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05_水鏡

祭祀場の冷たい石の床に膝をついたまま、蓮は水晶に映し出される絶望的な光景から目を離せずにいた。赤紫色の空の下、崩壊し、炎に包まれ、上空に開いた巨大な『虚』の門から溢れ出す漆黒の闇に飲み込まれていく故郷、朧月市。成し遂げたはずの封印核の浄化が、皮肉にも最悪の結末を引き起こした。罠だったのだ。全ては『虚』の掌の上だった。


「…過去へ…あなたの意識を…飛ばすことができるかもしれない…!」


掠れた声ながら、異様なほどの強い意志を込めたユキの声が、打ちのめされた蓮の心に突き刺さる。時を超える力。禁忌中の禁忌。だが、他に道はない。


「…本当…なんですか、そんなことが…」


蓮は顔を上げ、半透明になりながらも強い光を瞳に宿すユキを見つめた。隣では如月が険しい表情でユキの言葉を聞いている。


「保証はないわ…」 ユキは苦しげに咳き込みながら続けた。「古文書の断片に記された、伝説上の、あるいは願望に過ぎないかもしれない術式…。とはいえ、条件は揃っている。浄化され、活性化した封印の核。その膨大なエネルギー。それに…あなたと私の『魂響』。二つの異なる、しかし根源で繋がる力が、触媒となる」


「しかし、代償は…?」 如月が低い声で尋ねた。彼の経験と知識は、そのような大術が無代償で済むはずがないと告げていた。


「…おそらく…私の魂そのもの…」 ユキは静かに、だがきっぱりと言った。「この術は、核のエネルギーを指向性を持って増幅し、『時』という最も根源的な法則に干渉する。その舵取りをできるのは、本来『虚』、つまり『無』を映し出す力を持つ私だけ…。術が成功すれば、私の魂はこの核、あるいは時間の奔流そのものに溶け込み、霧散するでしょう。失敗すれば…私たちの意識は時空の狭間で永遠に彷徨うか、あるいは…より恐ろしい形で『虚』の一部となるかもしれない」


蓮は息をのんだ。ユキは自らの消滅を覚悟の上で、最後の希望を託そうとしている。彼女を匣の苦しみから解放したいと願っていたはずが、結果的に更なる犠牲を強いることになるのか?


「そんな…あなたを犠牲になんて…!」


「もう、いいの…」 ユキは穏やかに微笑んだ。その表情は、永い苦しみから解放されることへの安堵のようにも見えた。「私は…長すぎた。匣の中で、半死半生のまま、ただ責め苦に耐えるだけの永劫に比べれば…最後にあなたという希望に触れ、故郷のために僅かでも役立てるのなら、本望よ」


彼女は蓮に視線を移した。その瞳は真剣そのものだ。


「問題はあなたよ、蓮。あなたの意識だけを過去へ送る。おそらく、過去の、まだ『虚』や匣と深く関わる前の、あなた自身の身体へ。未来の記憶と力を持ったまま、過去をやり直すの。ただ、それは孤独な戦いになるわ。あなたは未来を知る唯一の存在となり、その重圧に耐えなければならない。歴史を変えようとすれば、時の法則そのものが抵抗し、予期せぬパラドックスや反動が生じるかもしれない。何より…成功の保証は、どこにもない」


未来を知る重圧。歴史改変のリスク。孤独な戦い。そして失敗の可能性。ユキの言葉は淡々と、しかし残酷な現実を突きつけていた。


それでも、蓮の脳裏には水晶に映る崩壊した朧月市の光景が焼き付いている。逃げ惑う人々の恐怖の表情。あの巨大な『虚』の門。ここで諦めれば、あの未来が確定する。


「…やります」


蓮は震える唇で、しかしはっきりと言った。


「俺が行きます。ユキさん、あなたを犠牲にはしたくない。でも、他に方法がないのなら…。俺が過去に行って、必ず未来を変えてみせる。あなたを…今度こそ、本当に救ってみせる!」


「蓮くん…!」 如月が心配そうに蓮を見る。だが、蓮の瞳に宿る揺るぎない決意を見て、それ以上の言葉を飲み込んだ。彼もまた、この絶望的な状況で蓮に託すしかないと悟っていた。


