意識は、水底の泥の中からゆっくりと這い上がるように、断続的に回帰した。瞼の裏には万華鏡のように色彩が乱舞し、耳の奥では風の音とも、壊れた機械の軋みともつかない残響が微かに鳴っていた。『魂響(こんきょう)』を極限まで酷使し、祭祀場のエネルギーを受け止めた反動は、十歳の身体にはあまりにも過酷だったようだ。それでも、未来で『虚(うつろ)』の奔流に呑まれかけた時のような、魂そのものが削り取られるような虚無感とは異なり、全身には激しい疲労と共に、ある種の奇妙な「充実感」が満ちていた。繋いだのだ。遠く離れた過去と、破滅に瀕した未来の狭間で、地下祭祀場の聖なる力を、一時的とはいえ、この地に呼び寄せた。
「……ん……」
掠れた呻きが漏れる。最初に感じたのは、嗅ぎ慣れた古い紙とインク、そして微かな黴(かび)の匂い。次に、背中に感じる固い寝台の感触。どうやら図書館の地下、古文書修復室の簡易ベッドに寝かされているらしい。
ゆっくりと目を開けると、見慣れた、けれど今はまだ幾分若々しい漆喰(しっくい)の天井が視界に入った。窓のない部屋は薄暗いが、作業ランプの温かい光が辺りを照らしている。
「…気がついたか、蓮くん」
すぐ傍らから、低い、落ち着いた声がした。未来の師匠のものより若干高く、硬質な響きを含んでいるが、紛れもなく若き日の如月(きさらぎ)の声だ。彼が蓮の顔を覗き込んでいた。その表情には、疲労の色と共に、深い困惑と、探るような鋭い光が宿っていた。彼が羽織っている作業着の袖には、先ほどの戦闘で付着したであろう黒い染みや焦げ跡が生々しく残っている。
「師匠…裂け目は…図書館は…?」
まだ掠れる声で尋ねると、如月は短く頷いた。
「ああ…君のおかげで、空間の裂け目は完全に消滅した。負傷者も全員、別室で手当てを受けているが、命に別状はないようだ。図書館の職員や来館者たちには、『原因不明の小規模なガス爆発と集団幻覚』という、我々一族がこの手の事態で使う方便で説明をつけてある。むろん、納得していない者もいるだろうが、深追いはされないはずだ…この街の人間は、不可解な出来事には蓋をするのに慣れているからな」
彼の口調は淡々としていたが、その瞳は蓮の存在そのものを測りかねているように揺れていた。目の前の少年がもたらした超常的な力と、信じがたい未来の話。彼自身の常識と一族の伝承、そのどちらにも完全には当てはまらない、理解を超えた存在。
「…君は…本当に…」 若き如月は言葉を探すように口を開いた。「未来から…?」
蓮はゆっくりと上半身を起こした。全身が鉛のように重いが、不思議と痛みはない。子供の身体の回復力だろうか、あるいは未来から持ち越した力の影響か。
「はい」 蓮は真っ直ぐに如月の目を見て答えた。「俺が知る未来では、この街は『虚』に侵食され、滅びかけています。それを阻止するために、ユキさんという人の犠牲によって…過去へ送られました」
「ユキ…匣の中の少女、と言ったか…。彼女の力…それに地下祭祀場…君の話は、にわかには信じがたいことばかりだ。しかし…」 若き如月は先ほどの大ホールの惨状と、蓮が見せた力を思い出すように目を細めた。「君があの裂け目を封じた力は、明らかに尋常ではなかった。祭祀場のエネルギーと繋がった、という君の言葉も、あの現象を見れば、否定はできん…」
彼は重いため息をつき、近くの椅子に腰を下ろした。その表情には、長年抱えてきたのかもしれない一族の重圧と、新たな、より巨大な問題に直面したことへの苦悩が滲んでいる。
「…私の知る限り、我々一族には時を超える術など伝わってはいない。そもそも『虚の匣』や『ユキ』という名の巫女の存在自体、失われた伝承の片隅にかろうじて示唆されている程度で、確かな記録はない。祭祀場の存在は知られていても、その正確な場所も機能も、我々の代ではほぼ解明されていない。君が未来で得た知識や力は、この時代の我々の理解を遥かに超えているのだ」
