漆黒の『穴』――位相門――の向こう側に広がる光景は、蓮(れん)と如月(きさらぎ)がそれまで生きてきた朧月市(おぼろづきし)の常識を根底から覆すものだった。一歩足を踏み入れた瞬間、全身を包み込んだのは、凛と澄み渡り、それでいて途方もない歳月の重みを含んだ空気。地上の、常にどこか湿り気を帯び、音を吸い込むような重苦しい空気とはまるで違う。ここでは音は死なず、微かな足音さえも高く広い空間に吸い込まれ、澄んだ残響となって返ってくる。光は拡散せず、光源から放たれたそのままの純粋さで空間を照らし出し、くっきりとした影を生み出していた。
目の前に広がるのは、巨大な石柱がどこまでも林立する、神殿か、あるいは失われた文明の都市の遺跡を思わせる広大な空間。天井は見上げるほど高く、ドーム状なのか、それともさらに上層があるのか、深い闇に溶け込んで判別できない。足元は磨き上げられた黒曜石のような滑らかな床で、自分たちの姿こそ映さないものの、柱から放たれる淡い光を鈍く反射し、まるで夜の湖面を歩いているかのようだ。
柱の一本一本は、図書館の建物を数本束ねたほどの太さと高さを持ち、その表面には『虚(うつろ)の匣(はこ)』や『浄化の盤(じょうかのばん)』に刻まれていたものとはまた異なる、複雑怪奇で、かつ数学的な整合性すら感じさせる紋様がびっしりと刻まれていた。その紋様自体が、内部から滲み出すように青白い幽玄な光を放ち、この広大な地下空間の唯一の光源となっていた。影と光が織りなす幻想的で荘厳な光景がそこにあった。
「ここが…古代の祭祀場…」
蓮は、圧倒的な光景に息をのんだまま呟いた。身体が軽く感じる。地上の重力とは違う法則が働いているのだろうか。あるいは、この空間を満たす未知のエネルギーの影響か。
「…想像を…遥かに超えている…」
如月もまた、長年追い求めてきた伝説の場所を目の当たりにし、畏敬と興奮が入り混じった表情で周囲を見回していた。彼は懐から方位磁石のようなものを取り出したが、針は定まらず、くるくると回転するばかりだ。
「地磁気も、おそらく時間の流れも、地上とは異なっているのだろう。古文書にあった通りだ。ここは、我々の世界の法則から半ば切り離された『聖域』であり、同時に『異界』でもある」
彼は気を引き締め直し、蓮に向き直った。
「蓮くん、決して気を抜くな。この場所は美しいが、同時に我々にとって未知の危険に満ちている。少女が言っていた『封印の核』、そして『守護者』…。まずは慎重に進み、情報を集めることから始めよう」
「はい」
蓮も頷き、意識を集中させる。首に下げた『感応石(かんのうせき)』は、この空間に入った途端、静かに、それでいて力強く脈打つように深い藍色の光を放ち始めていた。それは危険を示す反応とは違う。むしろ、この場所が持つ膨大で清浄なエネルギーに共鳴しているかのようだ。蓮自身の『魂響(こんきょう)』も、この環境に呼応するように活性化し、普段よりも遥かにクリアに周囲のエネルギーの流れや微細な情報を感じ取ることができた。
「師匠、あちらです」
蓮は広間の奥、ひときわ巨大な石柱がそびえ立ち、他よりも強く青白い光が漏れ出ている方向を指差した。
「あそこから、非常に強力で、純粋なエネルギーを感じます。おそらく、あそこが…」
「封印の核がある場所か…!」
如月は頷き、二人でそちらへ向かって歩き始めた。巨大な石柱の間を縫うように進む。足音がコツ、コツ、と澄んだ反響を伴って響き渡る。静寂。それは死んだ静寂ではなく、途方もない力が満ち、脈打っているのを感じさせる、生きた静寂だった。
柱に刻まれた紋様を間近で見ると、その複雑さと精緻さに改めて驚かされた。単なる装飾ではなく、エネルギーを制御し、空間を安定させるための高度な術式、あるいはテクノロジーの産物であるように思える。蓮が『魂響』を集中させると、紋様の奥に流れるエネルギーのパターンや、それが周囲の空間とどのように相互作用しているのかが、朧げながら感じ取れる。まるで、古代の叡智が直接語りかけてくるかのようだ。