「…ありがとう、蓮」 ユキは涙ぐみながらも力強く頷いた。「信じてるわ」


彼女はふらつきながら立ち上がり、封印の核である巨大な水晶へと向き直る。水晶は依然として清浄な青白い光を放ち、祭祀場全体を照らしていた。ユキはその水晶にそっと手を触れた。


「如月さん…蓮をお願いします。術が発動すれば、位相門は閉じるでしょう。あなたはこの祭祀場に残ることになるかもしれない…どうか、ご無事で…」


「…ユキ殿…いや、ユキ様」 如月は深々と頭を下げた。「あなた様のような尊い犠牲の上に、我々一族の…いえ、朧月市のささやかな平和があったことを、我々は忘れてはならない。老いぼれの私にできることは少ないが…蓮くんが帰るべき未来を、ここで必ず守り抜きましょう。アルゴス…もし機能が回復するなら、共に」


ユキの傍らで静止していたアルゴスが、その言葉に反応したかのように、赤い単眼を微かに光らせる。その光は以前の無機質なものではなく、どこか意志を宿したように見えた。


「では、始めましょう」 ユキは決然とした表情で蓮を振り返った。「時間がないわ。蓮、私の前に。そして…あなたの『魂響』を、私の魂と、核のエネルギーに…重ね合わせるのよ」


蓮は頷き、ユキの前に立った。二人は互いに向き合い、数メートルの距離を置いて立つ。巨大な水晶が彼らの背後で脈打つように輝いている。


目を閉じ、意識を集中させる。蓮は自らの『魂響』――藍色の、意志と生命力の輝き――をゆっくりと高めていく。ユキもまた、半透明になりかけた身体から最後の力を振り絞るように、白い、『虚』を映す鏡のような『魂響』を放ち始める。


二つの異なる、しかし根源で繋がる力が互いに引き寄せられ、共鳴を始めた。藍と白の光が交じり合い、螺旋を描きながら封印の核へと流れ込んでいく。核は呼応するように、これまで以上の眩い輝きを放ち始めた! 青白い光は黄金色へ、さらに虹色へと変化していく。


祭祀場全体が激しく振動し始める。柱に刻まれた紋様が明滅し、空間そのものが不安定に揺らぎ、悲鳴を上げているかのようだ。時の法則に干渉するという禁忌の術が発動しつつある。


「蓮!」 ユキの声が光の奔流の中から響く。「あなたの意識を…核に投影する! 行きたい『時』を…強く、強く念じて! 『虚』が顕現する前の…鏡があった頃の朧月市へ!」


(鏡があった頃…!)


蓮は強く念じた。見たことのない、しかし祖母の話や古文書の断片で知る、かつての朧月市。水路が張り巡らされ、その水面に空や建物が映り込み、『水鏡の都』と呼ばれた時代。人々が鏡を恐れず、当たり前に使っていた時代。全ての始まりとなる場所へ!


『―――アアアァァァ…!! 行かせぬ…! 我ガ…計画ヲ…邪魔立てスルモノハ…!!―――』


突如、『虚』の残滓とも言うべき悪意の波動が、最後の抵抗のように二人の意識を襲った! 弱まってはいたが、その執念は凄まじい。


「させない!」


蓮とユキの『魂響』が一つとなり、虹色の光の奔流となって『虚』の悪意を打ち砕く!


「今よ!!!」


ユキの絶叫と共に、虹色の光が極限まで輝きを増した。蓮の意識は光の洪水の中に完全に飲み込まれる。自分の身体が分解され、光の粒子となって拡散していくような感覚。時間の感覚、空間の感覚が消失する。過去、現在、未来、あらゆる可能性の奔流が一瞬にして意識の中を駆け巡る。無限とも思える情報の洪水。


(これが…時を超える力…!)


意識が遠のいていく。ユキの存在を感じる。彼女の魂が核のエネルギーと融合し、時の奔流そのものへと溶けていく。暖かく、悲しい、最後の別れの感覚。


(ユキさん…!)


やがて、全てが真っ白な光に包まれた。


・・・・・・


どれくらいの時間が経ったのか。一瞬か、永遠か。


蓮の意識は、激しい目眩と、脳髄を直接揺さぶられるような感覚を伴い、ゆっくりと現実へと引き戻されてきた。


(…ここは…?)