彼はまるで自嘲するように続けた。
「表向きは古文書修復師として働きながら、裏では代々『虚』の監視と封印を細々と続けてきたつもりだったが…所詮は過去の遺産を守るだけの番人に過ぎなかったのかもしれんな。こんなにも早く、具体的な脅威が現れるとは…おまけに、これほどの規模で…」
蓮は黙って彼の言葉を聞いていた。未来の師匠が持つ深い知識と落ち着き、そして諦観にも似た覚悟は、多くの経験と、おそらくは幾多の失敗や喪失を経て培われたものなのだろう。目の前の彼はまだ若く、重責に押し潰されそうになっているのかもしれない。
「師匠」 蓮は意を決して口を開いた。「あなたは一人ではありません。俺がいます。未来を知る俺と、あなたが持つこの時代の知識と力を合わせれば、きっと道は開けるはずです」
「…未来を知る、か」 若き如月は蓮の言葉を吟味するように繰り返した。「その『未来』は、どの程度確かなのだ? 君が過去に来たことで、既に変わり始めているのではないか? 例えば…」
彼は真剣な眼差しで蓮を見据えた。
「君の知る未来では、この時期に図書館で虚獣が現れるなどという事件はあったのかね?」
蓮は考え込んだ。彼の知る朧月市の歴史、少なくとも彼が成人するまでの二十年間には、今回のような公然とした『虚』の侵攻事件は記録されていない。朧月市の奇妙な平穏は、もっと静かに、水面下でゆっくりと崩壊していくはずだった。
「…いえ」 蓮は正直に答えた。「こんなに早く、これほど大規模な形で『虚』が現れた記録はありません。俺が過去に来たことが、何らかの形で歴史に干渉し、事態を早めてしまったのかもしれません…」
「あるいは」 如月は別の可能性を示唆した。「『虚』が君の存在を感知し、君を排除するため、または君を利用するために、予定より早く動き出したのかもしれん。未来からの来訪者、それも『魂響』を持つ者は、『虚』にとってもイレギュラーな存在だろうからな」
いずれにせよ、状況は蓮が想定していたよりも遥かに切迫し、かつ不確定な要素が増えていることを意味していた。ただ過去の出来事をなぞり、要所で介入すれば良いという単純な話ではない。自分の行動一つ一つが、予期せぬ未来へと繋がる危険性を孕んでいる。
「師匠、俺が意識を失う直前、別の鏡に何か奇妙なものが映った気がしたんです」 蓮は話を本題に戻した。「赤い…単眼のような…。アルゴスに似ていましたが、違う…もっと悪意のようなものを感じました。そして、ユキさんの最後の声が…『鏡そのものにも意志があるかもしれない』と…」
「赤い単眼…鏡の意志…?」 若き如月は眉をひそめ、再び深い思案に沈んだ。「君は立て続けに不可解なことを言うな…。虚獣が現れたホールの大鏡は確かに『虚』の門と化したが、他の鏡も関係していると? しかも、意志を持つ?」
彼は首を横に振った。
「鏡はただの物質だ。光を反射するだけの…。それに意志などあるはずがない。伝承では『異界と繋がる』とはされるが、それはあくまで通路としての性質だろう。君が見たものは、激しい戦闘と精神的疲労による幻覚か、さもなければ『虚』が見せた幻影ではないのかね?」
若き如月の反応は無理もない。鏡が意志を持つなど、常識的に考えれば荒唐無稽だ。それでも、蓮にはあれが単なる幻覚とは思えなかった。『魂響』が捉えた微かな、だが確かな違和感。そして、ユキの最期の警告。そこには何か重要な意味が隠されている気がしてならなかった。
「分かりません」 蓮は正直に認めた。「それでも、調べる価値はあると思います。虚獣を呼び出したのがあのホールの大鏡だったように、他の鏡も『虚』の侵入口や影響の媒介になっている可能性はないでしょうか? それに加え…」
蓮は図書館に現れた黒い染みのことを思い出す。
「この時代には鏡がたくさんあります。未来では考えられないほどに。もし鏡の一つ一つが『虚』にとっての小さな『扉』だとしたら、この街は…無数の侵入口に囲まれているようなものじゃないでしょうか?」