「これらの紋様は…『虚』の侵食を防ぎ、この祭祀場そのものを安定させるためのものらしいですね。一つ一つが独立した機能を持つと同時に、全体として巨大なネットワークを形成している…まるで、生きた回路図みたいだ…」
「ふむ…我々の一族に伝わる結界術や護符の原型が、ここにあるのかもしれんな。遥かに高度で、我々にはもはや理解も及ばぬ領域だが…」
如月は感嘆の息を漏らしながら、柱の表面にそっと触れた。ひんやりとした石の感触。その奥には、膨大なエネルギーが脈打っているのが伝わってくる。
しばらく進むと、前方の光景に変化が見られた。石柱の配置が変わり、まるで広大な神殿の通路のような場所に出た。通路の両側には、等間隔に並ぶ柱の間に、人の背丈ほどの高さの、滑らかな黒曜石で作られた石碑のようなものがいくつも設置されている。石碑の表面には、やはり複雑な紋様が刻まれ、青白い光を放っていた。
「これは…何かの記録でしょうか?」
蓮が近づき、石碑の一つに触れようとした瞬間、如月が鋭く制止した。
「待て、蓮くん!」
蓮が驚いて手を止めると、如月は自身の懐から小さな銀の鏡(もちろん朧月市で作られたものではない、彼の一族が密かに保管してきたものだろう)を取り出し、慎重に石碑にかざした。鏡の表面には、周囲の光景が映り込む――朧月市ではありえない、明瞭な反射像。だが、鏡を石碑の表面に近づけると、その像は奇妙に歪み、波紋のように揺らぎ始めた。
「…防御機構か、あるいは精神感応式の情報端末のようなものかもしれん。迂闊に触れれば、精神を焼かれるか、予期せぬ罠が発動する危険がある」
如月は鏡を仕舞い、蓮に警告した。「我々はこの場所の『正規の訪問者』ではないのだ。常に警戒を怠ってはならん」
蓮は頷き、改めて石碑から距離を取った。一方で、彼の『魂響』は、石碑から放たれる微弱なエネルギーの波を感じ取っていた。それは敵意や攻撃的なものではなく、むしろ、何かを伝えようとするかのような、静かな呼びかけのようにも感じられた。
(この石碑…記録が封じられているのか…? あるいは、資格を持つ者だけがアクセスできるとか…?)
今は確かめる術はない。先を急ぐ必要があった。彼らは通路を進み続け、やがて、ひときわ広大な円形の広場へとたどり着いた。
広場の中央には、直径が二十メートルはあろうかという巨大な円形の台座が鎮座し、その上に、天を突くかのように巨大な一本の石柱がそびえ立っていた。あの『響き合わせ』の際に少女が指し示した柱だ。柱全体が他のどの柱よりも強く、眩いほどの青白い光を放っており、その根本付近からは、あたかも呼吸するように、強力なエネルギーの波動が周期的に放出されていた。
「あれが…封印の核…!」
蓮はその圧倒的な存在感に息をのんだ。あれこそが、朧月市を、あるいはこの世界を『虚』の脅威から守ってきた根源なのだろうか。
すると、その巨大な柱の根元に、蓮は人影を見つけた。
白い着物を着た少女。以前よりもその姿ははっきりとしており、半透明感は薄れている。彼女は台座の縁に力なく座り込み、柱を見上げていた。横顔には深い疲労と悲しみが刻まれている。蓮たちが広場に足を踏み入れたことに気づくと、ゆっくりとこちらを振り返った。
その瞳は、蓮の記憶にあるものと同じ、澄んだ泉のように深く、そしてどこまでも物悲しい色をしていた。
「…来たのね…あなたたちが…」
少女の声は、今度ははっきりと蓮と如月の耳に届いた。鈴を転がすように美しく、それでいてガラス細工のように儚い響きだ。
「君は…」
蓮が一歩前に出ようとすると、少女は力なく手を上げてそれを制した。
