意識の浮上は、ゆっくりとした潮の満ち引きに似ていた。まず戻ってきたのは音の感覚。遠くで響く時計の秒針、布の擦れる微かな音、そして自身の穏やかな呼吸音。次いで、嗅ぎ慣れた地下修復室特有の、埃と古紙、薬品が混じり合った匂いが鼻腔をくすぐる。最後に、瞼の裏で明滅していた光が収まり、薄闇に慣れた視界が像を結んだ。そこには見慣れた天井が広がっていた。傍らでは、ランプの明かりの下、分厚い革装丁の本に没頭する若き日の如月師匠の姿がある。
全身を覆っていた鉛のような疲労感は、驚くほど軽減していた。十歳という身体の回復力か、あるいは祭祀場の聖なるエネルギーとユキの『魂響』の残滓が、蓮の魂と肉体を深く癒した結果か。いずれにせよ、立ち上がって動けるだけの力は戻っているようだ。首にかかる二つの『感応石』――未来から持ち越したものと、この時代の若き如月が驚愕の中で蓮の身に顕現するのを見守ったもの(蓮自身にも理由は不明だが、おそらくユキの最後の力の干渉によるものだろう)――は、今は静かに冷たさを保っている。
「……目が覚めたか、蓮くん」
蓮が身じろぎした気配を察してか、若き如月が本から顔を上げた。彼の表情は、以前のような混乱や動揺を見せず、深い思索とある種の落ち着きを取り戻していた。とはいえ、蓮を見つめる瞳の奥には、依然として測りかねるような複雑な光が揺れている。未来から来た弟子。強大な、しかし未知数の力を秘めた少年。そして、この世界に新たな脅威と謎をもたらした存在――。
「師匠……あれから、どれくらい時間が?」
蓮はゆっくりと上半身を起こしながら尋ねた。最後に意識を失ったのは病院の廊下でのこと。ミラーアイ・レッドの襲撃を受け、ミラーアイ・グリーンの介入によって辛うじて危機を脱した直後だったはずだ。
「丸一日、といったところだ」 若き如月は静かに答えた。「君は相当消耗していたからな。私がここまで運び、簡単な手当てをしておいた。図書館の方は、職員たちに怪我人はなく、破損箇所の修復も進んでいる。例の『ガス爆発』事件として処理され、表向きは沈静化に向かっているように見える。だが……」
彼は言葉を止め、険しい表情で窓のない壁の一点を見据える。
「問題は、水面下だ。あれ以来、私の持つ僅かな感知能力や、一族に伝わる観測具が、街のあちこちで奇妙なエネルギーの『揺らぎ』を捉えている。以前の『虚』の兆候とは違う、もっと巧妙で、秩序だった……それでいて冷たい、異質な気配だ」
それは疑いなく、ミラーアイの活動を示唆しているようだった。蓮は息をのむ。『レッド』の敵意。『グリーン』の謎めいた介入。彼ら『ミラーアイ』は一体、いくつ存在し、何を目的としているのか。
「あの看護師は……?」 蓮は尋ねた。
「確認した」 如月は頷く。「翌日、彼女は通常通り勤務していた。記憶は曖昧で、昨日の午後のことは『少し体調が悪くて朦朧としていた』としか覚えていないらしい。君や私と接触した際の記憶も、意図的に消去されたか、上書きされたのだろう。ミラーアイとやらは、実に厄介な能力を持っているようだ」
若き如月は立ち上がり、修復室の奥にある鍵のかかった書庫へと向かった。そこは未来の蓮が知らない、一族のより古い記録が保管されている場所だ。彼はいくつかの古びた巻物や革綴じの本を取り出し、作業台の上に広げた。
「君の話と、図書館での事件、病院での遭遇……それらを踏まえ、昨夜から一族の記録を改めて洗い直してみた」 彼の声には、新たな発見に対する興奮と、深まる謎への戸惑いが混じり合っている。「そうしたら、いくつか……気になる記述を見つけたのだ」
彼は一つの巻物を指差した。そこには、奇妙な幾何学模様と共に、断片的な記述が古い文字で記されている。
「これは、我々一族の中でも最古級の記録だ。『星見の巫女』に関する伝承が記されている。巫女は『水鏡』を用いて天意を読み、異界からの『揺らぎ』を予知した、と。さらに……」 彼は別の箇所を示した。「『鏡守(かがみもり)』と呼ばれる一族が存在し、彼らは『水鏡』を作る特別な技術を持ち、巫女と協力して『揺らぎ』に対処していたらしい」
「鏡守……まさか、それが天城鏡房(あまぎきょうぼう)と関係が?」
「おそらくは」 如月は頷く。「さらに興味深いのはここだ。『揺らぎ』には二種類あると記されている。混沌より来る『虚(うつろ)』と、理(ことわり)より来る『鏡写し(かがみうつし)』。そして『虚』が全てを無に帰そうとする侵食である一方、『鏡写し』は歪んだ現実を『正しい形』に修正しようとする力であり、その尖兵として『隻眼の守人(せきがんのもりびと)』が現れる、とある…」
鏡写し。隻眼の守人。それはミラーアイのことを指しているとしか思えなかった。『虚』とは異なる、『理より来る』存在だと?