その指摘に、若き如月の表情が凍りついた。彼はそこまで考え至っていなかったようだ。未来の「鏡のない」世界を知る蓮だからこそ気づけた視点。
「…たしかに…もしそうなら、この街の『盾』はあまりにも脆い…。なぜ今まで大規模な侵攻がなかったのか不思議なくらいだ…」
彼は机の上に置かれた『感応石』を手に取った。石は今は静かな黒曜石の色を保っている。
「この『感応石』、我々が呼ぶところの『星の欠片』のようなものは、一族でも扱える者が限られ、その存在自体も秘匿されてきた。おそらく、これがあれば街中の微細な『虚』の兆候を早期に発見できたはずだ。なぜそれが十分に活用されてこなかったのか…?」
若き如月は自身の知識不足、ないしは一族内に存在するのかもしれない何らかの「壁」のようなものを感じ、唇を噛んだ。
「…まず、確認すべきことがある」 彼は意を決したように立ち上がった。「君が見たという『赤い単眼』の鏡、そして君を助けた看護師や医師…病院で君と接触した者たちがどうなっているか、確かめに行く必要がある。もし彼らが何らかの影響を受けているとしたら…事態はさらに深刻だ」
「病院へ?」 蓮は少し驚いた。虚獣との戦いで疲弊しているはずの師匠が、すぐに次の行動に移ろうとしている。
「時間は待ってくれんのだろう?」 若き如月は苦笑に近い表情を見せた。「未来を変えに来たと言う君がいる以上、私もこれまで通りのんびりと構えているわけにはいかん。それに…もし君が病院で見た『赤い単眼』の気配が本物なら、そちらの方が虚獣よりも遥かに厄介な存在かもしれん」
二人は再び地上へと向かった。図書館のホールは職員たちが片付けを始めており、表向きは落ち着きを取り戻しつつあったが、そこかしこに残る破壊の爪痕と、職員たちの顔に浮かぶ拭いきれない恐怖の色が、事の異常さを物語っていた。
外へ出ると、午後の陽光が降り注いでいた。鏡のある街。ショーウィンドウが輝き、車のボディが光を反射し、水路の水面がきらめいている。先ほどまでは活気に満ちて見えたその光景が、今はどこか薄氷を踏むような危うさを感じさせた。これらの無数の「鏡」が、全て潜在的な脅威になり得るのだとしたら?
病院までは歩いてすぐだった。若き如月は途中で花屋に寄り、見舞い用の小さな花束を買った。いぶかしむ蓮に、「旧知の者が入院していることにする。自然だろう?」と短く説明する。彼の用心深さと状況への適応力は、まさしく一族の者としての訓練の賜物なのだろう。
病院の受付で「水上蓮くん」の見舞いを告げると、特に怪しまれることもなく病室へと通された。途中、すれ違う医師や看護師たちの様子に注意を払うが、特に変わった様子は見られない。あの蓮を担当した初老の医師と若い看護師の姿は、まだ見かけなかった。
蓮が入院していた病室のドアを開ける。中は綺麗に片付けられ、空きベッドになっていた。特に異常はないように見える。
「師匠、俺が寝ていたベッドの近くの窓です」 蓮は窓際へ行き、自分が外を眺めていた場所を示した。「この窓ガラスに、街の景色と一緒に自分の顔が映って…その時、景色の中に…」
若き如月は慎重に窓に近づき、外の景色を眺めた。彼は懐から先ほどの『感応石』を取り出し、ガラスにかざす。
「……」
石には何の反応もない。黒い染みも、『虚』の気配も感じられないようだ。
「…君の気のせいだったのでは?」
「でも…」 蓮は釈然としない。『魂響』で窓ガラスや周囲の空間を探ってみるが、やはり今は何も異常を感じない。
「他の場所も見てみよう」 如月は提案し、二人は病室を出て廊下を歩き始めた。廊下の壁には消火栓の金属製の扉や、ナースステーションのガラス窓など、反射するものがいくつもある。蓮はそれら一つ一つに意識を向けたが、やはり何も感じない。
(本当に、見間違いだったのか…? もしくは、一度『虚』の門が閉じたことで、微細な兆候も一時的に消えただけ…?)