「近づかないで。今の私は…不安定だから。あなたたちに影響を与えてしまうかもしれない」
「一体、君は何者なんだ? なぜ『虚の匣』の中に…そして、ここに?」
蓮は矢継ぎ早に問いかけた。
少女は小さく息をつき、ゆっくりと語り始めた。その声は、広場の静寂の中に吸い込まれず、不思議なほど明瞭に響いた。
「私の名は、ユキ。ただのユキ…。かつて…ずっと昔、この祭祀場を守る役目を担っていた一族の…末裔…だったもの」
「一族の末裔…? まさか、師匠と同じ…!?」
蓮は驚いて如月を見た。如月もまた、驚愕の表情を隠せない。
「…我々の一族の、別の系統…あるいは、本流だったのかもしれん…」 如月が呻くように言った。「記録にはない…失われた血筋か…」
「一族には」ユキは続けた。「『虚』と感応し、その力を僅かながら制御する『魂響』を持つ者が時折現れた。私は…その力が特に強く、かつ…異質だった」
彼女は自嘲するように微かに笑った。
「私は、『虚』の力をただ感じ取るだけでなく、その本質…『無』そのものに触れ、その一部を自らの内に『映し出す』ことができた。それは禁忌の力…一族の中でも恐れられ、忌避された力だった」
「映し出す…? それは、まるで…」
「そう…『鏡』のように」
ユキの言葉に、蓮は息をのんだ。『鏡』を持たない朧月市の秘密と、この少女の持つ力が繋がった瞬間だった。
「かつて、『虚』の大規模な侵攻があった。地上の防御は破られ、この祭祀場まで『虚』の力が及び、封印の核そのものが汚染され、暴走しかけた。それを鎮めるため、当時の長老たちは…私を『人柱』とすることを決めた」
彼女の声には、悲しみや怒りではなく、ただ深い諦念が滲んでいた。
「私の『鏡』の力を使って、『虚』の力の奔流の一部を自らの内に写し取り、封印の核への負荷を軽減させる…。力を外部に漏らさぬよう、私の魂ごと、特別な匣…『虚の匣』に封じ込めた。それが…私の役割だった」
あまりにも過酷な運命。蓮は言葉を失った。この少女は、街を守るために、自らの魂を犠牲にし、永い間、匣の中で孤独と苦痛に耐えてきたのだ。
「でも、なぜ匣が地上に? しかも、あんな状態で…」
「永い年月の間に、匣の封印は少しずつ劣化していった。中に封じられた私の力と、『虚』の力の断片が…歪な形で混ざり合い、変質し始めたの。匣は本来の場所から切り離され、いつしか地上へと流転し、図書館の地下に秘匿されるに至った…詳しい経緯は私にも分からない」
ユキは、苦しそうに眉を寄せた。
「そして…あなた…蓮、だったわね。あなたが匣に触れ、『鏡』を出現させた時、私の意識と『虚』の一部が、強くあなたに引かれた。あなたの持つ『魂響』…それは私と同質でありながら、異なる可能性を秘めた力。『虚』はあなたを新たな『器』として狙い、私は…あなたの中に、僅かな希望を見たの」
「希望…?」
「ええ。あなたなら、この状況を変えられるかもしれない、と。私を…この永遠の責め苦から解放し、『虚』を完全に封じることができるかもしれない、と…」
ユキの瞳が、初めて強い光を宿して蓮を見つめた。それは懇願であり、期待であり、同時に試すような色も帯びていた。
「封印の核は、もう限界に近いの。私が匣の中で引き受けていた負荷が、匣の破損によって再び核にかかり始めている。その上、『虚』は永い時間をかけて核の内部に少しずつ侵食し、その性質を変えようとしている。核が完全に『虚』に染まり、暴走すれば…この祭祀場は崩壊し、地上は未曾有の災厄に見舞われるでしょう」
「どうすれば…どうすれば核を救えるんだ?」
蓮は焦りを滲ませて尋ねた。
「核を浄化し、再活性化させる必要があるわ。それには、極めて純粋で強力な『魂響』の力が必要。おそらく…今のあなたでも、まだ足りない。でも、核に近づき、直接その状態を確かめ、正しい方法で力を注ぎ込めば…可能性はあるかもしれない」