瞼が重い。全身がひどく怠く、まるで高熱に浮かされた後のようだ。微かに消毒液のような匂いと、清潔なシーツの感触。


ゆっくりと目を開ける。


視界に入ったのは、見慣れない、しかしどこか懐かしいような白い天井だった。窓の外からは柔らかい陽の光が差し込んでいる。すりガラスではない、透明なガラス窓だ。外には青い空と白い雲が流れているのが見える。


(透明な…ガラス…?)


朧月市ではありえない光景に、蓮の意識は混乱した。身体を起こそうとするも、まだ力が入らない。


「あ…気がついた?」


不意に、すぐそばから聞き慣れない、けれどもどこか親しみを感じる若い女性の声がした。


蓮が声の方へ視線を向けると、そこに立っていたのは白いナース服を着た、優しそうな笑顔の看護師だった。彼女は蓮の顔を覗き込み、安堵したように言った。


「よかった。丸一日、目を覚まさなかったから心配したんですよ。先生を呼んできますね」


看護師はそう言って、パタパタと部屋を出て行った。


蓮は呆然とその場に残された。白い壁、透明な窓、看護師の服装。ここはどこだ? 図書館の仮眠室ではない。ましてや、地下祭祀場であるはずもない。


自分の手を見る。見慣れた自分の手だ。ただ、少しだけ小さいように感じられる。身体もどこか…若い頃の、まだ頼りない感じがある。


状況を把握しようと辺りを見回す。シンプルなベッド、点滴スタンド、壁にはカレンダーがかかっている。日付は――。


(……!)


蓮は目を疑った。カレンダーに記された年は、蓮が未来で生きていた年から遡ること十年。蓮がまだ十歳になったばかりの頃だ。


(まさか…本当に…過去に…!)


頭が混乱する。意識だけが過去の自分に入ったというのか? だとしたら、なぜ病院に?


記憶を辿ろうとする。未来の記憶――『虚の匣』、如月師匠、地下祭祀場、ユキの犠牲、時を超える術の発動――それらは鮮明に残っている。だが、この「十歳の蓮」がなぜ病院のベッドにいるのか、その直前の記憶が曖昧だった。高熱を出して倒れた? 何か事故にでも遭った?


ガチャン、とドアが開く音がして、先ほどの看護師と共に白衣を着た初老の医師が入ってきた。医師は蓮の顔色や脈を確認し、穏やかな口調で言った。


「やあ、水上蓮くん。気分はどうかな? 川で溺れかけていたところを発見されて、ここに運ばれてきたんだよ。幸い命に別状はないが、少し肺炎を起こしていた。もう峠は越したから、あと数日安静にしていれば大丈夫だろう」


川で溺れた? 蓮には全く身に覚えがない。これも時間跳躍の影響だろうか? あるいは、この時代の蓮に本当に起こった出来事なのか?


「…ありがとうございます…」 蓮は掠れた声で答えるのが精一杯だった。


医師と看護師が部屋を出て行くと、蓮は再び一人になった。窓の外の景色を見る。高い建物もあるが、未来の朧月市ほど密集してはいない。空は青く澄んでいる。ガラス窓には、外の景色と共にぼんやりと自分の顔が映り込んでいた。


(映ってる…!)


反射だ。紛れもない光の反射。すりガラスではない、透明な窓ガラスが当たり前に存在し、景色と自分を映し出している。


蓮はゆっくりとベッドから起き上がろうとした。まだ少しふらつくものの、点滴の管に気をつけながら窓辺まで歩いていく。


窓の外には、未来の蓮が知る朧月市とは似て非なる光景が広がっていた。建物の壁には光沢のあるタイルが使われていたり、ショーウィンドウと思われるガラス面がきらきらと光を反射していたりする。街路樹の緑が陽光を浴びて鮮やかに輝き、道を走る車のボディもピカピカに磨かれているようだ。


そして、水路。未来では濁っていたり、不自然な波が立てられていたりした水路が、ここでは穏やかに流れ、太陽の光を反射してきらめいていた。水面には空や隣の建物、橋の欄干などが、ゆらゆらと、しかし確かに映り込んでいる。


『水鏡の都』――かつて朧月市がそう呼ばれていた面影が、確かにここにはあった。


(本当に…鏡のある時代なんだ…)


蓮は感動と、言いようのない不安で胸がいっぱいになった。未来を知る自分は、この「鏡のある」世界で何をすべきなのか? ユキとの約束…未来を変える。だが、具体的に何をすれば?