その時、前方からカートを押した看護師が歩いてくるのが見えた。蓮の顔を見て、「あら?」という表情をする。蓮が退院する時に応対した若い看護師だった。
「蓮くん…だよね? もう帰ったのかと思ったけど、忘れ物?」 彼女は親しげに声をかけてきた。その笑顔も口調も、先ほどと全く変わらないように見える。
「いえ、あの…こちらは僕の…遠縁の叔父さんで、様子を見に来てくれたんです」 蓮は咄嗟に嘘をついた。
「まあ、ご丁寧に。蓮くん、顔色があまり良くないわよ。無理しちゃだめよ」 看護師は心配そうに蓮の額に手を当てようとした。
その瞬間。
ピキッ。
蓮の首に下げた『感応石』――未来から持ち越した、目に見えないように服の下に隠している方の石――が鋭く反応し、微かな熱を発した。同時に、看護師の瞳の奥に、ほんの一瞬、赤い光が点滅したのを蓮は見逃さなかった!
(いた!)
これは幻覚ではない。間違いない。この看護師の中に、あるいは彼女を通じて、あの『赤い単眼』が潜んでいる!
「ッ…!」
蓮は咄嗟に一歩後ずさり、警戒の構えを取る。看護師は一瞬きょとんとした顔をしたが、次の瞬間、その優しい笑顔がまるで能面のように無表情に変わり、瞳の奥の赤い光が明確な形を成し始めた。
「…バレたか。勘のいいガキだ…」
その声は、看護師本人のものではなかった。低く、冷たく、どこか金属的で、機械合成されたような響き。あの守護者アルゴスが発した声に似ているが、もっと歪で、悪意に満ちている。
隣にいた若き如月も、看護師の豹変と蓮の反応、そして彼自身が持つ『魂響』の素養で異常を察知し、即座に懐から護符を取り出す。
「何者だ!? 君は…人間ではないな!?」
「ククク…ニンゲン…? ワレワレは『意志』そのものだ…このセカイの『鏡』を介して存在する、古き監視者にして調停者…」 看護師の口を借りた『何か』は、嘲るように言った。「オマエたちニンゲンが『虚』と呼ぶ『揺らぎ』は、ワレワレにとって許容できぬノイズに過ぎん。ソレを引き起こす要因は排除しなければならない…」
赤い単眼の光が看護師の瞳の中で強く輝く。
「ソウ…オマエのようにナ…『イレギュラー』…トキヲ超エテ現れ、セカイの因果を乱す、最モ危険なノイズ…!」
標的は明らかに蓮だった。
「消えろ、異分子」
看護師の身体から、周囲の空間が歪むほどの強力なプレッシャーが放たれる! それは『虚』の力とは全く異質な、硬質で冷徹な、有無を言わさぬ強制力。
蓮は咄嗟に『魂響』の防御フィールドを展開したが、プレッシャーはフィールドを容易く貫通し、彼の精神と身体を直接圧迫する。息が詰まり、意識が朦朧とし始めた。祭祀場のエネルギーを使った反動で、力が回復しきっていないところに、この未知の攻撃は致命的だ。
「蓮くん!」
若き如月が護符を投げつけ、光の爆発を起こして『赤い単眼』の注意を引こうとするが、『単眼』は意にも介さない。
「無駄だ、旧世代の守人よ。オマエたちの矮小な術など、ワレワレには通用せん」
『単眼』の力がさらに増し、蓮は膝から崩れ落ちそうになる。意識がブラックアウトしかけた、その時。
(…やらせない…!)
蓮の心の奥底から、最後の抵抗力が湧き上がる。ユキから託された力の一部、そして未来を変えるという強い意志が、『赤い単眼』の強制力に必死で抗う。蓮の身体から藍色と白が混じったオーラが再び迸り、『単眼』の圧力を辛うじて押し返した。
「…ほう? ただの子供の『器』ではないらしいな…興味深いサンプルだ…」
『赤い単眼』は意外そうな声を漏らしたが、すぐに冷徹な響きを取り戻す。
「だが、抵抗もそこまでだ。ここで排除する」
『単眼』が宿る看護師の右腕が、ありえない角度に捻じ曲がり、その指先から鋭いエネルギーの刃のようなものが形成され、蓮に向かって突き出されようとした――。
その刹那だった。
パリン!
病院の廊下の向かい側、診察室の扉についていた小さなガラス窓が、何の前触れもなく突然砕け散った!