「だが、問題がある」 如月が厳しい声で割って入った。「君が言っていた『守護者』はどうした? 核へ近づくには、それを突破せねばならんのだろう?」
その言葉に、ユキの表情が再び翳った。
「…そう…『守護者』…」
彼女はゆっくりと立ち上がり、巨大な柱の方を振り返った。蓮と如月も、緊張してそちらに視線を向ける。
「あれは…この祭祀場が最も栄えていた時代に、最高の技術と魔法によって造られた、究極の自律防衛機構。名は『アルゴス』。使命はただ一つ…封印の核を、あらゆる脅威から守護すること」
ユキの声には、畏敬と恐怖が入り混じっていた。
「アルゴスは、この祭祀場のエネルギーと直結し、ほぼ無限の力を持つ。物理的な攻撃はほとんど通じず、魔法や『魂響』による干渉も容易ではない。そして何より…」
彼女は深く息を吸い込んだ。
「アルゴスは、長すぎる歳月と、核から漏れ出す『虚』の僅かな影響によって…そのプログラムに『歪み』が生じ始めている。かつての厳格な守護者ではなく、侵入者を無差別に、徹底的に排除しようとする、暴走した番人と化しているかもしれない」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、広場全体の空気が一変した。柱から放たれる青白い光が不吉なほど強く明滅し、足元の黒曜石の床がビリビリと震え始める。広場を満たしていた清浄なエネルギーが急速に濁り、圧倒的なプレッシャーが蓮と如月を襲った。
「来る…!」
ユキが警告する。
広場の中央、巨大な柱の前に広がる空間が、陽炎のように揺らぎ始めた。その揺らぎの中から、ゆっくりと一つの巨大な影が形を取り始める。
それは古代の鎧騎士を思わせる、しかし明らかに人間ではない存在だった。身長は三メートルを優に超え、全身が磨き上げられた黒曜石のような、光沢のある黒い金属質の装甲で覆われている。関節部分は複雑な機構が剥き出しになり、そこから青白いエネルギーの光が漏れ出す。顔にあたる部分は滑らかな一枚板のようで、目も鼻も口もない。ただ、その中央に一つだけ、大きく真っ赤な単眼(モノアイ)が埋め込まれており、それが不気味な光を放ちながら、ゆっくりと蓮と如月を捉えた。
手には、本体と同じ黒い素材で作られた、身の丈ほどもある巨大な戦斧(バトルアックス)が握られている。斧の刃もまた、内部から赤い光を放っていた。
これが…守護者アルゴス…!
蓮は、その圧倒的な威圧感と、そこから放たれる冷徹で無機質な殺意に、背筋が凍るのを感じた。首の感応石が激しく振動し、警告を発している。
『…侵入者ヲ確認…』
アルゴスの赤い単眼が、点滅するように強く光る。声ではない。直接、脳内に響く合成音声のような、冷たい響きだ。
『…警告スル…封印領域への侵入は許可サレナイ…速やかに退去セヨ…サモナケレバ…排除スル…』
「我々は敵ではない!」 如月が声を張り上げた。「我々はこの祭祀場を守ってきた一族の末裔! 封印の核の危機を救うために来たのだ!」
『…侵入者ノ弁明ハ受理シナイ…アクセス権限不許可…』
アルゴスの返答は無慈悲だった。赤い単眼が再び強く光り、その巨体が音もなく滑るように動き出す。目標は明らかに蓮と如月だ。
『…排除ヲ開始スル…』
「くっ…問答無用か!」
如月は懐から数枚の護符を取り出し、素早く印を結ぶ。蓮も咄嗟に『魂響』による防御フィールドを展開した。
アルゴスは巨大な戦斧を振りかぶり、驚くべき速度で振り下ろした! 斧の軌跡が赤い光を引き、空間が歪むほどの凄まじいエネルギーが叩きつけられる。
「危ない!」
蓮は如月の腕を引き、間一髪でその場から飛び退いた。次の瞬間、二人がいた場所の黒曜石の床が、轟音と共に粉々に砕け散った。衝撃波が広がり、蓮の防御フィールドが激しく揺さぶられる。
(なんて力だ…! 一撃でも食らえば…!)