その時、蓮の視線は窓ガラスに映る自分の顔に引きつけられた。十歳の、まだあどけなさの残る、それでいてどこか影のある少年の顔。未来の記憶と力を宿した、アンバランスな存在。


(これが…今の俺…)


彼が自分の顔に見入っていると、ふと、あることに気づいた。窓ガラスに映る景色の中に奇妙なものが混じっている。最初は気のせいかと思った。だが、目を凝らすと確かに存在していた。


街の風景のほんの一部。特定の建物の窓、水面の反射、磨かれた金属の手すり…。それらの「鏡面」に、ほんの一瞬、陽炎のように、あるいはノイズのように、黒い「染み」のようなものが現れては消える。


それは、あの『虚の残滓』によく似ていた。光を完全に吸収し、空間に空いた穴のような絶対的な暗黒。


(まさか…!)


蓮は息をのんだ。これは、ただの過去ではない。すでに『虚』の侵食はこの「鏡のある」時代にも密かに始まっていたというのか? いや、あるいは、未来から来た蓮自身の存在がこの時代の法則に干渉し、歪みを引き起こしている兆候なのか?


いずれにせよ、悠長に感傷に浸っている時間はない。


(まずは状況を確認しないと…そして師匠を探さなければ…)


この時代にも如月師匠はいるはずだ。おそらく、まだ図書館の古文書修復室で働いているだろう。彼はまだ若く、未来の蓮が知るような深い知識や覚悟はないかもしれない。だが、彼ならば何かを知っているはずだ。


蓮は病室に戻り、着替えを探した。幸い、自分の服がベッド脇の椅子に畳んで置かれていた。まだ少し身体は怠いが、じっとしてはいられない。


ナースコールで看護師を呼び、退院したい旨を伝えた。当然まだ早いと止められたが、蓮は(十歳の子供とは思えない妙な迫力で)「どうしても行かなければならない場所がある」と強く主張し、半ば強引に許可をもぎ取る。手続きのために親を呼ぶように言われたが、「祖母は遠くに住んでいてすぐには来られない」と嘘をつき、なんとか一人で病院を出ることに成功した。


病院の玄関を出ると、眩しい太陽の光が蓮を照らした。街の空気は未来の朧月市よりも澄んでいて、活気に満ちているように感じられる。人々は当たり前のように光を反射する服やアクセサリーを身につけ、ショーウィンドウを覗き込み、車のバックミラーで後方を確認している。ガラス張りのビルが陽光を反射し、眩しく輝いていた。


この光景を守らなければならない。蓮は決意を新たにした。


まず向かうべきは市立図書館だ。幸い、この病院の場所は蓮の(未来の)記憶にある図書館の近くだった。


道を歩きながら、蓮は周囲の「反射」に意識を集中させた。『魂響』の力を使い、微細なエネルギーの流れや歪みを探る。やはり、気のせいではなかった。街のあちこちの鏡面に、あの不吉な黒い染みが瞬間的に現れては消えている。それはまだ非常に微弱で、常人にはまず気づけないレベルだ。だが、確実に存在し、少しずつ数を増しているようにさえ見える。


(『虚』は、鏡を通じてこの世界に干渉しようとしている…? 鏡こそが、奴らにとっての最初の『扉』なのか…? だとしたら、なぜ未来の朧月市は「鏡のない街」になったのか? 『虚』の侵攻を防ぐために人々は自ら鏡を捨てたのか? それとも、もっと別の理由が…?)