「!?」
蓮も、若き如月も、そして『赤い単眼』を宿す看護師も、一瞬そちらに注意を奪われる。
砕けた窓ガラスの奥、診察室の中から、もう一つの、今度は『緑色』の単眼が覗いていた!
『警告スル…対象への過剰干渉は禁止サレテイル…プロトコル違反ダ…『ミラーアイ・レッド』…』
緑色の単眼から放たれた声は、赤い単眼のものと似ているが、より機械的で抑揚がない。
看護師に宿る『赤い単眼』は、緑色の単眼の出現に明らかに動揺した様子を見せた。
「…チッ…『グリーン』か…! ナゼお前がここに…!」
『ワレワレ『ミラーアイ』の使命は観測と調整デアル…直接的介入、特ニ『イレギュラー』存在の即時排除は、上位存在の許可なくシテは認めラレナイ…』
緑色の単眼は淡々と続けた。
『速やかに観測対象から離レ、通常監視モードへ移行セヨ…』
赤い単眼は忌々しげに舌打ちするような音を立てたが、緑色の単眼の警告には逆らえないようだった。
「…フン…いいだろう…今回は見逃してやる、異分子…」 看護師の瞳の奥の赤い光が急速に薄れていく。「ただし、覚えておけ。お前の存在は常に監視されている。世界の調和を乱すと判断されれば、次はないぞ…」
そう言い残すと、看護師は元の優しい笑顔に戻り、何事もなかったかのようにカートを押して歩き去っていった。周囲の他の患者や職員は、この一連の異常なやり取りに全く気づいていないかのようだ。ある種の認識阻害が働いていたのかもしれない。
残された蓮と若き如月は、しばし呆然としていた。診察室の扉の砕けたガラス窓の奥を覗き込むと、緑色の単眼の姿はもうなかった。ただ、室内の壁に掛けられた手鏡の表面が、微かに緑色の残光を放っているように見えた。
「…一体…何が起こったんだ…?」
若き如月が、信じられないという表情で呟いた。蓮も言葉が出ない。
赤い単眼、ミラーアイ・レッド。
緑色の単眼、ミラーアイ・グリーン。
鏡を介して存在する、古き監視者にして調停者?
『虚』とは違う、新たな勢力。
加えて彼らもまた、未来から来た蓮を『イレギュラー』として認識し、監視している。
『虚』だけでなく、この『ミラーアイ』とも敵対する、もしくは利用される可能性が出てきたのだ。彼らは一体何者なのか? その目的は? なぜこの朧月市に現れたのか? 蓮が時間跳躍してきたことと関係があるのか?
疑問は雪崩のように押し寄せ、蓮の頭を混乱させた。それでも一つだけ確かなことがある。
この「鏡のある世界」は、蓮が想像していたよりも遥かに複雑で、危険な場所だということだ。彼が変えようとしている未来は、『虚』だけが脅威なのではなかった。そして、その戦いの鍵を握るのは、やはり「鏡」そのものであるらしい。
「…師匠」 蓮はまだ震える声で言った。「あの『ミラーアイ』が言っていた『天城鏡房』のこと、何か心当たりはありませんか? 図書館の大鏡を作ったという…」
若き如月はハッとしたように顔を上げた。
「天城鏡房…! そうか、あれはただの工房ではなかったのかもしれん! 『虚』の侵攻や、この『ミラーアイ』の存在と関わりがあるとしたら…! 調べねばならん!」
彼は拳を強く握りしめた。新たな謎と脅威の出現は、彼に恐怖だけでなく、一族の守り手としての闘志を再び掻き立てたようだった。
二人は病院を後にした。帰り道、街に溢れる無数の「鏡」が、以前にも増して不気味な存在感を放っているように感じられた。あの鏡たちのどこかに、今も赤い単眼や緑色の単眼が潜み、自分たちを監視しているのかもしれない。
鏡写しの迷宮。蓮の過去への旅は、まだ始まったばかりだ。その先には、『虚』、『ミラーアイ』、そして『鏡の意志』そのものが織りなす、想像を絶する戦いが待ち受けている予感がした。未来を変えるための道は、より一層険しく、先の見えないものとなった。蓮は、胸の内で静かに燃える決意の炎と、失われたユキへの想いを強く握りしめながら、若き日の師匠と共に、次なる一歩を踏み出す覚悟を固めるのだった。