「蓮くん、援護を! 私が奴の動きを止める!」
如月が叫び、護符をアルゴスに向かって投げつけた。護符は空中で燃え上がり、青白い鎖となってアルゴスの巨体に巻き付こうとする。しかし、アルゴスは意にも介さず、戦斧を横薙ぎに振るい、鎖をたやすく引きちぎった。
『…低レベルノ術式…効果ナシ…』
アルゴスは無感情に告げると、赤い単眼から破壊的なエネルギービームを放った!
「させん!」
蓮は『魂響』を収束させ、エネルギーの盾を作り出してビームを受け止める。激しい衝撃! 盾に亀裂が走り、蓮の腕が痺れる。
(強い…! でも、耐えられないほどじゃない…! 俺の力も、確実に上がっている!)
蓮は歯を食いしばり、盾を維持しながらアルゴスを睨みつけた。アルゴスの単眼が、僅かに驚いたように光った気がした。
『…侵入者A…高レベルノ『魂響』能力ヲ確認…脅威度ヲ上方修正スル…優先排除目標トスル…』
アルゴスは如月への攻撃を止め、巨大な体を蓮に向けた。戦斧が再び振り上げられる。
「まずい、蓮くん!」
「大丈夫です、師匠!」
蓮は叫んだ。恐怖はあった。それでも、負けられないという強い意志が彼を突き動かしていた。ユキを救うために、街を守るために、そして何より、自分が『器』にされる運命に抗うために!
(俺の力は、まだこんなものじゃない!)
蓮は意識を更に深く集中させた。訓練で培った『魂響』の制御技術。自身の感情、意志、生命力。それら全てを束ね、新たな力を引き出すイメージを描く。守るだけの力ではない。相手に干渉し、影響を与える力。
(やってやる…!)
アルゴスが戦斧を振り下ろす。それと同時に、蓮は『魂響』を放った。盾ではない。アルゴスの赤い単眼に向かって放たれた、鋭い槍のような意志の波動だった!
「…!?」
蓮の攻撃は物理的な破壊力を持たない。だが、それはアルゴスの精神…あるいは制御システムの中枢に直接作用した。アルゴスの動きが一瞬、明らかに鈍る。赤い単眼が激しく点滅し、混乱したようなノイズが蓮の脳内に響いた。
『…システムエラー…? 外部干渉ヲ検知…防御シーケンス作動…』
「今だ!」
その隙を突き、如月が再び護符を放つ。今度は鎖ではなく、地面に叩きつけると粘着質の泥のようなものが広がり、アルゴスの足元を捉えた。
『…行動阻害…拘束レベルC…排除スル…』
アルゴスは足元の拘束を引き剥がそうとするが、泥は驚くほど強力で、その巨体を一時的に縫い止めた。
「ユキさん! 核を浄化する方法は!? 今のうちに教えてくれ!」
蓮は、アルゴスを牽制しつつ、後方にいるユキに向かって叫んだ。
ユキはハッとしたように顔を上げ、早口で答えた。
「核には…コアとなる部分があるの! 巨大な水晶のような…そこに『虚』の汚染が集中しているわ! あなたの『魂響』を、あの水晶に直接注ぎ込み、汚染されたエネルギーを『中和』あるいは『押し出す』ことができれば…!」
「どうやって力を注ぎ込むんだ!?」
「分からない…それは、あなた自身の力と、核との『共鳴』によって見つけ出すしかない…! でも、危険よ! 下手すれば、あなたの魂が核に取り込まれるか、『虚』に喰われる…!」
話している間にも、アルゴスは足元の拘束を破り始めていた。ゴゴゴ…という地響きと共に、黒曜石の床に亀裂が走る。
「時間が…ない…!」
如月も焦りの声を上げる。
(どうすれば…核と共鳴する…?)