「彼らは敵ではない…ということですか?」 蓮は混乱しつつ尋ねた。
「そう単純な話でもないようだ」 若き如月は別の記述を指し示した。「『鏡写し』の『正しさ』とは、我々人間の尺度による正義や幸福とは限らない。それは宇宙的な法則や因果律の維持を最優先とする、冷徹な『調整』そのものだ。時には、人類の存続自体が『歪み』と見なされ、修正対象となる可能性すら示唆されている」
蓮は背筋に冷たいものが走るのを感じた。ミラーアイは『虚』のように世界を破壊しないまでも、彼らにとって人類は、保護すべき対象であると同時に、いつでも切り捨てうる不安定要素なのかもしれない。
「さらに……」 如月は最後の、最も衝撃的な記述を示した。「『鏡写し』の力は、この世界の『鏡』全てを通じて浸透するという。『鏡』が永い時間、膨大な情報とエネルギーを蓄積した結果…『自律する意志』を持つ可能性についての、ほとんど迷信に近い記述もあるのだ」
ユキの最後の言葉、「鏡の意志」。それは単なる迷信ではなかったのだろう。
「天城鏡房…彼らは、ただの鏡職人ではなかったはずだ。おそらく『鏡守』の末裔として、『鏡写し』や『鏡の意志』について、我々一族以上に深い知識を持っていたのではないか。図書館の大鏡も、彼らが意図的に設置した、特別な意味を持つものだったのだろう。それが『虚』の侵攻の起点となり、結果として…我々の行動を『ミラーアイ』に察知させるきっかけにもなった」
若き如月は作業台に両手をつき、深い息を吐いた。「状況は、我々が考えていたよりも遥かに複雑で、根深い。単に『虚』の侵攻を防ぐだけでは未来は救えないのかもしれない。この『ミラーアイ』、そして『鏡』そのものと、どう向き合っていくべきか…」
彼の視線が蓮に向けられる。
「蓮くん、君はこの時代の人間ではない。未来を知り、我々の知らない力を持つ。君ならば…この袋小路を破る鍵を見つけられるかもしれない。天城鏡房の最後の当主、天城朔弥(あまぎ さくや)という人物を探し出す必要がある。彼なら、何かを知っているだろう」
「天城朔弥…」 蓮はその名を心に刻んだ。
「数年前に工房を閉鎖し、現在は行方不明とされている」 如月は続ける。「ただ、いくつか手掛かりはある。古い地図によると、天城鏡房の跡地は街の外れ、かつて『霧吹き谷(きりふきだに)』と呼ばれた湿地帯の近くにあったようだ。今は再開発されて住宅地になっているが、工房の建物の一部が古い資料館として残されているという噂もある。まずはそこを調べてみよう。あるいは…」
彼は少し躊躇うように続けた。
「君の『魂響』で、天城朔弥の気配や、彼に関連する場所を探し出すことはできるだろうか? 彼の力がもし一族に連なるものなら、何らかの『響き』が残っているかもしれないが」
それは蓮にとっても新たな試みだった。虚やミラーアイ、祭祀場のエネルギーとは違う、特定の個人の残留思念やエネルギーを探す作業だ。今の自分ならできるかもしれない。
「やってみます」 蓮は頷いた。「しかし、街全体を探るのは難しい。もう少し範囲を絞る手がかりは…」