疑問は尽きないが、今はとにかく図書館へ急ぐ。


図書館は未来の姿とほとんど変わらなかった。歴史ある石造りの建物。だが、窓ガラスは透明で、入り口の金属製の扉も鈍い光沢を放っている。


中へ入ると、未来との違いはより顕著だった。吹き抜けのホールの壁には大きな鏡が掛けられ、空間を広く見せている。閲覧室の窓からは明るい光が差し込み、人々が読む本のページや金属製の書架、ガラスのショーケースなどが光を反射している。音も未来の図書館の不自然な静けさとは違い、ページをめくる音、ひそひそ話す声、足音などが適度に反響し、生き生きとしたざわめきを生み出していた。


蓮は古文書修復室がある地下へと向かった。階段を下りていくと、あの独特の埃と古紙の匂いが漂ってくる。ここだけは未来と同じだ。


修復室のドアを緊張しながらノックする。


「…はい、どうぞ」


中から聞こえてきたのは、聞き覚えのある、しかし未来の師匠よりも幾分若く張りのある声だった。


蓮はゆっくりとドアを開けた。


室内は未来とほぼ同じ配置だった。書架がそびえ立ち、作業台が並び、修復中の古文書が広げられている。そして、窓際の作業台で拡大鏡付き眼鏡をかけ、破損した羊皮紙の修復に集中している人物がいた。


黒々とした髪を後ろで無造作に束ねた、三十代後半から四十代前半ほどの男性。顔立ちは紛れもなく、若き日の如月だった。その表情は真剣で、どこか神経質そうな雰囲気を漂わせているが、瞳の奥には未来の師匠と同じ深い知性と探求心が窺える。


「…あの…」


蓮がおずおずと声をかけると、若き如月は怪訝そうな顔でこちらを見た。


「…君は? 子供がこんなところまで、どうしたんだね?」


彼の視線は蓮の服装(おそらく溺れて汚れたままのものだろう)と、子供らしからぬ緊張した表情を訝しんでいるようだった。


「すみません…あの…如月さん、ですよね?」


「そうだが…君は一体?」


どう説明すればいい? 未来から来た、などと言っても信じてもらえるはずがない。だが、回りくどいことをしている時間もない。蓮は意を決した。


「俺…あなたと同じ『力』を持っています。そして、この街に迫る『危機』を知っています」


蓮は真っ直ぐに若き如月の目を見つめ、自身の『魂響』を微かに放った。威嚇や攻撃ではない。ただ、自分が何者であるかを示す純粋な意志の波動として。


若き如月の表情が変わった。驚愕、困惑、そして警戒。彼は即座に何かを感じ取ったのだ。目の前の少年がただの子供ではないこと。彼が発した不可解な『力』の波長に、自身の内に眠る何かが共鳴したことを。


「…君は…何者なんだ…?」 如月は声を低め、作業台からゆっくりと立ち上がった。その手は近くにあった修復用の小刀に伸びかけている。


「俺の名前は、水上蓮。未来の…あなたの弟子、でした」


蓮は一か八か、真実の一部を告げた。


若き如月は蓮の言葉に完全に凍りつく。未来? 弟子? 目の前の少年が発する異常な雰囲気と、常識ではありえない言葉。彼は蓮を睨みつけ、激しく葛藤しているようだった。


その時。


キィィィン…


部屋の奥、書架に立てかけられていた一枚の古い円形の金属盤――あの『浄化の盤』のようにも見える――が甲高い音を発して微かに振動し始めた。同時に若き如月の顔色が変わる。


「…この反応は…まさか…!」


彼は金属盤に駆け寄り、その表面を凝視する。盤には複雑な紋様が刻まれており、その一部が淡く、しかし不吉な赤い光を明滅させていた。


「…『虚』の兆候…! それも、かなり強い反応だ! 一体どこで…!」


彼は愕然として呟き、ハッと蓮の方を振り返った。


「…君のせいか…? 君が何かを…持ち込んだのか?」


「違います!」 蓮は即座に否定した。「これは…おそらく俺が未来から来た影響…加えて、この時代にも既に始まっている『虚』の侵食の現れです!」


蓮は、先ほど街中で見た鏡面に現れる黒い染みのことを早口で説明した。


若き如月は蓮の話を半信半疑ながらも真剣に聞き、金属盤の反応と照らし合わせながら苦悩の表情を浮かべた。


「…鏡面に…『虚』の染みが…? それが真実なら…伝承にあった『最初の兆候』そのものだ…。我々一族が最も恐れていた事態が…!」


彼は激しく動揺していた。未来の師匠のような落ち着きはまだない。だが、事態の深刻さは理解したようだ。


「…君の話を…信じると言ったら、どうなる?」 如月は警戒を解かないまま蓮に問いかけた。「未来から来たという君は、一体何をしようとしている? 我々に何を求める?」


「未来を変えたいんです」 蓮はきっぱりと言った。「俺のいた未来では、朧月市は『虚』に飲み込まれ、滅びかけています。それを阻止するためにここへ来ました。そのためには、あなたの…いえ、この時代の一族の知識と力が必要です。そして…」