蓮は必死に思考を巡らせた。自分の力の本質は何か? ユキは言った、「虚」を『映し出す』力だと。一方で俺の力は、それと同質でありながら、異なる可能性…『在ること』を肯定し、操作する力だと師匠は言った。
(映し出す…? 在ること…?)
その時、蓮の脳裏に閃きがあった。
(そうだ…鏡のように『映し出す』のではなく…『響き合わせる』んだ!)
あの『響き合わせ』の儀式。匣を通じて少女の意識と波長を合わせたように。自分の『魂響』を、核が本来持つはずの純粋なエネルギーの『響き』と合わせるのだ。そして、そこに混入した『虚』という不協和音だけを、増幅した自分の響きで打ち消し、押し出す…!
「師匠! ユキさん! 俺、やってみます!」
蓮は覚悟を決めた。
「無茶だ!」 如月が叫ぶ。「アルゴスが!」
まさにその時、アルゴスが拘束を完全に破り、再び戦斧を構えて蓮に向かって突進してきた。赤い単眼が、怒りのように激しく点滅している。
『…侵入者…排除…!』
絶体絶命。
蓮が迎撃の構えを取るより早く、アルゴスの巨体の前に、白い影が立ちはだかった。
ユキだった。
彼女は震える足ながらも、毅然としてアルゴスの前に立ち、両手を広げていた。
「やめて、アルゴス! 彼らは敵じゃない!」
ユキの声は小さかったが、不思議な力が込められていた。アルゴスは、突進の勢いを殺し、ユキの数メートル手前で急停止する。赤い単眼が、困惑したようにユキを捉えていた。
『…認識コード…『白き巫女』…記録データと一致…しかし…生存確率0.001%以下…システム異常カ…?』
「私はここにいるわ、アルゴス!」 ユキは叫んだ。「私はあなたと同じ、この祭祀場と封印を守るために存在している! だからお願い…彼らを信じて!」
『…矛盾スル命令…プログラムエラー…『白き巫女』保護モードと侵入者排除モードガ競合…』
アルゴスの動きが完全に停止した。赤い単眼が激しく明滅を繰り返し、機体全体からバチバチと火花が散り始める。内部システムが深刻な矛盾に陥っているようだ。
「今よ、蓮! 行って!」
ユキが蓮に向かって叫んだ。彼女自身、アルゴスを抑えるために相当な精神力を消耗しているのか、顔面は蒼白で、肩で息をしている。
「ユキさん…!」
蓮は一瞬ためらったが、彼女の決意に満ちた瞳を見て、すぐに踵を返し、広場の中央、巨大な柱――封印の核――へと駆け出した。
如月も後を追う。
「蓮くん、気をつけろ! 何かあれば私が!」
蓮は巨大な柱の根元にたどり着いた。そこは、まるで強力なエネルギーの嵐の中心のようだった。空気がビリビリと震え、肌が粟立つ。柱の表面には、近づくと分かる微細な亀裂がいくつも走り、そこから禍々しい黒い霧のようなものが滲み出している。これが『虚』の汚染か…!
すると、柱の根元、台座の中央部分が、まるで巨大な蕾(つぼみ)が開くかのように、ゆっくりと割れ始めた。中から現れたのは、家ほどもある巨大な、水晶の塊だった。
水晶は本来、透き通るような青白い輝きを放っていたのだろう。だが、今はその大部分が墨を流したようにどす黒く濁り、不気味な赤い光を内部で明滅させている。『虚』の汚染は、蓮の想像以上に深刻だった。水晶全体が、あたかも苦痛に呻いているかのように、低く不協和な振動を発している。
(これが…封印の核のコア…!)
蓮は水晶の前に立ち、目を閉じた。全身全霊で『魂響』を集中させる。自分の意識を、水晶が本来持つはずの清浄な『響き』に同調させるのだ。
最初は難しい。水晶から発せられる『虚』の汚染された波動が、蓮の精神をかき乱し、引きずり込もうとする。頭痛、吐き気、幻聴、幻覚…。様々な妨害が襲い来る。
(負けるな…!)
