺してくれるはず、という安心感を与えられたのは事実だ。それから不死殺し本人に見張られていると思い込んだ彼女は、饒舌に色々な話をして元来の明るい性格を俺に見せてくれた。
「ありがとうございます」
「えっ?」
突然、礼を言われて俺は戸惑ってしまう。その意図をすぐに雨乃さんは説明してくれる。
「お嬢様は一人暮らしをしたいと、急に仰る少し前からとても何かを気にされているご様子でした。それから一ヶ月、塞ぎ込まれたような日々を過ごされており、私はどうお声をかければ良いかわかりませんでした」
「……そうなんですね」
俺が電車で一目惚れした時の伊那さんを思い出す。今思えば、大人びた雰囲気というのはどこか影が掛かっていたというのも含まれていたのかもしれない。それは、不死者である自分とどう向き合えば良いのかわからない、という思いからだったのだろうか。
「それが今では先ほどの駅のようにお元気になられました。大変喜ばしいことです。今後とも、お嬢様をよろしくお願い致します」
「それは、もちろんです」
そう答えたところで、俺の家から最寄りのコンビニの駐車場に到着する。雨乃さんは運転席から出ると、後部座席の扉を開けてくれた。
「どうぞ」
「あ、ありがとうございます」
なんだか俺もお金持ちになった気分だ。彼が大きめの黒い傘を差してくれているので、余計に丁重に扱われている感じが出ている。
「この傘をお使いください。返却はご不要ですので」
「いえ、明日、伊那さんのご自宅に伺いますのでその時にお返しします」
「ああ、そういえばそのようなお話をされてましたね」
雨乃さんは空いている方の手でメガネを直した。俺が何をしに来るのか知らない彼にとって、お嬢様に対する安全を懸念をされているのかもしれない。恐い。
「よろしければ、また明日こちらまでお迎えに参りますが如何でしょうか」
「えっ! だ、大丈夫です。俺、電車に乗るのが好きなので」
気が動転してとてつもなく不自然なことを口走ってしまった。しかし、雨乃さんから特に追及されることはなく、
「左様でございますか。私も好きなので、わかります」
と、同様の趣味を持つ男同士と認識されてしまった。これからは伊那さんがいなくても楽しみながら電車に乗ろうと思う。
「お気をつけてご帰宅ください。失礼致します」
「あっ、はい。わざわざ送ってくださってありがとうございました」
「お気になさらず。お嬢様の〝ご友人〟のためならば差支えありません」
友人と言う部分が強調された気がした。もし、それより発展した関係だった場合は……、とすごい圧を感じる。
「それでは」
「は、はい」
郊外のコンビニに似合わない高級車が出て行くのを見送り、俺は溜まっていた息を深く吐いてから残り五分ほどの道を高級な傘を差しながら歩いて帰った。