蓮は言葉を選びながら続けた。


「俺は、匣に囚われた一人の少女…ユキさんを救いたい。彼女の犠牲の上に成り立つ未来は、間違っていると思うから」


「匣…? 少女…? 一体何の話だ?」 若き如月は眉をひそめた。『虚の匣』やユキの存在は、まだ彼には知らされていないのかもしれない。


蓮が説明しようとした、まさにその時だった。


ガシャァァァン!!!


図書館の上階から、ガラスが激しく割れる音と人々の悲鳴が響き渡った! 続いて地響きのような低い唸り声と、何かが破壊される轟音が断続的に聞こえ始める。


「な、なんだ!」


若き如月が驚いてドアの方へ駆け寄る。蓮も血の気が引くのを感じた。


(始まったのか!? 『虚』の本格的な侵攻が!?)


図書館の職員らしい男性が、蒼白な顔で修復室に飛び込んできた。


「き、如月さん! 大変です! 突然、上のホールに…化け物が…! 黒い、影のような…! 人を襲って…!」


「化け物だと!?」


「蓮くん!」 若き如月が、決意を固めたように蓮を振り返った。「君の話が真実かどうかは後だ! 今は事態の収拾が先決だ! 君の『力』とやらは、戦えるのか!?」


「はい!」 蓮は迷わず頷いた。「未来で、訓練しましたから!」


(まさか、こんなに早く実戦になるとは…!)


二人は顔を見合わせ、修復室を飛び出す。地下から階段を駆け上がり、図書館のメインホールへと向かう。廊下には恐怖に駆られて逃げ惑う人々の姿があった。悲鳴と怒号、そして得体の知れないおぞましい咆哮が入り混じり、図書館全体がパニックに包まれている。


ホールにたどり着いた蓮と若き如月は、目の前の光景に息をのんだ。


ホールの壁に掛けられていた大きな鏡が粉々に砕け散っている。その鏡があった場所を中心に、空間が歪み、そこから黒い霧のようなものが絶えず溢れ出していた。霧は床や壁を這い回り、触れたものを腐食させ、黒く変色させている。


そして、その霧の中から数体の異形の影が姿を現していた。


それは人間ほどの大きさだが、手足が異様に長く、関節が不自然な方向に曲がった、影そのものが実体を持ったかのような存在だった。輪郭は常に揺らめき、定まらない。顔にあたる部分には裂け目のような赤い光が不気味に明滅している。それらは鋭い爪のようなものを振り回し、逃げ遅れた人々を襲っていた。


「『虚獣(きょじゅう)』…! 伝承にあった、『虚』がこの世界の実体を取り込んで生まれる初期の怪物…!」 若き如月が歯噛みするように言った。「まさか、本当に現れるとは…!」


彼は懐から数枚の護符を取り出し、印を結ぶ。まだ未来の師匠ほどの練達さはないが、その動きには確かな力がこもっていた。


「蓮くん、援護を頼む!」


「はい!」


蓮は『魂響』を高め、防御フィールドを展開しながら虚獣たちを睨みつける。未来での訓練と祭祀場での経験が、彼に冷静さと力を与えている。


「この図書館は…俺たちの場所だ! 好きにはさせない!」


若き日の師と共に、過去の朧月市での最初の戦いが今、始まろうとしていた。果たして、蓮はこの危機を乗り越え、未来を変えるための道を切り開くことができるのか? 砕け散った鏡の破片の中に、彼は新たな、より深い謎と脅威の予兆を感じずにはいられなかった。鏡のある世界、それは同時に『虚』にとって最も侵入しやすい世界でもあるのだとしたら…?


戦いの喧騒の中、蓮の首元で、本来は存在しないはずの未来から持ち越された『感応石』が、警告のように熱く脈打っていた。

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