蓮は意識の境界を強く保ち、自分の内なる『響き』を探る。朧月市で育った自分。古文書に触れるのが好きだった自分。師匠との出会い。ユキとの邂逅。初めて鏡で見た、見慣れない自分の顔。恐怖、怒り、決意…。それら全てが、水上蓮という存在を形作る『響き』なのだ。
(俺は、俺だ!)
蓮は心の中で叫んだ。その瞬間、彼の『魂響』が澄んだ藍色の輝きを増し、力強く響き始めた。その響きは、水晶から発せられる本来の清浄な波動と、ぴたりと共鳴した。
(合った…!)
共鳴が起こった瞬間、蓮の意識は水晶の内部へと流れ込んだ。そこは光と闇が激しくせめぎ合う混沌の世界。青白い清浄なエネルギーと、赤黒い『虚』の汚染エネルギーが、互いを打ち消し合い、喰らい合う、壮絶な戦場だった。
(ここに、俺の力を…!)
蓮は、自らの『魂響』――清浄なエネルギーと共鳴した、増幅された意志の力――を、赤黒い汚染の中心へと叩きつけた! それは破壊ではない。調和を取り戻すための、力強い『調律』だった。
ゴオオオオオォォォ…!!!
水晶全体が激しく振動し、眩いばかりの光を放つ! 赤黒い汚染が、あたかも朝日を浴びた闇のように、少しずつ押し返され、浄化されていく!
「やったか!?」
如月が叫ぶ。
しかし、事態は単純ではなかった。『虚』は、ただ浄化されるだけの存在ではない。それはあらゆる存在を『無』に引きずり込もうとする、貪欲な虚無そのものだ。
蓮が汚染を押し返したことで生まれた僅かな『隙間』。そこに、『虚』の本体から更なる悪意と力が流れ込んできた!
『―――グ…アアアアア…! コノ…小僧…! 我ガ『門』ヲ…塞ぐとイウノカ…!?―――』
おぞましい声が、水晶内部から、いや、蓮の魂に直接響き渡る!
次の瞬間、水晶の中心部から漆黒の触手のようなものが無数に伸び、蓮の意識を捕らえようと襲い掛かってきた!
「うわあああっ!」
蓮は、魂ごと『虚』に引きずり込まれる感覚に襲われた。全身の力が抜け、意識が急速に遠のいていく。水晶の輝きが再び翳り、赤黒い色が勢いを増して広がっていく。
(ダメだ…! これが…限界…!?)
その時。
『―――まだ…諦めないで…!―――』
どこからか、ユキの声が聞こえた気がした。
『―――私も…一緒に…! 私の…残された力を…あなたに…!―――』
蓮の意識の中に、暖かく、しかしどこか物悲しい、白い光が流れ込んできた。ユキの『魂響』だった。彼女が持つ、『虚』を映し出し、そして僅かながら制御する力。
二つの『魂響』が重なり合う。蓮の『在ること』を肯定する力と、ユキの『無』を映し出す力。それは正反対でありながら、互いを補完し合う、奇跡的な融合だった。
「おおおおおおおおおおおおッッ!!」
蓮の全身から、これまでにないほど強力な、藍色と白色が混じり合った、虹色のオーラが迸った! その光は水晶内部の漆黒の触手を焼き払い、赤黒い汚染を猛烈な勢いで浄化していく!
水晶は本来の輝きを取り戻し始めた。透き通るような青白い光が、祭祀場全体を照らし出す。不協和な振動は消え、代わりに清らかで力強い波動が広がり始める。
封印の核は、浄化され、再活性化されたのだ!
『―――オ…オノレェェェ…!! 小僧…巫女…! 記憶シタゾ…!! 次コソハ…オ前タチ諸共…全テヲ無ニ…!!―――』
『虚』の断末魔のような声が響き、やがて完全に消え去った。
「…はぁ…はぁ…」
蓮は、その場に膝をつき、荒い息をついた。全身の力は使い果たしたが、魂は燃え尽きていない。むしろ、ユキとの力の融合によって、新たな力が満ちてくるような感覚さえあった。
「…やった…やったんだ…!」
成功だ! 彼らは封印の核を救ったのだ!