「霧吹き谷周辺、古い水路が集中している地区、そして…『鏡ヶ池(かがみがいけ)』だ」 如月は地図を広げ、いくつかの地点を指し示した。「鏡ヶ池は、かつて『水鏡の都』と呼ばれた時代の中心地の一つで、今も水面に空が最も美しく映るとされる場所だ。天城鏡房とも繋がりが深かったという伝承もある」
蓮は地図と如月の言葉を頭に叩き込み、目を閉じた。意識を集中させ、『魂響』を広げる。朧月市の街並み、人々、建物、そして無数の『鏡』。それらが放つ微細なエネルギーの流れの中、天城朔弥という個人の『響き』の痕跡を探り始めた。
それは、雑踏の中から特定の人物の声を聞き分ける、あるいは複雑な楽譜から一つの旋律を拾い出すような、極めて繊細な作業だった。蓮の意識は街全体に染み渡り、過去と現在が混じり合う感覚に包まれる。ミラーアイの冷たい視線、微かに残る『虚』の残滓、街の人々の様々な感情の渦。それら全てをフィルタリングし、目的の『響き』だけを追う。
数分後、蓮は目を開けた。額にうっすらと汗が滲んでいる。
「…分かりました」 彼は確信をもって告げた。「鏡ヶ池…その近くにある古い屋敷です。今は空き家のはずですが、非常に強く、巧妙に隠されたエネルギーの結界を感じます。古いけれど力強い『鏡守』の気配…おそらく、天城朔弥の隠れ家か、少なくとも重要な拠点に違いありません」
「鏡ヶ池の屋敷か…!」 若き如月は地図を確認し、驚きの声を上げる。「あそこは確かに古くからある屋敷だが、所有者は不明で、誰も近づかないいわく付きの場所だと聞く…! そこに天城朔弥が?」
「間違いありません。結界はかなり強力です。侵入者を拒むだけでなく、内部の気配を外部に漏らさぬよう隠蔽している。我々が行けば、罠が待ち受けている可能性も高いでしょう」
「望むところだ」 若き如月の瞳に闘志が宿った。「手掛かりが見つかった以上、行かないわけにはいかない。準備をしよう、蓮くん。今度は我々から仕掛ける番だ」
二人は簡単な食料と水、若き如月の持つ限りの護符や浄化道具、そして回復したばかりの蓮の『魂響』を頼りに、再び地下修復室を後にした。目的地は鏡ヶ池。朧月市の中でも特に「鏡」との関わりが深いとされる、その場所を目指す。
鏡ヶ池は、市の中心部から少し離れた、古い寺社や庭園が点在する閑静な地区にあった。その名の通り、池は驚くほど広く、澄み切っていた。風のない水面は完璧な鏡面となり、周囲の木々や空、雲を寸分違わぬ美しさで映し出す。未来の朧月市では決して見られない、息をのむ光景だった。
しかし、蓮にはその美しさの中に潜む別のものが見えていた。『魂響』を研ぎ澄ますと、池の水面そのものから、他の鏡とは比較にならぬほど強く、複雑なエネルギーが放たれているのが分かる。それは祭祀場のエネルギーとも、ミラーアイの冷たい波動とも異なる、暖かく、古く、どこか生命体のような…あるいは眠れる巨大な意識体のような…?
(これが…『鏡の意志』の一端…? それとも…?)
蓮はその計り知れない気配に畏敬と警戒を覚えつつ、池のほとりを歩き、目的の屋敷を探した。屋敷は池の北側、深い木々に囲まれた場所にひっそりと佇んでいた。周囲の美しい庭園とは対照的に、屋敷だけが時の流れから取り残されたかのように古び、陰鬱な雰囲気を漂わせている。門は固く閉ざされ、高い塀が内部の様子を窺わせなかった。
「ここだな」 若き如月が塀の上部、見えにくい場所に刻まれた小さな紋様を指差した。「これは『鏡守』の一族に伝わる古い護符の印だ。間違いない、ここが天城の拠点だ」
蓮が『魂響』で確認した通り、屋敷全体が強力な結界で覆われていた。物理的な侵入は不可能だろう。不可視の結界は、触れれば強い反発力と共に、精神へ直接作用する防御機構を備えている。
「どうやって入る? 強行突破は危険すぎる」 如月が周囲を警戒しながら小声で尋ねる。
蓮は結界のエネルギーの流れを注意深く探った。完璧に見える結界だが、どんなシステムにも僅かな隙間や弱点は存在するはずだ。
「…あそこです」 蓮は屋敷の裏手、古びた井戸がある辺りを指差す。「結界のエネルギーが、あの井戸から微量の『水』の気を取り込んでいるようです。おそらく、結界維持の動力源の一部なのでしょう。そのエネルギー循環のタイミングに合わせ、同じ性質の波動…俺の『魂響』を水の流れに見せかければ…一時的に結界をすり抜けられるかもしれません」
それは極めて高度な技術とタイミングを要する方法だった。若き如月は驚きの表情を見せたものの、すぐに頷く。
「…やってみる価値はあるな。しかし、失敗すれば…結界に気づかれ、内部に警報が鳴り響くだろう。迅速に、かつ慎重に頼む」
蓮は頷き、井戸へ近づいた。目を閉じ、意識を集中させる。結界のエネルギー循環の律動を読み取り、水の気の流れと同調するよう、自身の『魂響』の性質を変化させていく。それはまるで、複雑な楽譜を初見で演奏するような離れ業だ。
(…今だ!)
結界のエネルギー循環が僅かに緩んだ瞬間を見計らい、蓮は水の流れを模した『魂響』を、井戸を通じて結界内部へと滑り込ませた。一瞬、結界が抵抗する反応を見せたが、蓮は巧みに波動を調整し、自身を水のエネルギーであると誤認させる。
成功した! 結界に人が一人通れる程度の『穴』が一時的に開いた。
「師匠、早く!」
二人は音もなく穴をくぐり抜け、屋敷の敷地内へと侵入した。背後で結界は再び閉じ、完全な静寂が戻った。
屋敷の庭は荒れ放題だったが、建物の構造はしっかりしている。内部へと通じる窓や扉は固く閉ざされている。蓮が再び『魂響』で探ると、屋敷の地下に強いエネルギー反応があることに気づいた。
「地下に何かあります。工房か、研究室のような…」
二人は母屋を迂回し、地下へ通じる隠し扉と思しきものを発見した。古い石段を下りていくと、ひんやりとした空気が漂ってくる。地下空間は意外なほど広く、整然としていた。壁には様々な道具や機械が並び、中央には巨大なレンズか鏡が設置された奇妙な装置が鎮座している。そして壁一面を埋め尽くすほどの、おびただしい数の『鏡』。大小様々な形、材質、明らかに通常とは異なるであろう輝きや構造を持つ鏡たちが、静かに二人を迎えていた。
(これが…天城鏡房の…!)
蓮はその異様な光景に息をのんだ。部屋の中央、机の上には一冊の分厚い革装丁の日記らしきものが開かれたまま置かれている。
二人は警戒しながらも机に近づき、日記を手に取った。そこに記されていたのは、天城朔弥自身の筆跡と思われる詳細な研究記録と、彼の苦悩、そして驚くべき計画の内容だった。
『……ミラーアイによる監視は日に日に強まっている。彼らは「調停者」を自称するが、その実態は世界の可能性を否定し、停滞させようとする冷酷な管理者に過ぎない。我々「鏡守」は、永きに渡り彼らと時に協力し、時に欺きながら、「鏡」の持つ真の可能性…「鏡の意志」の覚醒を探求してきた。』
『「鏡の意志」とは、単なる集合意識ではない。この世界に偏在する情報の海、過去と未来の可能性が織りなすタペストリーそのものなのだ。覚醒した「意志」は、「虚」の侵食を根源から中和し、ミラーアイの支配からも脱却した、新たな世界の理(ことわり)を創造する力を持つ。だが、覚醒には膨大なエネルギーと、特殊な触媒が必要だ…』
『最近、極めて特異な「揺らぎ」を観測した。未来からの来訪者…? 強力な『魂響』を持つ子供の姿を取っているようだ。この存在はミラーアイにとっても計算外であり、「虚」にとっても興味深い対象だろう。だが、あるいは…彼こそが、「鏡の意志」を目覚めさせるための最後の鍵なのかもしれない…』
日記を読み進めていた蓮と如月は、最後のページで凍りついた。
『私は身を隠し、最後の準備を進める。「虚」もミラーアイも、そして未来からの来訪者さえも欺き、利用し、「鏡の意志」を覚醒させる。その時こそ、朧月市は、いや、この世界は真の新生を迎えるのだ。そのためならば、如何なる犠牲も厭わない。例えこの身が…』
日記はそこで途切れていた。
「天城朔弥…! 彼は、俺たちのことまで知っていた…!? しかも、利用しようと…!?」
蓮は愕然とした。自分は未来を変えるために来たはずが、この時代の別の陰謀に巻き込まれようとしていたのか?