安堵した蓮が顔を上げると、驚くべき光景が目に飛び込んできた。
浄化され、輝きを取り戻した核の水晶。その表面に…『鏡』のように、外界の光景が映し出されていたのだ。
水晶に映し出されたのは――地上の、朧月市の街並みだった。
だが、その光景は、蓮が知る静かな街ではなかった。空は不気味な赤紫色に染まり、あちこちで建物が崩壊し、火の手が上がっている。道路には亀裂が走り、人々が恐怖に叫びながら逃げ惑う姿が見える。
そして何より衝撃的だったのは、街の中心部、図書館があると思われる辺りの上空に、巨大な、渦を巻く『漆黒の穴』が出現していたことだ。それは『虚』へと繋がる巨大な『門(ゲート)』以外の何物でもない。穴からは、黒い霧のような『虚』の力が絶えず地上に降り注ぎ、街を侵食している。
「な…なんだ、これは…!?」
蓮は愕然とした。
「そんな…馬鹿な…!」
駆け寄ってきた如月も、水晶に映る光景に絶句している。
「我々が核を浄化したというのに…なぜ地上がこんなことに…!?」
その時、彼らの背後から力なく、しかし切迫した声が聞こえた。
「…罠…だったのよ…」
振り返ると、そこにはアルゴスを抑えきって倒れ込み、半透明になりかけたユキが、苦しげに喘ぎながら答えていた。アルゴスはユキの傍らで機能を停止したかのように静止している。
「『虚』は…私たちが核を浄化することすら、計算に入れていた…。核の浄化と再活性化によって放出される膨大なエネルギーを利用して…地上に、より巨大で安定した『門』を開くこと…それが奴の本当の狙いだったのよ…!」
「なんだって!?」
「私たちがここで戦っている間に…地上の『盾』は…もう…!」
ユキの言葉通り、水晶に映る朧月市の上空の『穴』は、見る見るうちに拡大していく。そこから溢れ出す『虚』の力は、もはや黒い霧ではなく、形を持ち始めた異形の怪物のような姿を取り始めていた。
「…間に…合わなかった…」
ユキは、絶望に染まった瞳で、水晶に映る滅びゆく故郷を見つめた。
蓮は、目の前の光景とユキの言葉に、全身の血が凍るような感覚を覚えた。自分たちは、最悪の事態を招いてしまったというのか?
(嘘だ…こんな…こんなはずじゃ…!)
核を浄化した安堵感は一瞬で吹き飛び、巨大な絶望と焦りが彼を襲う。
地上の人々は? 街は? このままでは、朧月市は完全に『虚』に飲み込まれてしまう!
「師匠! ユキさん! まだ何か…何か方法はないんですか!? 地上に戻って、あの『門』を閉じる方法は!?」
蓮は叫んだ。
如月は唇を噛み締め、首を横に振った。
「…これほどの規模の『門』を閉じるなど…我々の一族の知識にもない…。ましてや、今の我々の力では…」
「そんな…」
蓮が膝から崩れ落ちそうになった、その時。
「…一つだけ…可能性が…あるわ…」
ユキが、最後の力を振り絞るように、掠れた声で言った。
「え…?」
蓮は顔を上げた。ユキは、真っ直ぐに蓮を見つめていた。その瞳には、諦めではなく、ある種の覚悟と、狂気にも似た強い光が宿っていた。
「この…祭祀場の…本当の力…『時』を超える力を…使うのよ…」
「時を超える力…?」
「ええ…。それは…禁忌中の禁忌…。一度使えば、何が起こるか分からない…世界そのものを歪めてしまうかもしれない…でも…」
ユキは、震える手で自分の胸元…白い着物の合わせ目を指差した。
「私の…この魂に刻まれた『鏡』の力と…蓮、あなたの『魂響』…それに、この浄化されたばかりの封印の核のエネルギー…その三つを完全に融合させれば…あるいは…」
彼女は苦しげに息をつぎ、しかし決然と言い放った。
「過去へ…『虚』がこの街を侵食するよりも前の時点へ…あなたの意識を…飛ばすことができるかもしれない…!」