まさにその時だった。
地下室の壁一面に並ぶ無数の鏡たちが、一斉に鈍い光を放ち始めた。それぞれの鏡面に、あの『赤い単眼』が映し出され、二人を包囲するように睨みつけてくる!
「フフフ…見つけたぞ、異分子…そして裏切り者の末裔よ」
赤い単眼たちの合成音声が、部屋中に不気味に反響した。
「天城朔弥はどこだ? 『鏡の意志』の覚醒計画…それは我々に対する重大な挑戦と見なす。オマエたちも同罪だ」
ミラーアイ・レッドに包囲された絶体絶命の状況。だが蓮の心には、新たな疑念が生まれていた。本当に彼らは敵なのか? 天城朔弥の計画とは? そしてこの鏡たちは…単なる監視の目だけなのだろうか?
鏡たちが一斉に攻撃のエネルギーを溜め始めたその瞬間、蓮は日記の最後の言葉を思い出し、賭けに出ることを決意した。
(「鏡の意志」…もし本当に存在するなら…応えてくれ!)
蓮は両手を広げ、攻撃の意志ではなく、呼びかけの意志を込めた『魂響』を、部屋中の全ての鏡に向かって放った!
「俺は敵じゃない! この世界と、ここに生きる人々を守りたいだけだ! あなたたちの真の目的は何なんだ!?」
蓮の魂からの叫びが、鏡のネットワークを通じて響き渡る。赤い単眼たちは一瞬戸惑ったように動きを止め、鏡の表面にノイズのような揺らぎが生じた。
その揺らぎの中から、赤い単眼とは異なる、もっと古く、深く、そして計り知れない何かの『声』が、蓮の脳内に直接響いてきたような気がした。
風の音のようであり、水の流れのようでもあり、無数の人々の囁きのようでもある、混沌としていながらも確かに存在する『意志』の声。
『……トキは…満ちようとしている……』
声と共に、地下室全体が激しく揺れ動く! 鏡たちは砕け散るのではなく、互いに融合を開始し、部屋の中央にある巨大な装置へと吸い込まれていった!
装置が起動し、眩いばかりの光を放つ! それは、『虚』ともミラーアイとも、祭祀場のエネルギーとも違う、全く新しい、予測不能なエネルギーの奔流だった!
「まずい! 撤退だ、蓮くん!」
若き如月が蓮の腕を掴み、地下室からの脱出を試みる。しかし、光の奔流は二人をも飲み込もうとしていた。
(これが…天城朔弥の言っていた…『鏡の意志』の覚醒…!?)
蓮は光に包まれながら、強烈なデジャヴュに襲われた。時を超える術を使った、あの瞬間に似ている。ただし、今回はユキの導きはない。代わりに、計り知れない『鏡の意志』そのものが、蓮の魂と未来の記憶にアクセスしようとしているのだ!
意識が再び遠のいていく中、蓮は一つの確信を得た。天城朔弥は近くにいる。そして、この事態を引き起こしたのは、おそらく彼自身なのだろう、と。未来を変える戦いは、今、全く新しい局面へと突入しようとしていた。鏡の迷宮の奥深くで、本当の敵と味方が、まだ明らかではない形で動き出している――。
次の瞬間、蓮と若き如月は、眩い光と共に地下室から消失していた。後に残されたのは、起動し続ける謎の装置と、空になった天城朔弥の日記のみ。朧月市の鏡たちは、今、その真の力を解放し始めたのかもしれない。それは希望か、更なる絶望か。答えは、まだ誰も知らない。